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2017年11月18日 (土)

2017年11月18日(土)の聖教

2017年11月18日(土)の聖教

◆わが友に贈る

広宣流布大誓堂
完成5周年の明年へ
民衆凱歌の大行進を!
世界の友と肩組み
平和の世紀を築こう!

◆〈名字の言〉 2017年11月18日
 

 恩師・戸田先生が池田青年に万般の学問を教授した「戸田大学」。当初、日曜日に行われていた講義は、1952年(昭和27年)から、戸田先生の会社の事務所でも始業前に開かれ、57年(同32年)まで続いた▼戸田大学の薫陶は広布の激闘の中で行われた。57年10月18日、池田先生は「大阪事件」の初公判に出廷。その翌日、翌々日と関西の同志を激励し、夜行列車で21日の午前7時半に帰京。この日はそのまま、日本史の講義を受けている▼戸田先生は「命に刻め」と、講義の内容を書き取ることを許さなかった。池田青年は恩師の言々句々を海綿のように吸収し、自らの魂に刻んだ。講義を共に受ける機会のあった婦人は、“咳をするのもはばかられるほど峻厳な雰囲気でした”と▼今、世界に広がる創価の平和・文化・教育の大道は戸田大学に全ての礎があったといえよう。「師弟」という関係は、常に弟子の側が「師を求める」ことから始まる。師弟に生きる人生が、いかに力強く、豊かで、喜びに満ちているか――それを池田先生は身をもって示してきた▼60年前のきょう11月18日、池田先生は日記につづった。「師恩は、山よりも高し。海よりも深し」「偉大なる師の歴史を世界に示さん」。報恩と誓願を胸に学会創立の日から出発したい。(嶺)

◆〈寸鉄〉 2017年11月18日
 

 栄光の創立記念日。創価
 三代の師弟に連なる誉れ
 192カ国で地涌の連帯拡大
      ◇
 情熱漲る青年を社会に送
 り出す学会の使命は大―
 識者。時代は仏法を待望
      ◇
 専門部の日。一騎当千の
 勇将ありて広布は伸展。
 職場・地域で信頼の柱に
      ◇ 
 流感が例年より早く流行
 と。嗽・手洗い等、予防を
 万全に。健康第一で前進
      ◇
 通販大手を騙る架空請求
 が横行。冷静に確認。身に
 覚えのないメールは無視

◆小説『新・人間革命』第30巻 暁鐘の章   六十六 2017年11月18日 (6227)
 

 心が定まれば、生き方の軸ができる。その一人が組織の軸となって、広宣流布の歯車は回転を始めていく。
 山本伸一は、さらに、テルコ・イズミヤの夫のヒロシのことに触れ、こう語った。
 「ご主人には、信仰を押しつけるようなことを言うのではなく、良き妻となって、幸せな家庭を築くことです。信心のすばらしさを示すのは、妻として、人間としての、あなたの振る舞い、生き方です。一家の和楽を願い、聡明に、誠実に、ご主人に接していくならば、必ず信心する日がくるでしょう」
 この指導を、テルコ・イズミヤは、全身で受けとめた。彼女は、カナダ国籍も取り、美しき紅葉と人華のカナダの大地に骨を埋める覚悟を決めた。どんなに、悲しい時も、辛い時も、夫に愚痴をこぼしたりすることはなかった。すべてを胸におさめ、苦しい時には御本尊に向かい、ひたすら唱題した。
 妻として家庭を守り、母として三人の子どもを育てながら、明るく、はつらつとカナダ広布の道を切り開いてきた。弘教の輪も着実に広がっていった。
 夫のヒロシが、信心することを決意したのは、一九八〇年(昭和五十五年)三月のことである。テルコは夫に、「一緒に信心に励み、あなたと共に幸せになりたい」と、諄々と夜更けまで話した。ちょうど彼は、大好きだった姉二人が、相次ぎ病で他界したことから、宿命という難問と向き合っていた時であった。戦争によって、少年期に収容所生活を強いられたことにも、思いを巡らした。
 自身の力では、いかんともしがたいと思える不条理な事態に遭遇する時、人は、それを「運命」や「宿命」と呼び、超越的な働きによるものなどとしてきた。仏法は、生命の因果の法則によって、その原因を究明し、転換の道を説き明かしている。
 妻に遅れること十八年、夫は創価の道を行くことを決めたのである。この夜、夫婦で初めて勤行をした。外は大雪であった。部屋は歓喜に包まれ、テルコの頰を熱い涙が濡らした。

