2020年8月12日 (水)

2020年8月12日(水)の聖教

2020年8月12日(水)の聖教

◆わが友に贈る

 猛烈な熱帯夜が続く。
 就寝前の水分補給や
 冷房・扇風機等の活用で
 良質な睡眠を取ろう!
 賢く健康第一の日々を!


◆名字の言 発達障がいの男子部員。「後継の宝」と励まされて  2020年8月12日

 かつてアメリカで公開された映画『ディア・ブラザー』は、冤罪で逮捕された兄を、妹が救うという話。高額な弁護士費用が賄えないため、妹は既に成人だったが高校卒業資格を取り、ついには弁護士となって、自らの手で無罪を勝ち取った▼この物語は実話を基にしている。作品を見て、感動とともに希望も湧いた。“人間は、大切な人のために努力する時、偉大な力を発揮できる”と▼発達障がいのある男子部員は、幼い頃から周囲の冷たい視線を浴び、学校ではいじめに遭った。それでも家族の愛情に包まれ、同志からは「わが地区の後継の宝だ」と励まされる中、心ない差別に負けず、成長した▼その後、地元企業に就職。真面目な姿勢が買われ、今では部署のリーダーとして活躍する。「ここまで頑張れた原動力は?」と質問すると、彼は答えた。「“僕をばかにした人たちを見返したい”と思った時期もあった。でもそれは違うなと。ずっと支えてくれた家族や同志に恩返しがしたい気持ちが原動力です」▼御聖訓に「(四条金吾は)極めて負けじ魂の人で、自分の味方を大切にする人」(御書986ページ、通解)と。負けじ魂とは、圧迫に屈しない反骨心だけではない。自他共の幸福を築くために燃やす、「最後まで戦い抜く勇気」でもある。(城)


◆寸鉄

混沌の時代に共生の心を
広げる学会は希望―識者
今いる場所で絆結ぶ一歩
     ◇
「教育原点の日」45周年。
子らの幸福が第一。教育
本部の奮闘に確かな未来
     ◇
創大通教がオンラインで
夏期授業。学は光。学びの
人生に向上と勝利の力が
     ◇
「ペルセウス座流星群」が
極大。宇宙の劇を親子で。
天空仰いで夢語らう夏を
     ◇
国連「国際青少年デー」。
心を砕いた分、若き命は
育つ。慈愛の激励、一段と


◆社説 2020・8・12 きょう「教育本部原点の日」  今こそ「子どもの幸福」のため

 「学校の夏休み」という言葉から受け取る印象が、これほど普段と異なる年はない。文部科学省の調べによれば、今年の夏休みの期間は公立学校の9割以上で短縮になった。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、休校期間中に後回しとされた授業時間の確保が主な理由だ。
 子どもにとって「学び」とは何のためにあるのか。多くの教育関係者が今、模索している課題だ。スイスの教育者ペスタロッチは「すべての学習はそれに元気と悦びとが伴わなくなれば一文の価値もない」と喝破した。「子供の顔に快活と悦びとが現われている間」は、「私は心配しない」とも言っている(佐藤守訳)。
 一方的に知識を教授する「詰め込み教育」では、子どもの真の喜びや笑顔は生まれない。ゆえに今年度からスタートした新学習指導要領では、討論などを通じて能動的に学習する「主体的・対話的で深い学び」を重視することがうたわれたわけだが、それも、このコロナ禍で実行に移すことの難しさに直面している。
 「行き詰まったら原点に戻れ」と、創価教育の父・牧口常三郞先生は語った。創価教育の原点は1930年11月18日に発刊された『創価教育学体系』にある。教育の目的は「子どもの幸福」にあると宣言した大著だ。緒言には「入学難、試験地獄、就職難等で一千万の児童や生徒が修羅の巷に喘いで居る現代の悩みを、次代に持越させたくないと思ふと、心は狂せんばかり」と記されている。
 この子どもへの深い慈愛こそ「教育の原点」だと、池田先生は訴えた。そして真の教育を実現するには、「教育法や教育学の改革はもとより、教育者自身の人間革命がなければならない」との信念に基づき、信仰を持った教育本部の友に万感の期待を寄せてきたのである。
 75年8月12日に行われた教育部(当時)の夏季講習会で、先生は「私の人生における最終の事業は教育」と語り、「教育革命の大情熱の火を点じ、未来社会への豊かな水脈をつくっていただきたい」と呼び掛けた。この「教育本部原点の日」から、本年は45周年である。
 今、同本部の友は自身の人間革命に大情熱を燃やしながら、新たな教育の在り方を模索している。学校現場だけではない。保育園や学童保育所、放課後等デイサービスなどでエッセンシャルワーカー(社会の維持に不可欠な仕事の従事者)として親子を支える友もいる。フリースクールや児童館など多彩な分野で“学びの場”“子どもの居場所”を提供している友がいる点も、同本部の強みだろう。
 全国の教育本部の同志が知恵と力を結集するならば、豊かな未来社会が築かれていくことは、絶対に間違いない。


