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2020年6月24日 (水)

2020年6月24日(水)の聖教

2020年6月24日(水)の聖教

◆わが友に贈る

 就職活動に挑む友を
 皆で励まし応援しよう!
 新たな時代を切り開く
 社会の宝となる存在だ。
 使命の航路へ追い風を!


◆名字の言 生活に根差した戸田先生の『推理式指導算術』 2020年6月24日

 梅雨の風物詩にちなんだクイズを一つ。「カタツムリがいる。昼間に木を3メートル登るが、夜間には2メートル下がってしまう。高さ9メートルの頂上に達するには、何日かかるか」▼“1日に1メートルずつ登る”と決めてかかると、正解にならない。答えは「7日」。7日目の昼に3メートル登れば頂上に着く。戸田先生の『推理式指導算術』に出てくる問いだ。発刊は1930年6月25日で、当時のベストセラーに。カタツムリ算の他にも「旅人算」「年齢算」など内容は多彩である▼哲学者の鶴見俊輔氏も少年時代に同書で学び、難関の中学受験を突破したという。「受験勉強の書であるにもかかわらず、人生経験から勉強に入るように仕組まれていた」と(『鶴見俊輔著作集』筑摩書房)▼どうすれば子どもたちが幸せな人生を送れるか。創価教育を提唱した牧口、戸田両先生の主眼はそこにあった。受験勉強すらも「人生」や「正しさ」について自ら考える機会にと促したのである▼「たゆまざる 歩みおそろし かたつむり」(北村西望)。かつて池田先生はこの句を創価学園生に紹介し、「努力の歩みを決して止めてはならない」と訴えた。環境が大きく変化する中で、一歩を重ねる受験生へのエールにも通じよう。学び続ける人は必ず、青春勝利という頂にたどり着ける。(之)


◆寸鉄

「現世安穏・後生善処」
の妙法。不退の信心を今。
乗り越えられぬ試練なし
     ◇
東京・世田谷女性の日。
婦女の仲良き模範の前進
希望の対話拡大に先駆!
     ◇
体内時計の乱れは心身の
健康悪化に。生活リズム
正しく。朝の祈り根本に
     ◇
小学1年生の交通事故が
多い時期。運転は歩行者
優先で。思いやり持って
     ◇
コロナ関連詐欺が横行。
個人情報は教えず。銀行
カードも渡さず。要警戒


◆社説   あすは「団地部の日」  “幸福責任者”の誇りで進む友

 あす25日は「団地部の日」。1978年(昭和53年)のこの日、第1回「団地部全国大会」が東西で開催され、池田先生が立川文化会館での東日本の大会に出席。「団地それ自体が連帯の象徴であり、そこで信心していることは、家族以上の強い絆で結ばれた社会であると確信していただきたい」と語った。
 三世の生命を説く仏法の眼で捉えれば、同じ団地に住んだことは、決して偶然ではない。家族以上の深い縁をもった間柄なのだ――その思いで、わが団地の発展に尽くし、信頼と友好の絆を広げてきたのが、団地部の友である。
 感染症拡大という未曽有の試練の中でも、友は、粘り強く人々の心を結んできた。
 大阪市住之江区の南港ポートタウン。有名なユニバーサル・スタジオ・ジャパンや海遊館など多くの観光スポットに囲まれ、観光業に従事する方も多い。
 コロナ禍で仕事が激減するなど厳しい状況の中、南港花支部の婦人部では週1回、30分間の“同盟唱題”を実践し、団地全員の安穏と幸福を祈る。唱題後は、ビデオ通話で近況を語り合ってきた
 支部婦人部長と4人の地区婦人部長から始まった“励ましの集い”は現在、音声通話に切り替わり、25人が参加するまでに。
 オンラインの集いには、家族への配慮が必要だ。通信料等の負担が増えないよう、集いを20分にするなどルールも決めた。
 ヤング白ゆり世代のグループ長は、未入会の夫に丁寧に話をし、理解を得て参加。
 また、特筆すべきは、70歳以上の錦宝会(多宝会)のメンバーが、常時6人参加していること。「コロナに負けたらあかん」と家族の手を借りたり、同志にスマホの操作を教わったりと、試行錯誤して挑戦した結果だ。
 その一人、78歳の白ゆり長は「地域の皆さんのお役に立ちたい」と奮起。ホテルの調理場の仕事が休業になった時間、洋裁の腕を生かしてマスクを作り、近所に配って喜ばれた。
 他の地域でも、本紙の切り抜きと共に励ましの手紙を送る友、感染防止や給付金等の情報をまとめ、地域に届ける友、老人会の友人と約300枚のマスクを手作りして配布した友、事前に連絡してベランダ越しに笑顔を交わし合う友など、真心と知恵にあふれている。
 産業社会学等を専門とする流通科学大学専任講師の新雅史氏は、「第三文明」5月号で、創価学会の団地部が「住民と住民、住民と公共(自治体など)をつなぐ『懸け橋』となっている」と語る。
 “人と人とのつながり”を最も大切にする団地部の実践は、コロナ後の社会を考える上でも、先駆の光を放つ。
 「皆が地域の幸福責任者たれ!」との誇りで進む友の奮闘に心から敬意を表したい。