【先生のメッセージ】

◆創価学園創立50周年記念式典への池田先生のメッセージ

 
関西創価学園を訪問した池田先生が、「悔いなき充実の青春を」と呼び掛け、ピアノの鍵盤をたたく(1995年10月、交野市で)
関西創価学園を訪問した池田先生が、「悔いなき充実の青春を」と呼び掛け、ピアノの鍵盤をたたく(1995年10月、交野市で)

      わが創価学園の創立――それは、牧口常三郎先生の悲願であり、戸田城聖先生から託された、最重要にしてロマンあふれる使命でありました。
 半世紀を経た今、世界を結ぶ壮大な連帯となった、創価の師弟の夢の実現を、牧口・戸田両先生もどれほどお喜びでありましょうか。天も地も心も晴れやかな、50回目の創立記念日、誠におめでとう!
 50年前、私には固く誓ったことがあります。それは、「学園生の先頭に立って、世界の知性と対話しよう!」ということです。
 その最初の対話は、「ヨーロッパ統合の父」と呼ばれる、クーデンホーフ=カレルギー伯爵との語らいです。初めての出会いは、学園創立の年・1967年(昭和42年)の10月でした。3年後には、伯爵が学園に来校され、草創の学園生に万感のエールを送ってくださったことも、懐かしい歴史です。
 以来、学園の目覚ましい発展とともに、私の対談集も、伯爵、そしてトインビー博士をはじめ80点に及び、文明を結ぶ対話として、40の言語で出版・翻訳されるまでになりました。
 東西の学園キャンパスを訪れた海外の識者も、ゴルバチョフ元大統領ご夫妻を筆頭に、5000人をはるかに上回っております。この「対話の道」を、わが学園生は誇り高く進んでいってください。
 今ほど、対話が求められている時代はありません。あらゆる差異を超えて、平和と共生の社会を築く道は、対話をおいて他にないからです。
 そのためにも、皆さんは「英知」と「人格」という、世界へ羽ばたくための翼を大きく伸びやかに鍛え抜いていただきたい。語学にも積極果敢に取り組んで、どんな国の、どんな英邁な人とも、率直に自在に語り合い、友情と信頼を結べる力を着実に磨き抜いていただきたいのです。
 「対話の道」は「友情の道」であり「平和の道」です。青年が語り合い「良き友をつくる」ことこそが、「平和をつくる」第一歩だからです。

「学園生」とは親孝行の異名

  ともあれ、大切なのは青年です。青年の連帯です。青年の前進です。
 クーデンホーフ=カレルギー伯爵も、私との対談で、青年こそが「明日の世界を決定づける指導者となる」「その自覚に立って、未来に向かって自己形成し、準備をするべきだ」と強調されていました。
 オーストリア人の父と、日本人の母との間に生まれた伯爵は、戦争のない世紀を築くため、青春の日よりヨーロッパ統合への挑戦を開始されました。あのヒトラー率いるナチス・ドイツから迫害を受け、亡命を余儀なくされてもなお、正義の旗を断じて降ろしませんでした。伯爵には、お母さん譲りの「負けじ魂」が輝き光っていたのです。
 お母さんは、日本から遠く離れた異国での生活に耐え抜き、しかも、夫に先立たれながら、7人きょうだいを立派に育て上げた方です。
 皆さんにも、苦労しながら学園へと送り出してくれている、偉大なお母さん、偉大なお父さんがいます。学園生とは「親孝行」の異名でもあります。
 途中で何があっても、次は勝つ! 最後は必ず勝つ! この不屈の負けじ魂を明々と燃やし、自分のため、父母のため、皆さんの勝利を祈り待つ世界中の人々のため、そして人類の未来のため、進取の気性に富んだ、栄光ある世界の指導者へと成長していっていただきたいのです。