◆きょうの発心 富木殿御返事 三重王者県婦人部長 谷口革代2020年8月12日

御文
 但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又遺恨無し諸の悪人は又善知識なり(富木殿御返事、962ページ・編477ページ)
通解
 ただ私の生涯は、もとより覚悟のうえである。(佐渡へ流罪になった)今になって翻ることもないし、そのうえまた恨みもない。(迫害した)もろもろの悪人はまた善知識である。

題目を唱え抜き、宿命を使命に
 日蓮大聖人の不惜身命の御精神をとどめられた御文です。
 学会2世として生まれ、信心を貫く家族や地域の同志の姿を見て成長。女子部時代、先輩にこの御文を拝して励まされ、“生涯、池田先生と共に”と誓いました。
 1992年(平成4年)の中部総会に参加し、先生の万感の指導に感動。“一人ももれなく幸福に”と地域を駆け巡りました。
 地区婦人部長を務めていた時、次男が生後80日で霊山へ――。悲しみの中、御本尊を抱き締めるように祈り“宿命を使命に変え、次男の分まで生き抜こう”と再起することができました。師匠と創価家族の力強い励ましがあればこそと、感謝の思いでいっぱいです。
 かつてない変化の時を迎えた今こそ、“一人を大切に”を実践しています。中学生になった長男の広布後継を祈り、縁深き三重王者県の皆さまと共に、学会創立100周年を目指して“太陽のスクラム”で大前進していきます。


【先生のメッセージ】

◆ 連載〈世界広布の大道〉小説「新・人間革命」に学ぶ 第22巻 名場面編2020年8月12日

絵・間瀬健治

絵・間瀬健治 

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第22巻の「名場面編」。心揺さぶる小説の名場面を紹介する。挿絵は内田健一郎。
 
師への誓いが会館建設の礎

 〈1975年(昭和50年)ごろから、学会は会館の整備にも力を注いだ。会館というと、山本伸一には、戸田城聖の事業が窮地に陥った時の、忘れられない思い出があった〉

 ある日、戸田と伸一は日比谷方面に出かけた。どしゃ降りの雨になった。傘もなく、タクシーもつかまらなかった。全身、ずぶ濡れになった戸田を見て、伸一は胸が痛んだ。弟子としていたたまれぬ思いがした。
 目の前に、GHQ(連合国軍総司令部)の高いビルがそびえ立っていた。そのビルを見上げて、伸一は戸田に言った。
 「先生、申し訳ございません。必ず、将来、先生に乗っていただく車も買います。広宣流布のための立派なビルも建てます。どうか、ご安心ください」
 弟子の真剣な決意を生命で感じ取った戸田は、嬉しそうにニッコリと頷いた。(中略)
 戸田は、会員のために、一刻も早く、広い立派な建物をつくりたいと念願していた。皆に申し訳ない気持ちさえ、いだいていた。
 しかし、そんな戸田の心も知らず、「学会も早く本部をつくらなければ、何をやるにも不便で仕方ありませんな。そろそろ、世間があっと驚くような、建物の一つももちたいものですね」などと言う幹部もいた。
 すると、戸田は強い口調で語った。
 「まだよい。かたちばかりに目を奪われるな。私のいるところが本部だ!
 それで十分じゃないか。今は建物のことより、組織を盤石にすることを考えなさい」
 山本伸一は、そんな戸田の言葉を聞くたびに、心に誓っていた。
 “先生、私が頑張ります。一日も早く、気兼ねなく皆が集える、独立した本部をもてるようにいたします”
 一九五三年(昭和二十八年)十一月、新宿区信濃町に学会本部が誕生した時、戸田はまるで、子どものような喜びようであった。(中略)
 戸田は伸一に言った。
 「将来は、日本中に、こんな会館が建つようにしたいな」
 伸一は、その言葉を生命に刻んだ。
 そして今、かつての学会本部をはるかにしのぐ、幾つもの大会館を、各県区に、つくれるようになったのである。
 (「新世紀」の章、11~15ページ)
 