◆きょうの発心 祈祷抄 京都・宇治大城県長 永澤伸一2020年6月24日
御文 大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず(祈?抄、1351ページ・編519ページ)
通解 大地をさして外れることがあっても、大空をつなぐ者があっても、潮の満ち干がなくなっても、日が西から出ることがあっても、法華経の行者の祈りのかなわないことは絶対にない。

何があっても“生涯求道”貫く
 法華経の行者の祈りは必ずかなうと仰せです。
 1971年(昭和46年)2月6日、中学2年の時に京都未来会の結成式に参加。池田先生の指導に、「何があっても“生涯求道”の精神で実証を」と誓いました。
 その時、私の決意を聞いた中等部の担当者の方が、この一節を拝して励ましてくれました。
 以来、広布の道を唱題根本にまい進する中、生後半年の長男に大病が見つかったり、両親が病を患ったりするなど多くの苦難に直面。それでも、“生涯求道”との原点を胸に、家族一丸となって祈り抜き、勝ち越えてきました。昨年には、長年の経済苦も好転しました。
 「威風堂々の歌」が京都の地で誕生してから65周年となる本年。一人ももれなく勝利できるよう、同志の皆さまと、異体同心の団結で大前進をしていきます。


【先生のメッセージ】

◆〈心に御書を〉54 創価の若師子が対話に勇進2020年6月24日

〈御文〉
 経に云く「若し法を聞くこと有らん者は一として成仏せざること無し」云云、文の心は此の経をつ人は百人は百人ながら・千人は千人ながら・一人もかけ
ず仏に成ると申す文なり(上野尼御前御返事、1580ページ)
〈通解〉
 法華経方便品に「もし法を聞いた者は、一人として成仏しない者はいない」と説かれている。経文の心は、この経を持つ人は、百人は百人すべて、千人は千人すべて、一人も欠けずに仏に成るという文である。

〈池田先生が贈る指針〉
 妙法の世界は大きい。どんな差異も超えて、平等に「一人も欠けず仏になる」法理である。
 創価の若師子たる男子部が、同世代を包み、地涌の対話を広げている。誠実と確信の声は、不安や悲嘆を払い、友を蘇生させずにはおかない。
 分断の世相にも勇気の師子吼を響かせ、希望と信頼の連帯を築いてくれ給
え!

◆連載〈世界広布の大道〉小説「新・人間革命」に学ぶ 第20巻 解説編 池田主任副会長の紙上講座

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第20巻の「解説編」。池田博正主任副会長の紙上講座とともに、同巻につづられた珠玉の名言を紹介する。

ポイント
①中ソ和平への覚悟
②「懸け橋」の対話
③信念が花を開かせる

 池田先生の初の訪中・訪ソ、そして、第2次訪中は、1974年(昭和49年)のわずか半年の間に行われました。その激闘が第20巻で描かれます。

 同巻のテーマの一つが、宗教否定のマルクス・レーニン主義を基調とする中国、ソ連と、日蓮仏法を基調とする創価学会の対話が、なぜ実現できたかということです。
 当時の世界情勢は、複雑な様相を呈していました。第2次世界大戦後の米ソの冷戦構造が続く中で、社会主義国同士である中ソも、路線の違いから対立していたのです。
 その中で、68年(同43年)、山本伸一はいち早く、「日中国交正常化提言」を発表します。日中の友好が「アジアのなかにある東西の対立を緩和することになる」(11ページ)、「それは、やがては東西対立そのものを解消するにいたる」(12ページ)との強い思いからでした。
 彼は、提言を発表したことで非難を浴び、宗教者がなぜ“赤いネクタイ”をするのか、との批判もありました。
 しかし、伸一は覚悟していました。「命を捨てる覚悟なくしては、平和のための、本当の戦いなど起こせない」(同ページ)――日中友好への行動は、まさに命懸けの“戦い”であったのです。
 中ソの指導者は、そうした伸一の“本気”の平和行動と、創価学会の存在に着目していました。中ソへの訪問が具体化したのは、どちらも73年(同48年)12月です。そして、翌年、伸一の訪中・訪ソが実現します。
 「分断され、敵対し合う世界を、融合へ、平和へと向かわせる、第一歩にしよう」(156ページ)――伸一の訪問の目的は、社会主義の国で布教することでも、政治交渉のためでもありません。仏法者として、国益やイデオロギーで分断する世界を、連帯へと導くことが第一義でした。
 「社会の制度やイデオロギーは異なっていようが、そこにいるのは同じ人間である」(64ページ)、「人間に会いに私は行くのです」(167ページ)、「人間の心と心に橋を架け、結ぶために行く」(168ページ)との伸一の信念が、中ソ和平の対話へと突き動かしたのです。