青年は絶えず再生し更新す

 伯爵は、こうも訴えました。「青年は、絶えず再生し、更新する」(鹿島守之助訳『クーデンホーフ・カレルギー全集9』鹿島研究所出版会)と。
 大いなる目標に向かう途上には、必ず大いなる壁が立ちはだかります。たとえ失敗したとしても、嘆かず、恐れず、また挑めばよい。昨日より今日、今日から明日へと、たゆみなく前へ前へ朗らかに進み続ける――その人こそが青年です。ゆえに、皆さんは、日々月々に生まれ変わった命で、向上しゆく「英知の挑戦王」「勇気の前進王」であってください。
 今年、私は、名作『青春万歳』で知られる、中国の文豪・王蒙先生と対談集『未来に贈る人生哲学』を発刊しました。結びに、この王蒙先生の言葉「自分を信じて努力し、自分に最善を尽くせ」を贈り、私のメッセージといたします。
 私が信じてやまない大切な大切な学園生の努力の青春、万歳! 50年の勝利の象徴たる「鳳友会」「金星・蛍会」「創栄会」「創光会」「創陽会」の愛弟子たちに、健康あれ! 幸福あれ! 栄冠あれ!(大拍手)

【聖教ニュース】

◆ きょう11月18日 学会創立記念日 池田先生が全同志に和歌
 

 創価学会はきょう11月18日、栄光の創立記念日を迎えた。1930年、初代会長・牧口常三郎先生と第2代会長・戸田城聖先生の師弟によって産声を上げた学会は、第3代会長・池田大作先生の師弟不二の大闘争によって、世界広宣流布を現実にした。そして今、「世界教団」の盤石な体制を整え、本格的な興隆の時を迎えている。池田先生は創立87周年を祝賀し、共戦の全国・全世界の同志に3首の和歌(別掲)を詠み贈った。また創立記念の勤行会が17日、牧口先生の殉教(44年11月18日)から73年に当たる祥月命日の追善法要の意義も込め、東京・信濃町の広宣流布大誓堂で行われた。

 胸を張れ
  万年までの
   平和の道
  師弟で開けり
   誓い果たして

 苦楽をば
  わかち微笑み
   母の舞
  心王の都へ
   人類を導き

 青春の
  そして広布の
   勝ち鬨を
  後継よ 上げゆけ
   創価は王者と

◆ 広宣流布大誓堂で原田会長を中心に創立記念勤行会 2017年11月18日
初代会長・牧口先生の追善法要の意義込め


原田会長を中心に厳粛に執り行われた創立記念の誓願勤行会。創価の三代会長の死身弘法の闘争に連なり、栄光の前進をと約し合った(広宣流布大誓堂で)
原田会長を中心に厳粛に執り行われた創立記念の誓願勤行会。創価の三代会長の死身弘法の闘争に連なり、栄光の前進をと約し合った(広宣流布大誓堂で)

 創価学会創立87周年を記念する誓願勤行会が17日、東京・信濃町の広宣流布大誓堂で行われた。これには、原田会長、長谷川理事長、永石婦人部長が各部の代表らと出席。勤行・唱題し、世界広宣流布の大誓願へ、師と心一つに前進することを約し合った。
 席上、原田会長は、世界広布への誓いと歓喜にあふれた「創価学会会憲署名式」(今月10日)の模様に言及。「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり」(御書1360ページ)の御聖訓を拝しつつ、池田先生が全身全霊で励ましてきた地涌の同志が各国・各地で陸続と立ち上がり、世界広布は新たな飛翔の時を迎えたと述べた。
 そして、今ここから広宣流布大誓堂完成5周年となる明年の「11・18」へ、池田門下の一人一人が、「新たな決意」「先駆の行動」で折伏・弘教の拡大に勇んで打って出ようと呼び掛けた。

◆創価学園が創立50周年 東西キャンパスで記念式典 2017年11月18日

 
東京・創価学園の集い。中川同学園長が励ました(小平市で)
東京・創価学園の集い。中川同学園長が励ました(小平市で)

