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2020年6月29日 (月)

2020年6月29日(月)の聖教

2020年6月29日(月)の聖教

◆今週のことば

 新時代の「青年の月」だ。
 地涌の誓願の若き命に
 越えられぬ試練はない。
 舞を舞うがごとく
 歓喜踊躍の前進を!


◆名字の言 新たな栄光の共戦譜を    2020年6月29日

 日に1度は必ず御書を手にし、年頭から全編拝読に挑む青年部員。彼は、充実の日々をこう表現する。「毎日、日蓮大聖人から個人指導を受けている気持ちになります」と▼「立正安国論」など法門についての論文に、教義の深遠さを知り、世界が開ける。門下を激励する御消息文に、自身も励まされ、勇気が湧く――時代を超え、大聖人から信心の薫陶を受けていると思うと、研さんにも真剣さが増す▼御聖訓に「(法華経の文字は)肉眼の者は文字と見る。(中略)仏は一字一字を金色の釈尊、つまり仏の生命そのものと見る」(御書1025ページ、通解)とある。同じ御文でも、拝する人の境涯や一念によって、理解の深さはいかようにも変わる▼現在、池田先生の会長就任60周年記念年譜『栄光の共戦譜』が友に贈呈されている。収録された年表に先生の死身弘法の軌跡を学びつつ、その行間から、当時の自身が宿命と戦いながらも師と紡いだ“わが栄光の共戦譜”がよみがえる友も多いことだろう▼同書は“あの時の誓いと奮闘を忘れてはならない”“これからも共に人生を開いていこう”との思いがこもる、先生から私たち一人一人への励ましともいえる。学会創立100周年へ、新たな師弟凱歌の歴史を築いていこう。(城)


◆寸鉄

「他人なれどもかたらひ
ぬれば命にも替る」御書。
一本の電話も真心込めて
     ◇
全てを価値創造に転じて
いけるのが創価の智慧―
恩師。勇敢に困難に挑め
     ◇
人は大きな目的があって
こそ大きくなる―詩人。
我らは立正安国のために
     ◇
感染の誤った情報に触れ
ていた人は7割―総務省
正確な情報が不安除く要
     ◇
警察等装い訪問する詐欺
多し。銀行カードは他人
に絶対渡すな。厳重管理


◆社説 2020・6・29 あす「学生部結成記念日」 歴史の転換点に立つ使命

 あす30日は「学生部結成記念日」。
 1957年(昭和32年)6月30日、第2代会長・戸田城聖先生のもとに500人の男女学生の代表が集い、学生部は誕生した。池田先生は、北海道・夕張の地から祝福の電報を送り、次代を担う俊英たちの成長に深い期待を寄せた。
 コロナ禍の中、男女学生部は、「結成の月」である6月を「希望の哲学を胸に! 先駆励まし月間」として、オンラインを中心とした励ましの拡大と、教学の研さんに取り組んできた。
 男子学生部のあるグループ長は、自身が主催したオンラインの集いに3人の友人を招待。自作のスライドを画面に映しながら、仏法の哲理を語った。3人とも熱心に聞いてくれ、学会への理解を広げることができたという。
 今、新型コロナウイルスの大流行で、人類は大きな試練の渦中にある。多数の人命が奪われるとともに、都市や国境の封鎖で人や経済の動きが止まったことにより、世界的な不況も危惧されている。
 日本の大学生らも、思うように進まない就職活動や授業の遅れ、経済的な苦境など、さまざまな困難に直面する。
 こうした「危機の時代」だからこそ、未来を開くためのビジョンや哲学、強き信念、希望の連帯が求められている。
 ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツ氏らは、「ウィズコロナ」の時代に求められる力は「レジリエンス」だと語る(NHK NEWS WEBから)。レジリエンスとは「困難を乗り越える力」。心理学でも研究が進んでおり、レジリエンスを発揮する要素の一つとして、「信仰に基づく利他の行為」が挙げられている。
 自分だけの成功や幸福を願うのではなく、友の幸福を祈り、社会の繁栄、世界の平和のために行動していく――そうした生き方をしている人は、苦難に対して強い。人間の中には「他者のため」に行動するときに発揮される、「潜在的な力」があるのであろう。
 これは仏法の視点でいえば「菩薩界」の生命であり、私たち学会員が日々、実践している生き方である。
 池田先生は学生部に対して、「生命尊厳、人間尊重の大仏法を真摯に探究し、勇敢に実践する学生部こそ、父母をはじめ、恩ある衆生に誠実に尽くしながら、『同じ地球で共に生きる』平和と人道の大連帯を広げゆく先駆のリーダー群なのである」と万感の思いを寄せている。
 歴史の転換点に立つ今だからこそ、仏法の人間主義を学び、実践する学生部の使命は大きい。一人一人が英知と人格を磨き抜き、新たな時代を開く人材として羽ばたくことを祈りたい。