水面の向こう側に、中国の伝統的な建造物と柳の木が調和した光景が広がる――北京の釣魚台国賓館で池田先生が撮影した(1992年10月)

壁の向こう側
 74年(同49年)5月、初訪中に出発する際、伸一は「対立する中ソの懸け橋となるのだ!」(166ページ)と自身に言い聞かせました。その決意は、実際に中ソの人々と触れ合う中で、強固なものになっていきます。
 北京の中学校を訪れた折、彼は、ソ連からの攻撃に備え、生徒たちが地下教室を造る光景を目の当たりにします。第2次世界大戦下の日本で、あちこちで防空壕が掘られたことと重ね合わせ、こうした現実を変えねばならないと深く心に誓います。   
 9月の初訪ソの時には、レニングラード(現・サンクトペテルブルク)の墓地を訪れ、戦争への怒りを強い口調で語ります。   
 伸一が寄り添ったのは、民衆の苦しみでした。民衆と同苦しながら、周恩来総理をはじめとする中ソの指導者や、教育者、文化人、青少年など、あらゆる立場の人々と語り合いました。社会体制の壁を超え、「共鳴の和音」(64ページ)が、中国・ソ連の大地に奏でられたのです。
 第1次訪中の折、伸一は、「中国が他国を侵略することは、絶対にありません」(59ページ)との発言を聞きます。
 ソ連のコスイギン首相との会見では、中国訪問の実感を率直に伝え、首相から「中国を攻撃するつもりはありません」「(中国の首脳に)伝えてくださって結構です」(278ページ)との言葉を引き出しました。
 12月の第2次訪中では、鄧小平副総理など中国の首脳に直接、ソ連の意向を伝えます。伸一は、まさに中ソの“懸け橋”となりました。
 「懸け橋」の章には、「勇気をもって真実を語ってこそ、心の扉は開かれ、魂の光が差し込む。それが、信頼の苗を育んでいくのだ」(211ページ)と記されています。伸一の、率直にして誠実な対話が、心の扉を開き、信頼を結んだのです。
 佐藤優氏は、週刊誌「AERA」(6月22日号)で連載されている「池田大作研究」で、先生の対話行動に言及しています。
 「壁に突き当たった場合、政治革命家はその壁を壊そうとする。これに対して池田は、壁の向こう側の人に対話を呼びかける。対話によって、壁の向こう側にいる立場が異なる者の中に理解者を作ろうとする」
 どんなに立場が異なろうと、「人間主義」「平和主義」の連帯を築いてきたのが、池田先生です。対話には、「壁」も「限界」もないのです。

忍耐強い作業
 伸一の願いに反して、初訪中・訪ソの後、中ソ対立は悪化の一途をたどってしまいます。彼の対話は、すぐに花開いたわけではありません。
 しかし、伸一は決して諦めませんでした。20世紀を代表するイギリスの歴史学者トインビー博士から、次のように託されていたのです。
 「米ソも、中ソも対立していますが、あなたが、ロシア人とも、アメリカ人とも、中国人とも対話を重ねていけば、それが契機になって、やがてはロシア人とアメリカ人、ロシア人と中国人などの対話へと、発展していくでしょう」(第16巻「対話」の章、216ページ)
  
 伸一は、初訪中・訪ソの後も、中ソ両国の指導者と対話を重ねました。中国側から、ソ連を訪問することで中日の友情に支障をきたすと、苦言を呈されたこともありました。
 それでも、「私は中国を愛してます。中国は大事です。同時に人間を愛します。人類全体が大事なんです」(351ページ)と訴え、「あらゆる人の『仏性』を信じて、人類の平和を願う心を確信して語りかけ続けた」(352ページ)のです。
 ようやく春が訪れたのは、伸一が、中ソの“懸け橋”として対話を開始してから15年後のことでした。
 89年(平成元年)5月、ソ連のゴルバチョフ書記長が、鄧小平氏と会談し、遂に中ソ関係が正常化されたのです。伸一は、誰よりも喜びました。
 花はすぐ開くとは限りません。しかし、鉄のごとき強い信念を持ち続けながら、諦めずに行動すれば、必ず開花します。「大業とは、目立たぬ、忍耐強い作業の繰り返しによって、成就されるもの」(357ページ)なのです。
 「信義の絆」の章に、「人類の幸福と世界の平和の実現が、広宣流布だ。私は仏法者として、そのために走り抜く」(354ページ)とあります。私たちも、仏法者の使命に燃え、「平和の道」を広げていこうではありませんか。