 11・18「創価学園創立記念日」50周年を祝賀する式典が17日、東京と関西の各キャンパスを映像と音声でつないで、盛大に開催された。創立者の池田先生がメッセージ(3面)を寄せ、心から祝福。また今年度の卒業予定者に卒業指針(2面)を贈った。同日、札幌創価幼稚園でも記念の集いが行われた。
                                                                    ◇ 
 11月18日は、学園の創立記念日であるとともに、「英知の日」と呼ばれている。7・17「栄光の日」、10・10「情熱の日」に続くもの。毎年、学園生たちは、この日を目指し、自らに問い掛ける。
 「僕が学園に入学したのは、何のためか」
 「私が学園で勉強するのは、何のためか」
 〽英知をみがくは 何のため(東京校校歌「草木は萌ゆる」)――その問いへの答えと決意を、自身の成長した姿をもって、創立者や保護者、教職員、さらに学園を支え続ける全ての人々に示す場こそ「英知の日」の集いにほかならない。
 「創立50周年」という創価教育の黄金の冠を頂いた今回の集い――東西のキャンパスごとに行われた第1部に続き、東西を中継でつなぐ第2部が始まった、その時だった。
 創立者から、伝言が届いたのである。
 「学園生の皆さん方の様子を、ずっと、見守ってまいります。
 どうか元気に、晴れ晴れと式典を行ってください。創立50周年、本当におめでとう!」
 学園生一人一人の頬が紅潮した。緊張とともに、喜びで胸がいっぱいになった。“創立者に私たちの姿を見ていただこう!”と。

【特集記事・教学・信仰体験など】

◆天も地も心も晴れやかに!創価学園が創立50周年 東西キャンパスで記念式典(1面から続く)      負けじ魂を明々と!英知の挑戦王 勇気の前進王たれ

   創立から50年の歩みをたどる記念映像の上映に続き、東西の小・中・高の学園生たちが各校歌を高らかに歌い上げる。
   かつて、池田先生は学園生にこう語ったことがある。「歌は情熱の発露です。目的への推進力ともいえる。その情熱がなくなってしまったならば、『何のため』『何のため』という精神がなくなってしまう」
 学園生たちは心に期していた。ただ歌うのではない。”訴(うった)う”のだ。父母のため、平和のため、共に学び、生きようと、わが胸に、聴く人の心に、強く深く訴えるのだ――と。
 その燃えるような情熱は、各校が今回の式典に向けて掲げたテーマにも表れていた。
 「生命(いのち)に問わん! 『何のため』 次代につなげん 師の魂」 (創高校)
 「学べ! 勝ち抜け! 我らが新時代(とき)の創立者」 (創価中学)
 「この『時』集った喜び胸に 英知の力で きょうも挑戦!」 (東京創価小学校)
 「未来を照らす 我らあり」 (関西中学・高校)
 「自分に挑戦! 明日(みらい)をつくる英知の指導者(リーダー)に」 (関西創価小学校)
 東京校のある女子生徒は、歌声に感謝を込めた。他人と比べて、落ち込んでばかりいた自分を、励ましてくれた先輩がいた。心の壁を破ろうと、友との対話に挑戦。ありのままの自分を受け止めてくれる、学園の温かさを肌身で感じた。
 関西高のある男子生徒は、校歌に決意を託した。勉強に励むも目標の成績に届かず、悩んでいた。生徒会や部活動に加え、「英知の日」の行事運営にも携わり、めまぐるしい日々が続く。諦めそうになる心を奮い立たせてくれたのは、創立者の励ましだった。「何があっても学び続ける自分に!」と今、誓う。
 校歌の斉唱に続き、高橋詩織さん(東京高3年)、永田和男さん(関西高2年)が、創立者への感謝と、世界市民に成長しゆく決意を述べた。
 原田学園理事長が、創立者のメッセージを紹介。常に創立者と共に歩もうと望んだ。
そして舞台は、学園愛唱歌「負けじ魂ここにあり」の合唱へ。東西の学園生の心と歌声が、一つにとけ合う。
  〽学べ勝ち抜け 世界まで 負けじ魂 朗らかに……
 ――式典の閉会が告げられようとしたその時、創立者から再びの伝言が届いた。
 「素晴らしい式典でした。みんな、ありがとう。お元気で!」
 学園生たちの瞳が、一段と輝いた。 

卒業指針
〈中学・高校卒業生へ〉
 創価の世界市民たる君よ
 勝利は自分自身の中にある
 負けじ魂のスクラムで
 大きく朗らかに学びゆけ!
 正義の太陽と勝ち光れ!!