真心の手紙は友の魂を触発

 〈7月、ハワイで行われたパレードに、支部結成間もない、ニカラグアのメンバーが参加し、喝采を浴びた。支部婦人部長の山西清子は、帰国後、山本伸一に感謝の手紙を送る〉

 すると、多忙を極める伸一に代わって、峯子から長文の返事が届いた。
 「お便り嬉しく拝見いたしました。ハワイでお元気な姿に接し、また、五人もの同志が参加なさいましたことは、条件の違いを考えますと、日本ならば五百人にも相当するものであったと思います。ニカラグアの初のパレードに対し、私どもも目頭を熱くしながら、拍手を送らせていただきました」
 山西の手紙に対して、伸一は峯子に、自分の真情を語り、返書を認めるように頼んだのである。峯子からの手紙は、伸一の心でもあった。彼らは常に、こうした二人三脚ともいうべき呼吸で、広宣流布の仕事を成し遂げてきた。(中略)
 山西への手紙に、峯子は記した。
 「ニカラグアは、今、最も重要な、そして、大変な、土台づくりの時を迎えていると思います。どうか、焦らず、着実に、堅固な土台をつくっていってください。(中略)メンバーの要となり、懸命に奔走される姿に、本当によくなさっていると、敬服しております」(中略)
 さらに、手紙には、伸一の激闘の模様をはじめ、日本の同志が、どういう思いで活動に取り組んでいるのかも、綴られていた。
 「世間では、不況がますます深刻になりつつあります。学会員の皆さんは『こういう時こそ、信心している人は違うという事実が、はっきりする時だ!』と、一段と元気に、仏法対話に励んでおります」
 そして、「末筆ながら、ご主人様に、よろしくお伝えくださいませ。また、皆様にも、よろしくお伝えくださいませ。御一家の御健康、御繁栄を心よりお祈りいたします。会長から、くれぐれも皆様によろしくとのことでございました」と結ばれていた。
 山西は、この手紙を涙で読んだ。
 “先生と奥様は、私たちのことも、みんな知ってくださっている。日本から遠く離れたニカラグアも、先生のお心のなかにある。先生も、奥様も、いつも、見守ってくださっている。頑張ろう。頑張り抜こう”(中略)
 生命の言葉は、人の魂を触発する。
 (「潮流」の章、186~188ページ)
 
信頼の絆でつくる人間組織

 〈9月、女子部の人材育成グループ「青春会」の結成式が行われた。山本伸一は、参加者の質問に答え、未来を託す思いで、渾身の力をふりしぼるように指導する〉

 質問は、さらに何問か続いた。いずれも、組織をどう発展させるかなど、広宣流布への一途な思いを感じさせる質問であった。
 伸一は、未来への希望と力を感じた。
 彼は、皆の質問に答えて、組織としての運動の進め方などについて述べたあと、最後に、魂を打ち込むように訴えた。
 「組織といっても、人間関係です。あなたたちが、自分の組織で、一人ひとりと、つながっていくんです。単に組織のリーダーと部員というだけの関係では弱い。周りの人たちが、姉のように慕ってくるようになってこそ、本当の人間組織です。
 組織を強くするということは、一人ひとりとの、信頼の絆をつくっていく戦いです。あなたたちが皆から、“あの人に励まされ、私は困難を克服した”“あの人に勇気をもらった”と言われる存在になることです。
 私も、そうしてきました。全学会員とつながるために、常に必死に努力しています。
 なんらかのかたちで、激励する同志は、毎日、何百人、何千人です。この絆があるから、学会は強いんです。
 その人間と人間の結合がなくなれば、烏合の衆になる。学会は、滅びていきます。この点だけは、絶対に忘れないでほしい」
 皆、真剣な顔で、瞳を輝かせていた。
 伸一は、笑みを浮かべた。
 「では、みんなで写真を撮ろう。これは、大事な、誓いの証明写真だ」
 伸一は、メンバーを前に並ばせ、自分は、後列に立った。フラッシュが光り、シャッター音が響いた。
 写真撮影が終わると、彼は、皆に視線を注ぎながら言った。
 「もし、ほかの人が誰もいなくなっても、このメンバーが残ればいいよ。私がまた、一千万にするから。一緒にやろう。みんな、何があっても、退転だけはしてはいけないよ」
 (「波濤」の章、299~300ページ)
 