◆きょうの発心 御義口伝 福井総県副総県長 石橋壮一郎 2020年6月29日

御文 始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり(御義口伝、788ページ・編1634ページ)
通解 初めて自分の心が本来の仏であると知ることを、すなわち大歓喜と名づける。
いわゆる南無妙法蓮華経は、歓喜の中の大歓喜である。

日々、決意新たに誓願の人生を
 自身の中に仏の生命があると知り、唱題することこそ、最高の歓喜である、との仰せです。
 “何のために生きるのか”と、漠然とした迷いを抱えていた学生時代。友人から仏法の話を聞き、入会しました。
 題目を唱えると生命力が湧き、御書に説かれる仏法の深い生命哲理に、目が覚める思いでした。
 小説『人間革命』を読み、創価三代の師弟の精神に感動。さらに“師と共に広布に生き抜こう”と、使命を知った喜びを胸に、4人の友人に弘教を実らせることができました。
 その後、家業を継ぐため郷里の福井へ。無理解の両親のもと、妻と共に地域広布に励みました。周囲に共感が広がっていく姿を見て、母も入会。3人の娘たちも、創価の学びやで育んでいただき、使命の道を歩んでいます。
 日々、小説『新・人間革命』に学び、師への報恩を胸に、新たな決意で誓願の人生を歩んでまいります。


【先生のメッセージ】

◆〈心に御書を〉56題目の功力は絶大

〈御文〉
 法華経の題目をつねは・となへさせ給へば此の妙の文じ御つかひに変ぜさせ給い・或は文殊師利菩薩或は普賢菩薩或は上行菩薩或は不軽菩薩等とならせ給うなり
(妙心尼御前御返事、1484ページ)

〈通解〉
 (あなた<妙心尼>は)法華経の題目を常に唱えられているのだから、この「妙」の文字が(冥途の故入道殿への)御使いに変じられ、あるいは文殊師利菩薩、普賢菩薩、上行菩薩、不軽菩薩となられるのである。

〈池田先生が贈る指針〉
 最愛の家族を亡くした方への励ましである。
 妙法は、地球を動かし、太陽を輝かせ、大宇宙を運行させる究極のリズムである。十方の仏菩薩を味方にし、わが眷属も生死を超えて護り抜ける。
 題目の人に行き詰まりはない。最極の智慧も勇気も忍耐力も涌現する。必ず“一番、良かった”と言い切れる人生の軌道となるのだ。

【教学】

◆〈日蓮大聖人の慈愛の眼差し〉 大田乗明
 壮年こそ安心と確信の柱
 下総地域で富木常忍、曾谷教信らと共に奮闘 大聖人から重要な御抄を頂くなど信頼厚き門下

千葉・銚子市の犬吠埼の海岸から旭日を望む。今や日蓮仏法の人間主義の哲理は、混迷の闇を打ち破る光として、世界を照らす

千葉・銚子市の犬吠埼の海岸から旭日を望む。今や日蓮仏法の人間主義の哲理は、混迷の闇を打ち破る光として、世界を照らす


 壮年には、社会の荒波をくぐり抜けてきた経験がある。度胸がある。風格がある。

 一家も職場も地域も、重鎮たる壮年世代に覇気があれば、活気があふれ、隆々と発展していく。
 日蓮大聖人の御在世当時、多くの男性門下が信心の歩みを重ね、「広布の黄金柱」の壮年として活躍した。その一人が大田乗明である。
 大聖人の励ましを胸に、自らの苦難と立ち向かいながら、妙法流布に生き抜いた。大聖人のお手紙からは、その求道の姿勢に対する信頼や期待の大きさをうかがうことができる。