初訪ソの際、モスクワ市内で子どもたちと交流する池田先生(1974年9月)

言集
●仏法者の在り方
 人民のため、社会のために身を挺して戦う――それが菩薩であり、仏です。仏法者の在り方です。その行動のない仏教は、まやかしです。(「友誼の道」の章、74ページ)
●普遍の鉄則
 人間の生命を大切にし、人間を守るということ――それは、人類が生きていくうえの普遍の鉄則です。(「友誼の道」の章、120ページ)
●幅広い交流
 国家による政治や経済次元の交流は、利害の対立によって分断されてしまうことが少なくない。だからこそ、平和と友好のためには、民間による、文化、教育、学術などの幅広い交流が不可欠である。(「懸け橋」の章、157ページ)
●民衆こそ王
 万人に「仏」の生命をみる仏法は、本来、民衆を王ととらえる思想でもある。民衆が本当の主権者となり、幸福を享受できる社会の建設が、われらの広宣流布なのだ。(「懸け橋」の章、204ページ)
●歴史の必然
 地球は一つである。人類も一つである。人間同士、手を取り合うことは歴史の必然である。(「懸け橋」の章、238ページ)
●人間を結ぶ絆
 「誠実」への共感に国境はない。「誠実」こそが、人間を結ぶ心の絆となるのである。(「信義の絆」の章、318ページ)


【聖教ニュース】

◆6・23「沖縄慰霊の日」 沖縄青年部が「平和の礎」に献花 2020年6月24日
 「沖縄青年部平和宣言」を発表

    • 沖縄青年部の代表が「平和の礎」に献花し、世界平和を祈念した(糸満市の平和祈念公園で)

沖縄青年部の代表が「平和の礎」に献花し、世界平和を祈念した(糸満市の平和祈念公園で)

 沖縄青年部の代表が戦後75年の「慰霊の日」を迎えた23日、糸満市の平和祈念公園にある記念碑「平和の礎」を訪れ、献花した。
 沖縄青年平和委員会の砂川委員長、沖縄女性平和文化会議の嘉手納議長を中心に、沖縄戦犠牲者の冥福と世界の平和・安穏を祈念した。
 その後、前島沖縄青年部長が「沖縄青年部平和宣言」を発表。学会創立100周年でもある、戦後85年の2030年を目指し、沖縄戦の記憶の継承の取り組みをさらに発展させるとともに、人間革命の哲学を語り広げ、沖縄から恒久平和の潮流を世界に広げていくことを誓った。


◆〈危機の時代を生きる〉コロナ禍で見落とせない「多様なリスク」への視点 立命館大学開沼博准教授   

 「ウィズコロナ」という言葉が表すように、当分の間、私たちの生活は、新型コロナウイルスとの“共存”が想定される。こうした状況下で、私たちが向き合うべき課題は何か――。東日本大震災の被災地復興に携わり続ける、立命館大学の開沼博准教授に話を聞いた。(聞き手=志村清志・村上進)

 ――コロナ禍が長期化する現状を、どのように考えていますか。
  
 日本においては、ウイルス感染による「直接的なリスク」は、抑えられつつあるといえます。むしろ今後は、コロナ禍の影響で起こる「間接的なリスク」を一層、考慮していくべきでしょう。
 具体例の一つは「健康リスク」です。外出や人との交流が減っていることで、心身に不調をきたす恐れがあります。社会的孤立から、自死に至る場合も想定されます。また「経済的リスク」も深刻です。今は飲食業や観光業などが影響を受けていますが、今後、他の業種へも広がっていくでしょう。
 他にも、高齢者の認知機能の低下や児童虐待・DV(家庭内暴力)の増加など、挙げればキリがありません。
 今日の状況は、2011年の東日本大震災後の状況とよく似ています。福島県において、地震や津波で亡くなった方は、1605人を数えます。一方、避難生活の中で心身の体調を崩して亡くなった「震災関連死」の数は、2308人に上ります(本年6月16日現在)。「直接的リスク」もさることながら、「間接的リスク」も、私たちの社会に深刻な影響を与えるのです。
 かつての日本社会は「貧・病・争」(貧乏・病気・争いなど)が、人々にとっての主要なリスクでした。ある意味では、分かりやすかった。その後、経済発展に伴い、国民全体の生活水準が高まると、人々の生活が多様になり、立ち現れるリスクも多様化・細分化されました。そのため、一般には“見えづらい”リスクが増えていったのです。
 社会全体が、こうした細かなリスクを見落としてしまえば、東日本大震災の後に「震災関連死」が問題になったように、「コロナ関連死」と呼ばれる問題が顕在化するのではないかと危惧しています。
  
 ――今後、コロナ禍と向き合う上で必要な視点は?
  