「励まし」は創価の生命線

 〈11月、山本伸一は広島を訪問。当初予定のなかった呉を訪れ、勤行会を行う。広島市への帰途も、車中から激励が続く〉

 途中、生花店の前に、十人ほどの人たちが、人待ち顔で道路の方を見て立っていた。婦人や壮年に交じって、女子中学生や女子高校生もいた。
 伸一は、運転手に言った。
 「“うちの人”たちだよ。ちょっと、車を止めてくれないか」
 呉会館の勤行会に、間に合わなかったために、「せめて、ここで、山本会長をお見送りしよう」と、待っていた人たちであった。そこに黒塗りの乗用車が止まった。窓が開き、伸一の笑顔がのぞいた。歓声があがった。
 女子中学生の一人が、抱えていたユリやバラなどの花束を差し出した。伸一に渡そうと、用意していたのだ。
 「ありがとう! 皆さんの真心は忘れません。また、お会いしましょう」
 伸一は、こう言って、花束を受け取った。
 ――それから間もなく、そこにいた人たちに、伸一から菓子が届いた。
 また、しばらく行くと、バスの停留所に、何人かの婦人たちがいた。はた目には、ただ、バスを待っている人にしか見えなかった。
 「今、バス停に、“うちの人”が五人いたね。念珠と袱紗を贈ってあげて」
 伸一の指示を無線で聞いた後続車両の同行幹部が、念珠などを持って停留所に駆けつけると、確かに五人の婦人たちは、皆、学会員であった。同行幹部の驚きは大きかった。
 学会員は、皆が尊き仏子である。皆が地涌の菩薩である。その人を、讃え、守り、励ますなかに、広宣流布の聖業の成就がある。
 ゆえに、伸一は、大切な会員を一人として見過ごすことなく、「励まし」の光を注ごうと、全生命を燃やし尽くした。だから、彼には、瞬時に、学会員がわかったのである。
 「励まし」は、創価の生命線である。
 彼は、その会員厳護の精神を、断じて全幹部に伝え抜こうと、決意していたのである。(「命宝」の章、401~402ページ)


◆〈創大通教〉夏季スクーリング開講への池田先生のメッセージ  2020年8月12日

 不撓不屈の探究へ、負けじ魂燃ゆる通教生の皆さん、誠に誠にご苦労さまです。
 集い合えなくとも、全国・全世界の尊き皆さん一人一人と、私の心はいつもつながっております。豪雨等で被災された地域の方々をはじめ、さまざまな困難の中で、夏期スクーリングに挑む皆さんに、私は最敬礼して、健康と勝利への祈りを捧げております。
 オンライン授業という初の試みに尽力してくださる教員の先生方、職員やお世話になる関係者の方々にも、心より御礼申し上げます。
 今、私は、あらためて創価教育の師父・牧口常三郎先生の精神を、皆さんと共に思い起こしたい。すなわち、「学光の塔」に刻まれた「学は光、無学は闇。知は力、無知は悲劇」との師子吼であります。

探究の「熱と誠」で破れぬ壁はない
 牧口先生とほぼ同じ時代に、先生と相通ずる「学の光」で、人類の悲劇を転換する闘いに挑んだ医学・細菌学者が、北里柴三郎博士でありました。博士は、働きながらの苦学生の最中、面倒を見ている弟妹たちへの手紙につづっています。
 「人々一大業を成さんと欲せば、各々その基礎を堅固ならしむべし。その基礎とはすなわち一身上の勉強なり」(福田眞人著『北里柴三郎――熱と誠があれば』ミネルヴァ書房)と。すなわち、偉業は、“生涯を通じての勉強”を基に果たされていくというのです。
 とともに、人類の脅威であり続けたペストの原因菌を突き止め、野口英世など、名だたる後進を育てた博士は訴えています。「人に熱と誠があれば何事でも達成するよ」「世の中は決して行き詰まらぬ。若し行き詰まったものがあるならば、是は熱と誠がないからである」(北里研究所編『北里柴三郎傳』岩波書店、現代表記に改めた)と。
 人生も社会も、永遠に闘争です。創価の「学」光る皆さん方には、探究と価値創造への燃え上がる「熱と誠」があります。破れぬ壁は断じてありません。

創価教育の志を継ぐ一人一人に
 思えば、牧口先生も戸田先生も、時代を先駆けた通信教授を行われておりました。
 皆さん方こそ、創価教育の師弟の志を受け継がれ、偉業を成し遂げゆく一人一人であります。
 どうか、それぞれに体に気をつけながら、最高に有意義な一日一日を勝ち飾っていってください。私は毎朝毎晩、皆さんの無事安穏と幸福栄光を祈り抜いています。一体不二で崇高な向学と向上の歴史を刻まれゆく、ご家族の皆さんにも、くれぐれもよろしくお伝えください。
 愛する誉れの通教生、万歳! いついつまでも、お元気で!