妻と共に真心の供養を行う
 大田乗明は、下総国葛飾郡八幡荘中山(現在の千葉県市川市中山)に住んでいた門下である。生年は大聖人と同じ貞応元年(1222年)と考えられている。早い時期から大聖人に帰依したとされ、下総方面(現在の千葉県などの一部)の中心的門下だった富木常忍や曾谷教信らと支え合いながら、純真な信心に励んだ。
 大聖人が乗明、教信ら3人の門下に宛てられた「転重軽受法門」の内容から、文永8年(1271年)の竜の口の法難の直後、相模国の依智(現在の神奈川県厚木市)に留め置かれた大聖人のもとに、お見舞いを申し上げていることが分かる。この時、3人一緒に大聖人を訪ねたのかどうかは定かではないが、師匠の最大の難にあっても信心を貫いたのである。
 また、大聖人が身延に入山された翌年の同12年(1275年)3月、乗明は教信との連名でお手紙を頂いている(御執筆年を、これ以前とする説もある)。当時、あらゆる難との闘争の中で、大聖人が所持されていた聖教(経釈などの書籍)の多くが失われていた。大聖人は、こうした経典類の収集を二人に依頼された。
 大聖人はその際、「両人共に大檀那為り」(御書1038ページ)と記されている。「檀那」とは、在家の有力な信仰者との意味で、仏教教団を経済的に支える人を指す。「大檀那」との仰せに、いかに大聖人が、この二人の門下を重んじられていたかを拝することができる。
 そんな乗明に試練が襲い掛かったのは、同じ年の建治元年(1275年)11月頃。病気に悩まされていることを、大聖人に御報告している。これに対する御返事の中で大聖人は、乗明の病気は、今までの真言の信仰を悔い改める心を起こしたゆえに、未来世に受ける重い苦しみを今、軽く受けているのであり、病を治して長寿とならないことがあるだろうか(同1011ページ、趣旨)と、万感の励ましを送られている。
 また、大聖人の身延入山後も、乗明は夫人と共に、米や銭、衣服などの御供養を続けている。大聖人は、そのたびに心からの感謝の念を表されるとともに、供養の功徳は、計り知れないほど偉大であることを教えられている。
 例えば、建治3年(1277年)11月に、乗明の夫人が小袖(袖丈の短い衣服)を御供養した際には、その功徳により、後生(未来世)において極寒に責められるという苦しみを免れるだけでなく、今生には種々の大きな難を払い、男女の子どもたちにまでその功徳が及ぶ(同1013ページ、趣旨)と仰せになっている。
 
 頂いたお手紙の内容から、乗明の夫人が、信心や法門の理解の上でも優れた女性であったことがうかがえる。真心の御供養をはじめ、師匠のために尽くし抜き、懸命に信心に励む功徳は、自らを包み守ることはもちろんのこと、子どもたちにまでも及んでいく――大聖人の確信の言葉に、夫人は夫と共に、偉大な師匠と最極の妙法を持つ人生の喜びを実感したに違いない。

師匠の精神を後世に伝える
 大聖人は、求道心にあふれた乗明の信心の姿勢を、最大に称賛されている。弘安元年(1278年)4月に送られたお手紙で、次のように述べられている。
 「あなた(乗明)が、私(大聖人)の教えを聞いてからは、それまで信仰していた真言宗への執着をきっぱり捨てて法華経に帰依し、ついには自己の身命よりも法華経を大事に思うほど、強盛な信心を確立するまでになった。これはまことに不思議なことである」(同1015ページ、趣旨)
 このような仰せからも、乗明が確固たる信仰の基盤を築いていたことが分かる。他の御抄では、「聖人」や「上人」とまでたたえられている。
 ところで、このお手紙を頂く前に、乗明は「自分は厄年に当たっており、そのためか、心身共に苦悩が多くなりました」(同1014ページ、趣旨)と、大聖人に報告したようだ。
 これに対して大聖人は、「法華経を受持する者は教主釈尊の御子であるので、どうして梵天・帝釈・日月・星々も、昼夜に、朝夕に守らないことがあろうか。厄の年の災難を払う秘法として法華経に過ぎるものはない。まことに頼もしいことである」(同1017ページ、通解)と仰せになっている。
 法華経を持つ者は、諸天善神に必ず守られる。いかなる難も法華経の信仰で免れることができる――師の励ましに、大きな勇気を得た乗明は、一層、信心を深めていっただろう。
 その後、乗明は「三大秘法禀承事(三大秘法抄)」を与えられている。三大秘法とは、大聖人が明かされた前代未聞の三つの重要な法理であり、大聖人の仏法における根幹である。この重書を後世へと託されたこと自体が、乗明に対する大聖人の深い信頼の表れであるといえよう。
 乗明は、大聖人が弘安5年(1282年)10月13日に御入滅になられた後、その翌年の同6年(1283年)4月26日に亡くなったとされている(他の説もある)。師匠から重要な御抄を頂くとともに、最期まで、それを後世に伝えゆく、使命の生涯を送ったのである。
 池田先生は、下総地域で奮闘した三人の男性門下について、次のようにつづっている。
 「下総方面の中心であった、富木常忍、大田乗明、曾谷教信も壮年である。(中略)この壮年たちが、今こそ立ち上がろうと、勇猛果敢に戦い、同志を励ましていったからこそ、大法難のなかでも確信の柱を得て、多くの人びとが、信仰を貫き通せたにちがいない。壮年がいれば、皆が安心する。壮年が立てば、皆が勇気を燃え上がらせる。壮年の存在は重い。その力はあまりにも大きい」
 一人の壮年が揺るぎなき信心で立ち上がり、師匠のため、広布のために尽くす実践は、全てが福徳となり、自身のみならず、一家の勝利を開いていく。そして、周囲の人々にも励ましの輪を幾重にも広げていけるのである。