 小さなリスクにも目を配る「多元的なリスク観」が求められます。
 そうした視点に立つことで、全体の被害逓減に大きく貢献する場合もあります。1853年に起きたクリミア戦争の際、ナイチンゲールは、戦死者の死因が、戦闘で受けた傷自体よりも、治療現場の不衛生によるものの方が多かったことを、統計を用いて解明しています。その後、衛生管理を改善し、死者数を大きく減少させました。こうした彼女の姿勢は「多元的なリスク観」に立ったものといえるでしょう。
 しかし現状を見ると、「感染リスクの抑制か、経済危機からの復興か」という二項対立の議論ばかりが目立ちます。3・11の後、「原発か、脱原発か」との論争が多く取り上げられた構図と同じです。
 こうした問題は早々に解決できるわけではありません。それにもかかわらず、延々と二項対立の議論が続けば、課題解決に向けた本質的な議論は一向に深まらず、多くの人が抱える「多様なリスク」が抜け落ちてしまう恐れがあります。
  
オンラインなどの活用を通して 新たな「顔の見える関係」をつくる
 ――危機的な状況に直面した場合、多様なリスクがこぼれ落ちてしまう理由は何だと考えますか。
  
 さまざまな理由がありますが、一つは、日本社会の“特殊性”といえるでしょう。
 社会学には「社会統制」と「社会化」という概念があります。「社会統制」とは、秩序の維持のために、個人の行動を規制するメカニズムのことで、法や制度などを指します。一方で「社会化」とは、人々が、集団や社会の行動様式を取り入れる過程を意味します。ここでは“暗黙のルール”と考えてもよいでしょう。
 4月に発令された「緊急事態宣言」は「社会統制」に分類されます。ただし、この宣言には、法的な強制力はほとんどありません。それにもかかわらず、国民の多くは宣言に従い、外出や店舗の営業などを自発的に控えるようになり、5月25日には「緊急事態宣言」が全面解除になりました。これは、政府の提示した行動様式を取り入れる「社会化」が、強く働いたことを意味します。
 しかし、その一方、“自粛警察”と呼ばれる、一般市民による私的な取り締まりや攻撃、感染者のあぶり出し、医療従事者やその家族への差別行為など、「社会化」の“負の側面”も多く見られました。
 人々のライフスタイルや生活環境は多種多様です。中には、止むに止まれぬ事情から、緊急事態宣言下であっても店舗の営業を続けた人もいたでしょう。
 それにもかかわらず、日本社会には、そうした人たちへの想像力に欠ける部分があり、全体から逸脱する人を「悪」と捉えてしまう傾向がある。言ってしまえば「社会化」の行き過ぎが、多様なリスクを“見えづらい”ものにしている原因といえます。
  
 ――多様なリスクを見逃さないためには、何が必要でしょうか。
  
 地域のつながりが豊かになることが大切だと考えています。そうすれば、ある人がリスクを抱えたとしても、皆で助け合うことができるからです。そのためにも、人とのつながりを形成する、「サードプレイス」(第3の場所)のコミュニティーが求められます。
 これは、社会学者オルデンバーグの提唱した概念で、家庭(第1の場所)や会社・学校(第2の場所)とは異なる「場」のことです。地元の喫茶店や居酒屋、身近な集会での交流などを指します。こうした場では、ゆるやかな「顔の見える関係」の中で、豊かな教養やつながりがつくられやすい。そこで生まれる信頼や安心感は、「共助」(助け合い)の輪を育む上で大変に有効です。
 しかし、「個人化」の進展した現代社会にあっては、そもそも「サードプレイス」の存在が減少している。さらに追い打ちをかけるように、新型コロナウイルスの感染拡大によって、そうした「場」に集まりづらい状況が生まれています。
 こうした苦境の中で、どのように「顔の見える関係」を構築できるか――つまり、“新たな日常”における新たなコミュニティーのあり方、「共助」のあり方が、今後、求められます。

今、青年部を中心に、“オンラインによる集い”の取り組みが各地で推進されている
個人間の情報格差をなくし 社会の中に共助の流れを
 ――ここ最近、オンライン上での交流が活発に行われるようになってきています。
  