〈小学校卒業生へ〉
 「栄光の時」に集った君よ
 今日も負けじ魂の挑戦を!
 学びの道 正義の道
 友情の道 平和の道
      を勝ち進め!!

〈幼稚園卒園生へ〉
 大好きな
 太陽の王子・王女よ!
 つよく ただしく のびのびと
 学びの道を ほがらかに!!


創価の師弟の夢を実現した半世紀
 ある日ある時、創価学園生と創立者・池田先生との語らいの折。一人の生徒が「池田先生の夢は何ですか」と尋ねたことがある。創立者は答えた。「私の夢は、戸田先生の夢を実現することです」と。
 恩師の夢――その一つが創価教育の学びやを築くことだった。
池田先生が学園の「創立記念日」と定めたのは1967年11月18日。「11・18」は、初代会長・牧口常三郎先生と第2代会長・戸田城聖先生が『創価教育学体系』第1巻を発刊した日である。教育によって、人間をつくる。この牧口・戸田両先生の夢を実現したい――池田先生は学園建設に奔走した。
 68年、東京に創価中学・高校が開校。73年に創価女子中学・高校(現在の関西創価中学・高校)が、76年には札幌創価幼稚園、78年に東京創価小学校、82年には関西創価小学校が誕生したのである。
 池田先生は激務の合間を縫って学園に足を運び、学園生と思い出を刻んだ。時に食事を囲みながら、時に卓球で汗を流しつつ、時に誰もいない教室の黒板にメッセージを残して。親を亡くした学園生がいれば、抱きかかえるように励ました。「学園生は、かけがえのない、私の宝です。私の命です。大切な、たいせつな私の子どもです。どんなことをしても、生徒を守ります。生徒のために戦い抜きます」これが創立者の真情だった。
 その真心に学園生たちも応えた。勉強で、部活で、親孝行で。創立者との”父子の絆”を胸に、社会に世界に巣立っていった卒業生は、3万人以上。約400人が博士号を取得するなど、一人一人が使命の舞台で活躍している。
 学園の教育プログラムも拡充し、東西の創価高校は今、文部科学省による国際的リーダーの育成を支援する教育事業「スーパーグローバルハイスクール(SGH)」の指定校に。創立から半世紀、学園は世界を結ぶ教育の大城と輝く。創価の師弟の夢は現実のものとなったのである。
◆【生老病死を見つめて】介護と向き合う〈2〉
-父と息子-  「親の老い」を受け入れる