【聖教ニュース】

◆〈SDGs特集〉京都産業大学 伊藤公雄教授に聞く 2020年6月29日
 生産性最優先から脱し、多様な“生”が輝く社会へ

 貧困や差別をなくし、誰も置き去りにしない社会を目指す国連のSDGs(持続可能な開発目標)。17ある目標の全てと深く関わるテーマが、女性に対する差別の克服と男女の平等だ。目標5「ジェンダー平等を実現しよう」の達成に向けて、現在の課題や今後の社会の在り方などについて京都産業大学の伊藤公雄教授に聞いた。(聞き手=南秀一)

 【プロフィル】1951年生まれ。京都大学名誉教授・大阪大学名誉教授。専門は文化社会学、メディア研究、ジェンダー論。内閣府男女共同参画会議専門調査会委員、同男女共同参画の将来像検討会座長代理、国連人口基金東京事務所アドバイザリーコミッティ委員、日本ジェンダー学会会長などを経て現職。日本学術会議会員、国立女性教育会館監事などを務める。
性の気質や役割は文化や時代によってつくられる

 ――「ジェンダー」という言葉は、「社会や文化によって(後から)形成される男女の性差」といった説明がされます。
 
 男性の役割、女性の役割といった性別に基づく枠付けは、ほとんどの社会に存在してきました。ヨーロッパの多くの言語には、男性名詞・女性名詞のように、男女区分が存在しています。男性と女性(の領域)という二分法は分かりやすいこともあり、人間が世界を把握するためのベースにあったのでしょう。 
 しかし、いわゆる“男らしさ”“女らしさ”が象徴するものは文化や時代によって異なります。つまり、男性・女性の気質や役割は、その文化や時代によってつくられたものだといえます。 
 思想家のイバン・イリイチは近代以前の人間社会を洞察し、地域や時代ごとに特殊な男女の役割があり、互いに助け合って社会が成立していたと論じました。前近代社会では、男女の役割は厳しく固定されていましたが、当時はそれが差別的だと意識されることはあまりなかったのです。

近代産業社会で男性優位が顕在化
 ――近代以降は、どのように変化してきたのでしょうか。
 
 工業化が進んだ近代産業社会においては、とかく生産性や効率が追求され、計算しやすい労働力の確保が重要になります。すると、妊娠・出産の期間がある女性は労働力として計算しにくくなる。
 結果、女性は結婚すると生産活動から排除され、労働力である男性、次世代の労働力となる子ども、かつての労働力だったお年寄りをケアする役割が割り振られるようになっていきました。
 そこでは生産労働である男性の労働が“公的なもの”とされ、女性は無償で“私的な労働”に従事することになる。前近代社会では見えていなかった男性優位の仕組みが、顕在化したのが近代産業社会の特徴といえるでしょう。この仕組みは経済的には非常にうまく機能したため、工業化が始まると世界中がほぼ同じ道をたどっていったのです。
 しかし、1970年代ごろから、社会は生産労働から情報やサービスを軸とする産業へと転換し始めました。そこで必要とされるのは主に企画力や調整能力であり、性別は関係ありません。こうした産業構造の変化もあって70年代以降、世界で女性の社会参画が進んできたのです。

日本には男女平等の先進的な制度が存在
 ――日本社会はどのような変遷をたどってきたのでしょうか。
 
 ヨーロッパと対比して“遅れた日本”と評されることがありますが、歴史的に見れば、必ずしもそうではありません。
 『万葉集』には7、8世紀の庶民の女性の歌も収録されており、10世紀には紫式部や清少納言、和泉式部らが活躍しています。これは古代の日本で女子教育が一定程度、存在していた証しでしょう。同時代のヨーロッパの女性作家がほとんどいないのと対照的です。
 また、1960年代後半以降の欧米を中心とするフェミニズム運動の二大テーマは、離婚と中絶の合法化でした。日本ではいずれも第2次世界大戦後に法的に認められており、当時、少なくとも法律上は、先進的な男女平等の制度が整っていたといえます。