 直接会っての交流がしづらい状況は、しばらくの間、続くでしょう。そうした中で、オンラインを活用して交流し、支え合う流れをつくることは、有効だと考えています。
 しかし、その裏で、見逃してはいけないのは、「デジタルディバイド」(情報格差)の問題です。インターネットを使えなければ、即座にこうした「共助」の流れから脱落してしまいます。加えて、オンラインによる教育や医療、公的サービスの申請などからも取り残されれば、大きな格差につながりかねません。
 日本におけるインターネット利用率は79・8%です(総務省・令和元年版「情報通信白書」)。単純に考えて、人口の約2割が、インターネットへのアクセス手段を持っていないことになります。この2割にあてはまる層は、高齢者や経済的に恵まれない人が想定されます。つまり、もともと多くのリスクを抱えている層です。
 東日本大震災の時もそうでしたが、もともとリスクを抱えていた人ほど、災害などの非常事態が起こった際、さらなるリスクに見舞われます。今回のコロナ禍にあって、「デジタルディバイド」の問題は、その象徴的な例といえます。
 単に技術的な問題と捉えられがちな「デジタルディバイド」ですが、この状況下では、人の命・生活に関わる重要な問題です。そうした人々へのサポートは、ますます希求されるでしょう。
  
 ――“コロナ以前”のように、直接会っての交流がしづらい状況の中で、この問題を乗り越えるためには?
  
 個人間の情報格差をなくすには、行政による「公助」が必要になってきます。社会の中で「共助」の流れが生まれるような基盤をつくってほしいと思います。
 その上で留意してほしいのは、この問題は今に始まったわけではないということです。個人化された社会では、人と人とのつながりは希薄になり、そもそも「共助」の流れがつくられづらい。長らく棚上げされてきた課題が、今回のコロナ禍で可視化されただけといえます。
 だからこそ、私たちは、この課題に真摯に向き合い、新しい「共助」のあり方を構築していかなければいけません。そうした意味で、創価学会をはじめ、個人と社会を結ぶ「中間集団」の果たす役割は大きいでしょう。「共助」には、人と人のつながりが欠かせません。東日本大震災の時も、学会の励ましのネットワークが、多くの人を勇気づけたように、今回のコロナ禍でも、「共助」の流れを生み出す起点として、その力を発揮してほしいと思います。
  
〈プロフィル〉
 かいぬま・ひろし 1984年生まれ。福島県出身。東京大学卒。専攻は社会学。福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)ワーキンググループメンバー、復興庁東日本大震災生活復興プロジェクト委員などを歴任。2016年から、立命館大学准教授を務めている。主な著書として、『はじめての福島学』『漂白される社会』『フクシマの正義』などがある。 


【特集記事・信仰体験など】

◆〈未来の宝と共に 池田先生の書籍に学ぶ〉 総千葉少女部長 鯉渕佳代さん
 テーマ「私の“いいところ”が分からない」

〈池田先生の言葉〉
 がんばっても、がんばっても、なかなか、うまくいかない。自分の「いいところ」なんてわからない――そんな時は、題目を唱えてみてください。題目を唱えれば、元気が出てきます。自信がつきます。そして、よし、がんばってみようという勇気がわいてきます。   ?
 「ありのまま」になやみ、祈り、また胸をはって挑戦していく――そうすることで、自分の心がみがかれる。心の中の宝物が光っていく。きみの、あなたの「いいところ」が、必ず見えてくるのです。(『希望の虹』68ページ)
 
少しでも挑戦したこと褒(ほ)める
 少女部時代の私は口べたで恥ずかしがり屋。人と比べては「自分はあの子よりできていない」と、マイナスに考えてしまうことがよくありました。
 また、「毎朝7時に起きよう」と目標を立てて挑戦しても、寝坊してしまうと、「目標を達成できなくて、私はダメな子だ……」と落ち込むことが多かったのです。
 そんな私が前向きな考えに変わるきっかけを与えてくれたのは、「千葉王子王女合唱団」でした。小学5年の時に入団し、練習に取り組む中で、担当者のお姉さんや合唱団のメンバーと励まし合うように。  
 さらに当時、連載中だった池田先生の「希望対話」を学び、「『3日』坊主も、『10回』やれば、『1カ月』やったことになる」「1日でも2日でも、やった分だけ、自分が得をする。自分が『実力』をつけているかどうかです。人と比べて一喜一憂(いっきいちゆう)しても、しようがない」「人の3倍やれば必ずできる」との指針に感動しました。
 できない自分に対して気落ちするのではなく、少しでも挑戦した自分を褒めようとの考え方に変わったのです。  