  「介護と向き合う」の第2回では、父親の介護に携わった壮年の体験を紹介する。信心強盛だった父親が病を患い、在宅介護となった時、息子の胸中に去来したものとは……。

心に刻む御聖訓

 何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり(呵責謗法滅罪抄、御書1132ページ)
幸福の宮殿は生命の中に
 御書には「南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり」(787ページ)と仰せである。池田先生は、この御文を拝して語られている。
 「どのような人の生命にも、仏界という金剛不壊の生命の境涯がある。それは、いわば、まばゆいばかりの無量の“財宝”で飾られた、永遠不滅の幸福の『宮殿』である。信心をし、題目を唱えることによって、その生命の宮殿に入っていくことができる。つまり、自分自身の生命の宮殿を、燦然と輝かせていくことができる」と。
 世間には、財産や名声や地位など、人それぞれの「宮殿」がある。しかし、それらは永遠性のあるものではない。一方、自身の生命に築いた「宮殿」は、年を重ね、体が思うように動かなくなったとしても決して消えることはない。
                     ◇ ◆ ◇ 
 兵庫県姫路市在住の植木重年さん(64)=姫路大光県総合長=は、2014年1月、8年間の在宅介護の末、父・豪さんをみとった。
 ――植木さんは両親と共に3歳で入会。豪さんと母・水江さん(87)=婦人部副本部長=は、草創の地区部長・地区担当員(当時)として、地域広布に走り抜いてきた。
 植木さんは26歳で妻・龍子さん(65)=支部副婦人部長=と結婚後、両親と同居生活を送る。豪さんは儀典部として友人葬の導師を務めるなど、地域の同志からの信頼も厚かった。そんな豪さんに腫瘍が見つかったのは、05年9月のこと。医師は「上顎がん」と診断した。植木さんは語る。
 「当時、父は78歳と高齢だったこともあり、手術をしないという選択肢もありました。医者からも『手術すれば、あごを大きく切除して顔の形が変わる』と言われ、手術をすべきか悩みました。最終的には父の意思を尊重し、11時間に及ぶ大手術に臨みました」
 手術は無事に成功し、豪さんは放射線治療を受ける。だが、次第に飲み込む力が弱くなり、やがて経鼻経管栄養に。その後、胃ろうとなり、介護が不可欠となった。
 手術から半年後には在宅介護となり、植木さんは母親や妻とともに、豪さんの面倒をみることになった。

父親の「下の世話」を経験

 「手術を受けると決断した父は、本当に“強い人”だなあと思いました」と、植木さんは振り返る。しかし、在宅介護が始まると、その様子は一変した。
 「愚直で、まじめ、温厚な性格だった父が、手術後は『部屋が寒い』『暑い』とか、ささいなことで家族に当たり散らすようになりました。時には母親に手を上げることもあり、正直なところショックでした」
 豪さん自身の決断だったとはいえ、植木さんは“手術を受けたことが本当に良かったのだろうか?”と思い悩んだ。植木さんは、豪さんの通院の送り迎えや入浴の介助などを担い、夜はトイレに付き添うこともあった。
 当時、学会では圏長や県長を務め、仕事と活動の両立は多忙を極めた。活動を終えて夜遅く帰宅すると、両親の言い争いの声が聞こえてきたことも一度や二度ではない。そのたびに暗たんとした気持ちになり、心の休まるいとまはなかった。
 植木さんにとって特につらかったのは、父親の「下の世話」だったという。
 「年を取ったのだから当然のことですが、父親の『老い』という現実を見せつけられるので、気持ちがついていきませんでした。また、いつまで、こんな状態が続くのかと悩みました」
 同志の励ましを支えに、植木さんは真剣な祈りを重ねた。その中で常に心に刻んでいたのは、「いかなる世の乱れにも、あなた方を法華経や十羅刹女よ助け給え、と湿った木から火を出し、乾いた土から水を出すように強盛に祈っている」(御書1132ページ、通解)との「呵責謗法滅罪抄」の一節だった。

自身の境涯を広げる戦い

 「介護は、自身の境涯を広げる戦いでした」と植木さんは語る。
 「根本は唱題で心を磨き、満々たる生命力を蓄えることです。自分の境涯が広がった分だけ、心豊かに父と接することができ、相手を思いやる余裕ができました。反対に心に余裕がない時は、厳しい言葉を父にぶつけて自己嫌悪に陥ることもありました」
 植木さんは祈りを重ねる中で、「一番苦しんでいるのは、父だ」と思うようになったという。
 「父は胃ろうによって口から食べる楽しみを奪われ、思うように体も動かせず、つらかったと思います。でも、父はもがきながらも精いっぱい、毎日を生き抜こうとしていることに気付いたのです」
 介護中には、母・水江さんが病に伏せるなど、支える家族にも試練が襲った。植木さんは介護中、かつてない祈りに挑戦した。
 また、普段から豪さんと家族が触れ合う機会を増やし、楽しい時間を過ごせるよう心掛けた。
 8年に及ぶ介護の末、豪さんは霊山へと旅立ったが、介護によって親子の絆、家族の絆は、より強くなったと植木さんは語る。
 「介護で大事なのは、現実をありのままに受け入れて、自分の素直な感情に向き合うことではないでしょうか。ただし、何でも我慢だけでは、精神的に耐え切れなくなりかねません。私たち家族も、時には気持ちをぶつけ合うことで、互いの思いを共有しました。なぜなら、介護は支える側が無理をしないことが最も大切だからです。そんな中、御本尊への強い祈りが、父への感謝を湧かせ、思いやりのある行動になったのです」