【聖教ニュース】

◆創価大学通信教育部の夏期スクーリングがオンラインで開講  2020年8月12日

「創大本部棟」と、その正面に立つ「学光の塔」。男女6体の像は「挑戦」「情熱」「歓喜」「英知」「行動」「青春」のテーマを表現する

「創大本部棟」と、その正面に立つ「学光の塔」。男女6体の像は「挑戦」「情熱」「歓喜」「英知」「行動」「青春」のテーマを表現する

 創価大学通信教育部(東京・八王子市)の第45回「夏期スクーリング」が11日、ビデオ会議システムを活用し、オンラインでスタートした。
 同日から創大首脳らによる開講に当たってのあいさつ映像が通教学生ポータルサイトで配信。
 これには創立者の池田大作先生がメッセージ(2面に掲載)を贈り、不撓不屈の探究心を燃やす通教生をたたえた。

探究と価値創造に燃えて
 1976年の通信教育部の開設以来、夏期スクーリングは毎年、キャンパスで実施。通教生が直接、教授陣から学び、向学の志を同じくする友と励まし進む人間錬磨の場となってきた。
 しかし、今年度は新型コロナウイルスの感染防止のため、全てオンライン授業で行うことを決定。今回は1期から3期に分かれ、日本と海外18カ国・地域の延べ7400人が自宅等で授業に臨む。
 池田先生は開講へのメッセージで訴えた。
 「人生も社会も、永遠に闘争です。創価の『学』光る皆さん方には、探究と価値創造への燃え上がる『熱と誠』があります。破れぬ壁は断じてありません」
 通教生一人一人は、これまでもコロナ禍によって生じた障壁と向き合ってきた。
 その一つが、慣れないデジタル機器の操作や、アプリケーションの設定――勝手が分からず、もどかしさを感じた通教生もいただろう。
 さらに緊急事態宣言下での各人を取り巻く環境の変化もあった。ある新入生は仕事と学習の配分がつかめず、今後の勉強に大きな不安を感じたという。また、豪雨等で被災した通教生もいた。

光友会の励まし合いが心の支えに
 それでも皆、学びの挑戦を決して止めなかった。教職員による手厚いサポートとともに、光友会(通教の在学生の集い)の励まし合いが、心の支えになったのだ。
 ある通教生は語る。「苦学を重ねるほど、“なぜ自分だけ……”と孤独を感じてしまうことがありました。しかし、光友会の友と語り合えば、共感と触発が生まれ、勉学の意欲が湧きます!」
 ある地域では毎月、SNS等を活用して勉強会を開催。他の地域では、新入生とオンライン懇談の場も――。
 通教生はこのコロナ禍の中で、どこにいても相互に連携を図り、切磋琢磨する新たな栄光の歴史を開いた。
 今回のスクーリングには、向学の志に燃えて昨年度を超える学生がオンラインで集う。

「学の光」で世界を照らせ
 開講に当たってのあいさつ映像では、田代理事長が創立者のメッセージを代読。
 馬場学長は世界中から世代を超えてオンラインで集う通教生は、世界的危機という挑戦に応戦し、新たな価値を創造しゆく模範であると語った。
 花見通信教育部長は「“学の光”で世界を照らしゆくとの心意気で学び抜いてほしい」と述べた。
 同スクーリングは25日まで行われる。


◆ロシア語版「法華経の智慧」第6巻が完成   2020年8月12日

『法華経の智慧』ロシア語版第6巻。薬王菩薩本事品から普賢菩薩勧発品までを収録している
『法華経の智慧』ロシア語版第6巻。薬王菩薩本事品から普賢菩薩勧発品までを収録している