自分にしかできない使命がある
 中学校に進学後、テニス部で汗を流し、学級委員にも挑戦。前向きにさまざまなことに挑む中で、忘れられない出来事が起きました。  
 ある日、友人が「佳代ちゃんは自分らしさがなくて、つまらないよね」と話している姿を見てしまったのです。まるで自分を否定されているような悲しい気持ちになり、ショックを受けました。帰宅し、泣きながら家族に相談すると、一緒に題目をあげてくれ、池田先生の『青春対話』の一節を教えてくれました。  
「たとえ諸君が、自分なんかダメだと思っても、私はそう思わない。私は信じている。私は諸君を尊敬している。必ず、あなたにしかできない使命をもった人だと信じている」  
 自分のことを信じられない状態の時でも、先生は私のことを信じ抜いてくださっている――この真心に気付いた時、人からの陰口や見られ方を気にするのではなく、自らのやるべきことに取り組む中で、自分の良さを磨いていけばいいのだと思えたのです。  
 未来部の皆さんには、それぞれにしか果たせない使命が必ずあります。題目をあげ、先生の指針を学び、目の前のことに挑戦していけば、果たすべき使命の道が少しずつ見えてくるでしょう。
 皆さんが自信を持って前進できるよう祈り、これからも励ましの風を送り続けていきます。

◆信仰体験 不屈の努力で脳科学の博士に 亡き母から信心を継承

師に誓った“この道”貫く
 【愛知県日進市】脳の視覚情報処理を研究する満倉英一さん(36)=圏男子部書記長。愛知県内の大学で助教として研究に取り組んでいる。   
 人間が奥行きや色、形状などの視覚情報をどのように知覚しているのかを、数学やコンピューターシミュレーション、心理実験などで明らかにする。
 研究や論文執筆で、行き詰まることはたびたび。その時、必ず思い起こすのは、幼いころの師との原点――。  
  1992年(平成4年)4月3日、生まれ育った東京・調布市の調布文化会館前の河川敷で、家族らと遊んでいた。
 すると、青年部の役員が駆け寄ってきて「急いで来てください」と呼ばれ、そのまま会館の中へ。会館を訪れていた池田先生と一緒に勤行・唱題を。その時の励ましは家族の宝となり、苦難に挑む時の大きな支えになっている。   
 大学入試では、受験した全てが不合格に。学生部の先輩に勧められ、創価大学通信教育部に入学した。
 通教で学ぶ中、創立者・池田先生の「私の最後の事業は教育である」との言葉に胸を打たれた。いつしか“大学の教員になりたい”と夢が膨らんだ。
 翌年、創大工学部に合格。誰よりも喜んでくれたのは母・訓子(のりこ)さんだった。  
  在学中の2006年10月、先生の200番目の名誉学術称号授与式に参加する機会が。先生は呼び掛けた。
 「学生の皆さんは、自分を支えてくれる人への感謝を忘れないでください」「お父さんを大切に! お母さんを、もっと大切に!」「環境がよくないとか、生活が大変だとか、いろいろなことがあるかもしれませんが、困難の中で勝利してこそ、『価値創造』です。創価教育で学んだ人の根本の生き方なのです」   
 式典を終えると、満倉さんの心に新たな誓いが芽生えた。“必ず博士号を取得する!”  ところが、卒業論文を執筆しているさなか、一家に宿命の嵐が襲う。母が重度のC型肝炎と診断されたのだ。  
 “なぜ、母が”と動揺する気持ちを抑えつつ、母のためにも、必ず博士になろうと決めた。そして都内の大学院へと進む。
 修士論文に向かっていた大学院2年の時、母の回復を懸命に祈り続ける中で、友人への弘教が実った。このことを一番喜んでくれたのも母だった。  
  経済的な負担に悩みながらも、博士課程へと進んだ。“人間の脳を数学で解明して役に立ちたい”と専門を数学から脳科学に変えた。
 学位取得の道は険しかった。論文を提出したが、なかなか認められず、何度も悔しい思いをした。
 奨学金が途絶え、途方に暮れる中、2015年からは、非常勤講師として創価学園で数学と情報の教員を務めることに。日々、奮闘を続けた。   