取材メモ

 かつて本紙「幸齢社会」に登場した哲学者の岸見一郎さんは、実父の介護経験を通して、「子は親の老いを受け入れるとともに、『親が生きていることが喜びで、いかに家族に貢献しているか』という点を伝えることが大切」と語っている。
 植木さんは介護が始まった当初、「父を病院に連れていくのが恥ずかしかった」と語っていた。手術で顔が変形し、病院内で奇声を発する父を見られることに抵抗があったという。しかし、唱題根本に介護を続ける中で、「父の生きざまを尊敬し、一日でも長く生きてほしいとの気持ちが強くなりました」。
 植木さんにとって、信心根本に生きてきた“強い父親”が老いていく姿は、息子として受け入れがたいものだったにちがいない。だが、介護中も欠かさず勤行を実践する豪さんの姿に触れ、肉体的な衰えは進んでも、豪さんの内面にある「信心の炎」は、いささかも消えていないことに気付いたという。
 取材を終えて記者は、冒頭に引用した池田先生の指導の続きを、あらためて心に刻んだ。
 「信心によって、自分自身の生命の宮殿を三世永遠に輝かせていく。その人こそ最高の幸福者である。皆さま方は、広布の活動によって、日々、自らの生命の中に幸福の『宮殿』を築き、開いておられる。ゆえに、一生成仏は間違いないし、必ずや宇宙大の生命の宮殿に住む“幸福の王者”となっていけるにちがいない。どうか、その強い確信と誇りをもって、明るく、堂々と信心の大道を進んでいただきたい」(秀)


◆【信仰体験-ブラボーわが人生】〈38〉とうとう100歳になりました
「今が一番幸せですわいな」

【鳥取県・三朝町】これほどおめでたいことはない。先月末に、渡邊よし江さん(100)=三朝支部、支部副婦人部長=は、とうとう百寿を迎えた。人生の波しぶきに耐え、89歳の時にはそれこそ、自転車ごと車に飛ばされる事故にも遭ったが、目指す頂に立つことができた。「今が一番幸せですわいな」。喜びの声の後ろに沸き起こる、師弟の感激を聞く。