アメリカ・ニューヨークの国連本部で開催された「女性の地位委員会」(昨年3月)。SGIの代表も出席し、公式関連行事を主催した

アメリカ・ニューヨークの国連本部で開催された「女性の地位委員会」(昨年3月)。SGIの代表も出席し、公式関連行事を主催した

成功体験から抜け出せない日本社会
 ――一方で、世界経済フォーラムが発表している「ジェンダー・ギャップ指数」(男女平等の度合いを示す指数)で日本は昨年、121位。SDGsにおいてもジェンダー平等の取り組みが課題だと指摘されています。
 
 世界が70年代にジェンダーの分野で大きな変化を遂げる中で、日本は変わらなかった。要因の一つに、団塊の世代が、巨大な労働力として社会に出た時期と重なったことがあります。
 いわゆる人口ボーナスで、人口の編成が経済成長に非常に有利に作用した。加えて、地方から都市への人口移動が起きました。都市に出た若い男女が結婚して、子どもが生まれる。すると祖父母や地域の支えがない都会では、どちらかが仕事を辞めなくてはならず、賃金格差を考えて女性が家に入る

――こうした仕組みが60年代から70年代に確立していったのです。
 
 一方、男性は長時間労働で所得が急激に上昇していく。そこに家族基盤充実政策の一環として、いわゆる税金の“103万円の壁”(編集部注=一般に、配偶者の年収が103万円を超えると控除の対象者とならなくなること)などができる。低い給料で抑えられる女性の労働力と長時間働く男性の労働力という組み合わせで、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の仕組みができあがったわけです。
 日本社会の安定には女性の社会参画が不可欠であることは、長く主張されてきました。しかし、70~80年代の成功体験からいまだ抜けきることができていないのです。

SDGsは共生と多様性の鍵
 ――SDGsの目標5は「ジェンダー平等を実現しよう」とうたっています。そのためには、どのような努力が必要でしょうか。
 
 繰り返しになりますが、男性主導の産業社会においては、生産性や効率、利益に価値が置かれていました。その追求のためには他者との関係や自然を破壊することもいとわず、人間関係はお金で換算されるようになり、自然を破壊して生産性を確保する社会になってしまったわけです。
 そうした価値観を転換しなければ、ジェンダー平等はもとより、自然との共生も、性的少数者や障がい者を含む多様な人が生を全うできる社会の構築は難しいでしょう。SDGsは、そうした転換の鍵を握ると思います。
 特に日本は、すでに高齢社会を迎えています。生産性優先の焦り過ぎ、急ぎ過ぎの仕組みとは違う社会の再設計を、少子高齢社会を見据えながら進める。そこに、日本ができる人類への貢献もあるのではないでしょうか。

女性平和文化会議が主催し、ジェンダー平等について学んだ講演会(昨年12月、東京・新宿区の戸田記念国際会館で)

女性平和文化会議が主催し、ジェンダー平等について学んだ講演会(昨年12月、東京・新宿区の戸田記念国際会館で)

異に配慮をしながら差別や排除のない仕組みを
 ――創価学会女性平和文化会議では昨年、10代から30代の女性を対象に、SDGsに関するアンケートを実施しました。ジェンダー平等への関心を高めるために、学校教育の重要性を指摘する声も多く寄せられました。
 
 学校教育は重要でしょう。アンケートの回答者の約7割が、ジェンダー問題について知っているという事実にも驚きました。
 日本で今後必要なのは、ジェンダー平等について男女で話し合っていくことだと思います。家庭や地域、職場等で、もう少し自由に語り合える仕組みが必要でしょう。
 男女平等といっても、男女の状況を機械的に「同じ」にすればよいということではありません。例えば男女のトイレの面積を「同じ」にしたら、女性の方がはるかに時間がかかるわけです。性差に対してきめの細かい配慮をしながら、性別が差別や排除につながらない仕組みをつくっていくことが男女平等の基本的な方向です。
 アンケート結果にもありましたが、ジェンダーの問題は女性の問題だと思っている人も多い。実際は男性の問題も大きいわけですから、互いの思いを伝える中で変化が起きていけばと願っています。


【特集記事・信仰体験など】

◆池田先生の会長就任60周年 青年部が原田会長に聞く Ⅱ部
 第11回 未来を照らす人間教育の光⑤

〈出席者〉西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長

「人生最後の事業」と定め、発展に全力 
世界に広がる創価の学びや

香港創価幼稚園を初訪問する池田先生。園児たちに「香港幼稚園は 私の生命なり」との言葉を色紙にしたため、贈った(1993年5月15日)

香港創価幼稚園を初訪問する池田先生。園児たちに「香港幼稚園は 私の生命なり」との言葉を色紙にしたため、贈った(1993年5月15日)