 翌年、母の容体が悪化し、集中治療室へ運ばれた。“今しかない。安心させてあげたい”――満倉さんは思わず「博士号が決まったよ」と伝えていた。実際はまだ論文も提出できていない。  
 母は泣きながら喜んでくれた。「池田先生のために奮戦できる子どもを育てるのが夢だった。あなたが生まれる前から、ずっと祈っていたんだよ」   
 2月20日、最愛の母は霊山へと旅立った。信心の先輩から「お母さんの使命は、君たち家族に、本当の信心を教えることだったんだよ」と励まされ、“悲しんでばかりではいけない”と前を向いた。
  その後、長男として家族を支えながら、講師としての授業、論文の執筆、学会活動と、一歩も引かずに取り組んだ。そして、再投稿した論文が認められ、18年3月、工学博士号の取得を改めて母に報告した。
 “先生、勝ちました!”“母さん、やったよ!”  
  昨年春、愛知へ。大学では講義を担当しているが、今はオンラインでも学生に課題を送り、連絡を取る日々だ。  
  時折、胸の中で母に呼び掛ける。  “母さん、僕は今、新天地で、大学の教員として日々、学生たちと切磋琢磨(せっさたくま)しています。少しは、親孝行できていますか”  
  一人前の研究者に、次代を育てる教育者に――満倉さんは師に誓った使命の“この道”を貫くと決めている。 (中部支社編集部発)


◆信仰体験 150カ所の福祉施設に1万食を提供 度重なる経営危機を越え

行き詰まった時が勝負!
 【大阪府堺市】委託給食の世界では、現地で一から仕込みを行うことが多い。だが、直田勝彦(なおたかつひこ)さん(69)=副支部長(常勝長<ブロック長>兼任)=が代表を務める「マルフクメディカルフーズ」では、自社工場で煮炊(にた)きや味付けをした後、それぞれの施設に配送し再加熱・盛り付けを行う方式を採っている。 ?
 「その方が衛生管理に万全を期せますし、味も安定します。施設の厨房設備も最小限で済みますので」  
  創業40年を迎え、従業員は800人。老人ホームやデイサービスセンターなど大阪府内150カ所の福祉施設に、毎日1万食以上を提供している。
 「鶏肉が苦手」「卵アレルギーがある」など個々の要望にも対応するほか、「47都道府県グルメ献立」「花見弁当」等のイベント食も実施。栄養士監修のメニューが「安心」「安全」「おいしい」と評判だ。  
  営業は直田さん一人。それでも売り上げは右肩上がり。3年前には新しい事務所も完成した。   
 鹿児島県の離島・中之島で育った。電気も水道も整備されていない島で、石油ランプをともして勉学に励んだ。
 高校卒業後は働くつもりだったが、高等部の会合で“全員、大学へ”との池田先生の呼び掛けが胸に響き、大阪工業大学の工学部に進んだ。  
  製造業に就職した後、29歳で脱サラ。“食を通して、お客さんを喜ばせたい”と10坪の店舗で一日50食の宅配弁当を始めた。体を酷使する日々でも、「おいしかったよ」の一言にやりがいを感じ、事業を拡大していった。   
 1997年(平成9年)、46歳の時には一日2000食を達成。新工場も完成。だが、この年から“平成不況”に巻き込まれる。
 赤字に転落し、銀行に返済条件を変更してもらう「リスケ(リスケジュール)」を余儀(よぎ)なくされた。   
 「一度傾いた事業を立て直すのは容易ではありませんでした」  2008年のリーマン・ショックで2度目のリスケ。“今月支払う給料が、ない……”と何度も頭を抱えた。
 それでも“従業員の生活は絶対に守り抜く”と、懸命に経営のかじを取った。   
 14年、盛り付け担当者の中からノロウイルスの陽性者が出た。この事態を重く受け止めた直田さんは外部企業と業務提携。社内の衛生管理の体制強化に取り組んだ。
 さらに、食品への殺菌効果がある微酸性次亜塩素酸水の生成装置を共同開発し、法人を設立。
 そして高齢者食に特化した委託給食と衛生の2本柱で事業を立て直そうと、宅配弁当業からの撤退を決断する。
 “どんなに行き詰まっても信心から離れたらあかん!”と自身に言い聞かせた。広布の活動から一歩も引かず、弘教も実らせる。   
 事態が動いたのは翌15年。別の金融機関から思ってもみなかった額の融資を受けることに。再建した事業の業績が高く評価された結果だった。“救われた”。長き苦境から抜け出すことができた。  
  4年前の熊本地震の際、直田さんは「避難所の衛生管理に役立ててほしい」と、除菌対策の装置と300本のスプレーボトルを御船町(みふねまち)に寄贈。かつての経験からだった。  
  食品事業家となってからは苦難続きだった。そのたびに、池田先生の「行き詰まりを感じた時に、大信力、大行力を奮い起こして、それを乗り越えていくことだ。これが、私たちの『発迹顕本(はっしゃくけんぽん)』となる」との指導を胸に刻んできた。   
 自身の一念の変革から、現実の変革が始まる。“厳しい苦難も境涯を開くチャンス”と心する直田さんに、停滞はない。 (関西支社編集部発)

 

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