 すいませんなあ。こんなおばあちゃんの所に来てくれて。ことわざで「夢にぼた餅」というけれど。私はええおばあちゃんで、ありゃせんのにから、写真まで撮ってもらって……ありがたいことですなあ。
 信心したから、元気でおる。信心せなんだら、今はないねえ。70歳の時にな、「もし100歳まで生きたら、まだ30年もある。そしたら30年も、池田先生のおそばで信心ができるなあ」と思いましてな。それこそ毎日、御本尊様に「100歳までは」と申し上げてきました。これは2年前の婦人部総会まで、誰にも言わんかったことだけえ。
                     *
 ついに御本尊様は、願いをかなえてくださったなあ。100歳の誕生日には、花がいっぱい届いたにい。地区の人とか皆さん来てごしなって、「もっと長生きしなれや」と祝ってごしなった。
 お礼にな、赤飯を蒸し器で作って、配ったんよ。みやすい(簡単な)ことだ。朝4時半に起きてな、小豆を炊いて、南天の葉を添えて。昔から南天は「良い家庭」というでな。
 みんなが「元気で来なったか」と迎えてくれなる。「食べてごしないな」と赤飯あげた。玄関先で「私も年とった」って言いなる。だけん「何言っとんだえ。まだ若いが」と言ったげる。
 70代の人は、まだまだ若い。私は70代の時、まだ元気に働いとりましたなあ。
 80代の人も、まだまだ若い。私は80代の時、老人会の役員しとりましたなあ。
 90代の人は「年とったにい」と言いなさる。だけえ「まだ若い」と言ったげる。「何が若いだいな」とおっしゃるからな、「私からしたらまだ若いぜ」と言ったげる。
 自分の気持ちがな、年とったら駄目だと思うわ。私には信心があるからな、そうはならん。題目あげとるからな。題目2時間は楽ですわいな。何もすごいことは、ありゃあせん。朝1時間あげて、夕方1時間あげたら2時間になるけえなあ。題目あげるんは、普通ですけえ。
 100歳になっても、年とったとは思わん。いつまで動けるか分からんけども、まだ動けるけんなあ。信心の功徳ですけえ、私の体は。題目すごいと思いますよ。
 嫁さんが年寄り扱いせんだが。一緒に暮らせばな、普通は「手出しなんな(手を出さないで)」とか言われて萎縮するでな。けど嫁さんは、私に何でもさせてくれるけんな。
 朝起きたら、まず題目を1時間あげるんだけど、それから洗濯して、みんなが起きる頃には、みそ汁作ってなあ。学校とか勤めに出るんを見送って、洗濯物を干して、玄関を箒で掃いて、聖教新聞を読まにゃいけん。補聴器の電池が切れたら替えにゃいけん。忙しいだけん。それが元気に生きるコツかもしれんわなあ。
                      *
 学会活動は大事だにい。何があっても、創価学会のたもとでええから、つかんどかな。離れたらいけんよ。私はな、100歳まで広宣流布の最前線におれたことが、うれしゅうて、うれしゅうてなあ。
 ちょっと前、本部幹部会の中継行事に、息子が連れて行ってくれてから。池田先生と一緒に題目あげました。池田先生は、私のために題目をあげてくださった。だけん私も一生懸命に題目あげた。あ、これで元気になると思ったけんなあ。そしたらほんとに元気になったわいな。
 2030年に学会創立100周年になるが。その時を池田先生と迎えたいけど、私はそこまで生きられん。けどな、生きるって決めたら、細胞がそのように動いて、生きられるかもしれん。まだまだ元気でおらんといけん。
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 100歳になった感想? そうねえ……普通だ。みんなから「次の目標は何にしなる?」と聞かれますで。110歳とか120歳とか、ひ孫には200歳と言われるけども。もうねえ、何歳までとか、そういうことは考えないの。続きだけえ、普通だ。
 私はな、池田先生と毎日お会いしとるで。聖教新聞のな、池田先生と奥さまの写真を切り取ってな、御本尊様の所に置いて、一緒に題目あげとる。だからいっつも、池田先生は私のそばにおってくださる。それは、きっと一生。続きだけえ。まあそれが、100歳になった感想ですわいな。
 おしゃれでモダン。近所から「お手本」と慕われ、人望も厚い。高齢主婦たちとランチを楽しむ社交家でもある。
 歯を食いしばって生きてきた。薄皮まんじゅうの店に嫁ぎ、よく働いた。5歳の息子を亡くした。涙に暮れることを時代が許さず、4人の子を育てた。ところが夫がぜんそくで働けなくなった。1956年(昭和31年)、よし江さんは信心を始めた。薄皮まんじゅうを背負って、町までの砂利道を売り歩いた。
 支えがあった。「東洋の 広宣流布に 断固征け 日本海の 波は荒くも」。鳥取を初訪問した池田先生が、鳥取砂丘に立ち、詠んだ和歌だ(60年2月)。怒濤に突き進んでこそ、仏法。山陰総決起大会で、師弟の出会いを果たしたよし江さんは、苦しければ苦しいほど、子を連れて、折伏に走った。
 信心10年目に夫が世を去った。よし江さんは店を畳み、建設会社の賄いをした。子のために「男になり、女になりして働いた」。夜学に通う長男が、昼働いた給料を全部渡してくれた。
 「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」(御書1192ページ)。唱題の圧倒的な数を帳面に残しながら、子を見事に育て上げた。
 70歳からの30年間。それは生き抜くという誓いを貫いた30年だった。細くなった指でカレンダーをめくりながら、師弟を見つめた年月。池田先生と一緒に戦うという思いが、師弟の距離をぐんと縮めた。今は、池田先生の体温が伝わるほど近くに感じるという。「続きだ」という一言。ずしんと胸に響く。(天)

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