 ◆西方 東西の創価学園、創価大学に続いて、1976年(昭和51年)には、札幌創価幼稚園が開園しました。なぜ、北海道だったのでしょうか。
  
 ◇原田 幼稚園設立も明確に戸田先生のお考えにありました。1955年1月、池田先生は、戸田先生と共に高知を訪問しました。その際の質問会で「学会は学校をつくらないのですか」との問いに対し、戸田先生は「今につくります。幼稚園から大学まで。一貫教育の学校をつくる。必ず、日本一の学校にするよ!」と答えられたのです。この時の、幼稚園から始まる創価一貫教育という戸田先生の構想を、池田先生はしっかりと受け止められていたのです。
 どこに幼稚園を開設されるか、先生は思案されていました。北海道は牧口先生、戸田先生の故郷です。そして、札幌は牧口先生が教師として初めて教壇に立った地です。池田先生が北海道の地を選ばれたことに、牧口、戸田両先生への深い敬意を感じずにはいられません。
  
 ◆大串 池田先生は開園の前日にも札幌創価幼稚園を訪問され、教職員と懇談してくださいました。そこで、「創価教育の最初の『教育の門』が完成しました」と語られています。
  
 ◇原田 そうです。入園式当日、先生は自ら園児を出迎えようと、幼稚園の玄関に立ち、一人一人に「よく来たね」「仲良くするんだよ」と優しく声を掛けられていました。また「一緒に記念撮影をしようね」と次から次へと、園児を招き寄せ、ひざの上に抱っこして、記念のカメラに納まっていました。
 入園式にも出席された先生は、式が終わってからも、ロビーで園児たちに童話を語ったり、皆にクレヨンやノートなどをプレゼントしたりと、励ましを送り続けました。
 入園式の日、当初は予定になかったのですが、先生は帰宅のバスの運行を提案し、ご自身も園児らと共に同乗されました。思い出をつくってあげたい、とのお気持ちと同時に、通園の状況、特に安全面も確認されたかったのだと思います。
 車内は、園児が先生を囲むように席に座り、歌をうたったり、なぞなぞをしたりと、和やかな雰囲気に包まれました。乗降場所で園児がバスから降りるたび、先生は、「さようなら。また明日ね」と、手を振って見送りました。子どもたちも「先生、ありがとう! さようなら」と元気いっぱい挨拶をし、心温まる交流を続けられたのです。
 成長を願い、全力で園児と関わる先生の姿に接した教職員や保護者も、深い感動に包まれたことは言うまでもありません。

各国の幼稚園も高い信頼と評価
 ◆大串 現在、創価幼稚園のネットワークは香港、シンガポール、マレーシア、ブラジル、韓国に広がりました。先生も海外指導のたびに足を運ばれ、園児たちと交流されています。
  
 ◇原田 92年9月、海外で初めてとなる創価幼稚園が香港の地に誕生しました。翌年5月には先生が初訪問されています。
 今、世界中が新型コロナウイルスの感染拡大と戦っていますが、2003年には新型肺炎(SARS)の猛威が香港を襲い、教育機関の休園・休校が広がりました。創立者である池田先生は即座に子ども用のマスクを多数用意し、香港創価幼稚園に贈られたのです。
 先生の真心に触れ、香港創価幼稚園では教職員が、自分たちも子どもたちのために、何かできることはないか、真剣に知恵を出し合いました。そして、各家庭で学習を進められるように、授業の内容を録画したビデオCDを作成し郵送しました。内容も素晴らしく、園児からも大好評だったそうです。
 こうした対応が評価され、約2カ月後、授業が再開した際には、香港の教育長官が同園を訪れました。衛生面での対策が万全であることから、香港創価幼稚園は衛生教育の「モデル校」として選ばれたのです。
 海外の創価幼稚園が現地で信頼され、実績を重ねている様子は、創価教育の持つ普遍的な力を社会に広く証明していることにほかならないと思います。 

2001年5月3日――待望のアメリカ創大が開学
師の構想を実現した弟子の闘争
 ◆林 2001年、アメリカ創価大学オレンジ郡キャンパスが開学しました。先生は、アメリカ創価大学の設立構想を、いつごろから練られていたのでしょうか。
  
 ◇原田 先生は創価大学が開学した当初から、アメリカにも大学をつくる構想を周囲に語られていました。その上で、本格的に着想されたのは1975年1月、SGI発足へ向かう戦いの中にあった時だと思います。この頃、先生は繰り返し繰り返し、「アメリカにも創価大学をつくりたいな」との思いを語られていました。先生の壮大な世界平和への構想のひとつに、アメリカ創価大学があったことは間違いありません。
 先生は80年10月、さらに翌81年前半には3度訪米されています。また、同年1月には、用地取得に向けた最初の視察団がアメリカを訪れるなど、具体的な動きが始まりました。
  
 ◆西方 この時期は第3代会長辞任から、反転攻勢の戦いを起こされていた時です。壮絶な闘争の中でも、創価教育のさらなる発展を願い、行動されていたことに感動を禁じえません。
  
 ◇原田 84年3月10日には、先生が出席され、カリフォルニア州サンディエゴ市の郊外で、創価大学サンディエゴ校の起工式が行われました。
 先生はあいさつの中で「人間の人間たる一つの証しは、学問をすること、真理の探究にあるといってよい。平和と文化の発展といっても、学問つまり教育の向上がその基本となる」と訴えられ、人類社会に貢献する人材を輩出したいと語られました。そして「もし私の代に完成しない場合には、私の遺志を継いで何十年かかろうとも、その実現をお願いしたい」と語られたのです。
 私も参加しておりましたが、先生が語られた遠大な創価教育の未来像に会場から深い感動の拍手が送られました。
 その後、市当局の方針が変わり、同地での建設は見送られましたが、関係者らが尽力する中、87年2月3日にロサンゼルス市近郊のカラバサスに、創価大学ロサンゼルス分校が開所。先生は同キャンパスを幾度も訪問され、学生を激励されるとともに、識者との会見を重ねられました。
 ノーマン・カズンズ氏、ライナス・ポーリング博士、ローザ・パークス氏――いずれも、平和と人道のために生涯をささげられた方たちです。
  
 ◆樺澤 95年にはカリフォルニア州オレンジ郡に、待望のアメリカ創価大学の建設が決定しました。
 
 ◇原田 95年3月に開かれた、大学建設の認可を決定する郡の公聴会では、ローザ・パークス氏の代理人から開学を支援する書簡が朗読されました。
 「池田博士は、平和と未来への展望の人であります」「創価大学は、“世界の平和”と“人類の繁栄”という私の信念を共有する大学です。そして、この大学の教育プログラムが、次の世紀にとって極めて重要なものであると、私は考えます」
 公民権運動の闘士として戦ったパークス氏は、アメリカでは誰もが知っている“人権の母”といわれる女性です。そのパークス氏が、アメリカ創価大学の設立に、自ら尽力してくださったのです。
 公聴会では満場一致で開発が許可されました。先生が結んだ識者との信頼の絆が、大学建設への扉を開いていったのです。
  
 ◆林 そして、ついに2001年5月3日、アメリカ創価大学オレンジ郡キャンパスが開学の日を迎えました。
  
 ◇原田 世界中の全同志は、長年にわたって「2001年5月3日」を目指し、師弟の心で全ての活動に取り組んできました。その、あまりにも意義深き佳節に、世界に平和と文化の光を送りゆく「人間教育の最高学府」が誕生したのです。
  
 ◆樺澤 創価三代の会長が築かれた創価教育の真価は、卒業生一人一人がその理念を胸に、今いる場所で活躍することにあると自覚しています。
  
 ◇原田 先生は教育を「人生最後の事業」と定めて、創価教育の発展に尽くし抜いてこられました。そして、第3代会長就任以来、死身弘法の戦いの中、わずか60年で世界各地に教育機関を設立されたのです。その根本は、牧口先生、戸田先生の構想を実現しようとする、池田先生の弟子としての誓願にあったことは言うまでもありません。
 先生は「人間は等しく幸福になる権利をもっている。それを実現するための価値創造の教育、人間主義の教育が創価教育である。ゆえに、一人ひとりが、その実現に生涯を傾けていってこそ、創価教育の結実がある」とつづられています。この思いを胸に、創価同窓の皆さんが世界の平和のため、人々の幸福のために尽くす人生を歩まれることを、期待してやみません。


◆世界の体験プラザ  経済苦、母への怒りを乗り越えた米不動産会社の副社長
 アメリカSGI エリン・ダヤナンさん
 ねたみ、劣等感が募った10代

 私はフィリピン系アメリカ人として、ハワイで生まれ育ちました。祖父母が生活を改善しようと、ハワイ・オアフ島に移住し、サトウキビ栽培の仕事を始めたのです。
 重労働と自己犠牲の暮らしは私の両親に引き継がれましたが、彼らは経済苦に直面しながらも、わが子には良質な教育を受けさせたいと思い、私を私立の学校に通わせました。
 父はスポーツ競技場の管理人を務め、母は長時間労働の用務サービスに従事していました。私は母に会えずに就寝することも、よくありました。夜、父と一緒に、彼女の仕事を手伝ったことも。寝室を片付けたり、ゴミを拾ったり、掃除機やモップをかけたり……。
 経済的苦境はずっと続き、一時期、私たち家族は生活保護を受けていました。自宅からの立ち退きを強制されないよう懇願するため、母は大家に手紙を書き送っていました。私が18歳になるまでに、少なくとも10回の転居を繰り返したのです。
 一家の置かれた状況に恥ずかしさと怒りを覚えていた私は他の子どもたちに嫉妬し、劣等感を抱いていました。
 また、いつも近くにいた父と違い、母には不満が募っていきました。自身を彼女から遠ざけようと、できることは何でもしました。
 2002年、私は高校卒業後、大学に進学するため、米西部オレゴン州のポートランドに一人で住み始めました。両親は大変誇りにしていましたが、過去の人生と決別することばかりを考えていた私は学業に真剣に取り組むことができず、2年後には退学。実家に戻ることになったのです。

正規で働きながら学業に挑戦
 私は学業を途中で諦めたことを後悔しました。運よく就職することができましたが、自身の状況を変えられず、苦しんでいました。人生の未来が見えず、絶望感に覆われていた時、友人が日蓮仏法を紹介してくれたのです。
 何度も会合に誘われては断り続けましたが、ある日、しぶしぶ承諾し、地区座談会に出席しました。
 SGIメンバーとの対話と研さんの内容は、私がそれまで経験したことがないものでした。SGIメンバーは希望や幸福、南無妙法蓮華経の題目を唱えれば、どのように生命が躍動するかについて語ってくれ、陰鬱だった気分は一新しました。その後も、私は会合に参加。この仏法は間違いなく自身を変革することができると確信しました。
 そして05年4月、御本尊を受持したのです。
 私の人生が変わり始めました。両親が教育を重視していたことも、ようやく理解し、私は地元の大学に再び通うことに。正社員として働きながら学ぶことは大変でしたが、大学を卒業することができたのです。
 自身の状況は少しずつ改善されていきましたが、現状に満足するようになると、今度は信仰への情熱が薄れていきました。祈ることをやめ、SGIの活動に参加しなくなってしまったのです。
 10年、私は人生を見直す機会に迫られました。その年の8月、父が心不全で他界。母との関係は断絶してしまいました。
 また、交際中の男性と、その数年前に家を購入しましたが、彼が会社から解雇され、住宅ローンを支払えない状況に追い込まれたのです。
 私たちは互いを責め合うようになり、結局、別々に暮らすことに。その後、家を売却したものの、多額の負債を抱えることになりました。
 経済苦の宿命から逃れ、人生を立て直したい一心で、私は再び仏道修行に励むように。これまでにない真剣な祈りを重ね、池田先生の指導を学びました。
 数カ月がたった頃、銀行の担当者から連絡が入り、“保険の支払いによって負債がなくなった”と伝えられたのです。あの時の驚きと安堵感ははっきり覚えています。

世界広布の原点の地を駆ける
 2011年から大学院に通っていた私は、仕事と学業、SGIの活動に一段と真剣に取り組むようになりました。その頃には、SGIと両親の恩に報いたいと強く願う自分へと変わっていました。
 その当時、私は駐車場の運営会社に勤めていましたが、仕事の手応えを得られず、社会で実証を示したいと祈り続けていました。翌12年、商業不動産の会社から誘われ、転職。未経験の職種で不安でしたが、勤め始めると、やりがいのある、素晴らしい仕事であることが分かりました。
 大学院での研究にも多大な協力を得て、13年11月、私は金融学の修士号を取得することができたのです。
 「職場でなくてはならない存在になろう」と決意し、仕事を通じて自身の使命を実現したいと祈りました。どんな仕事も商業不動産について学ぶ機会と捉え、一つ一つの業務に誠実に取り組みました。
 苦労も多々ありましたが、地道な努力は実り、17年4月、不動産管理担当の副社長に昇格することができたのです。現在は、賃貸事業、財産の管理など、さまざまな業務を担当しています。
 過去を振り返ると、母は自身の姿を通して、困難な時期を粘り強く耐えることを教えてくれました。彼女は私に夢をかなえる機会を提供しようと、自らを犠牲にしました。私は仏道修行を通じ、そのことに感謝できるようになったのです。今では母への怒りはなく、彼女と良好な関係を築いています。
 SGIの組織では、女子部のリーダーとしてメンバーを激励する中、池田先生やハワイの草創期の同志への感謝の念をもつことができました。
 今は地区婦人部長として、広布の最前線で同志を励ましています。
 1960年10月、先生の世界広布の旅はハワイの地から始まりました。その誇りを胸に、太平洋に平和を築こうとされた先生のメッセージを、ハワイの地に広げ、永遠に刻みたいと決意しています。
 これからも報恩感謝の心を忘れず、自身の境涯革命に挑戦し続け、勝利の人生を歩んでいきます。

 

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