 池田先生の『法華経の智慧』ロシア語版第6巻がモスクワ大学出版会から発刊。第1巻の出版は先生のロシア初訪問40周年の2014年で、約6年を経て待望の完結を迎えた。

識者「人類が探し求めている哲学」
 「諸経の王」である「法華経」を通し、日蓮仏法の本義が解説されている同書。ロシア科学アカデミー哲学研究所のアブドゥサラム・グセイノフ前所長は、非暴力につながる「仏とは生命なり」との真理など、この哲学にこそ「人類が探し求めている智慧」があると評価している。
 同出版会は、モスクワ大学の出版部門として、同大学創立の翌年、1756年に誕生。ロシアの文学作品や学術書をはじめ、外国著作の翻訳書を出版してきた。これまで池田先生とゴルバチョフ元ソ連大統領、歴史学者のトインビー博士らとの対談集のロシア語版を手掛けている。
 同出版会のイーゴリ・ポポフ前社長は先生の著作の出版について「心の豊かさを広げていくための取り組みです」と語っている。

モスクワ大学のサドーヴニチィ総長と池田先生が語らう(2008年11月、東京で)。1992年の初会談以来、幾度も出会いを結んだ

 モスクワ大学の関係者と池田先生の友情は45年以上に及ぶ。先生は1974年9月、同大学の招へいでロシアを初訪問し、ホフロフ総長はじめ大学首脳や学生と交流。翌75年5月には、同大学と先生が創立した創価大学との間で学術交流協定が締結され、日露友好に尽くす人材を育んできた。
 『法華経の智慧』ロシア語版についても、創価大学からモスクワ大学への最初の交換留学生が中心となって、世界各地の友と翻訳に尽力し、このたびの出版につながった。
 また同年、同大学は世界平和と日露友好への貢献を高く評価し、先生に名誉博士号を授与。先生にとって世界の大学・学術機関等から贈られた第1号の名誉学術称号となった。
 先生は同大学で2度講演(75年と94年)。歴代のログノフ、サドーヴニチィ総長と、それぞれ対談集を編んでいる。
 重ねて2002年には、名誉教授称号が先生に贈られた。
 『法華経の智慧』ロシア語版全6巻の完成は、こうした信頼と友好の歴史に一ページを加えるとともに、ロシア語圏の人々に新たな生き方の発見をもたらすに違いない。

 

2020年8月11日 (火)

2020年8月11日(火)の聖教

2020年8月11日(火)の聖教

◆わが友に贈る

 電話や手紙等も使って
 故郷の友人・親戚と
 旧交を温めよう!
 真心の一声・一筆が
 自他共の歓喜を生む。


◆名字の言 地球的課題を解決するために必要な思想とは?   2020年8月11日

 地球誕生からの歴史を、地層の中の化石などから読み取れる環境変化などに基づいて区分した年代を「地質時代」という。この区分では、約1万年前から現在までを「完新世」と呼ぶ▼だが、21世紀に入ってから、「人新世」という言葉が用いられ始めた。その概念を提唱したのは、ノーベル化学賞を受賞した大気化学者クルッツェン。“人類の活動が、地球規模で影響を及ぼすようになった時代”と定義される▼ローマクラブは、最新のリポート『Come On! 目を覚まそう!』(明石書店)で、「人新世」を「持続可能な発展」の時代とするために、人類が「新しい世界観と新しい思想を確立するという挑戦に直面している」と指摘する▼池田先生は、ローマクラブの創立者・ペッチェイ博士、第3代会長のホフライトネル博士、共同会長を務めたヴァイツゼッカー博士と、それぞれ対談集を編んだ。3人との語らいに共通するのは、地球規模の諸課題を解決するには「人間革命」が必要、ということだ▼気候変動や感染症の拡大は、豊かさを際限なく追い求め、その果実を争う時代への反省を人間に迫っている。覇権を巡る争いよりも地球的課題解決への共闘を。軍事的安全保障から人間の安全保障へ――終戦75年の夏をその転機としたい。(芯)


◆寸鉄

「能く持つこと有れば即
ち仏身を持つなり」御書
信心は持続。今日も一歩
     ◇
青年の一番の宝は信頼―
恩師。仏法は即生活。誠実
の振る舞いで輝く実証を
     ◇
友の幸福に尽くした分、
人は確実に偉大になる―
偉人。友情は人生彩る宝
     ◇
コロナ禍の情報信頼度、
新聞がトップと。希望の
光送る聖教の充実を誓う
     ◇
子どもの水難事故、例年
より多く。保護者の同伴、
救命胴衣の着用等が必須


【先生のメッセージ】

◆〈心に御書を〉67 平和へ! 若き地涌の結合を2020年8月11日

〈御文〉
 よき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり(法華初心成仏抄、550ページ)
〈通解〉
 よい師と、よい檀那と、よい法と、この三つが寄り合って祈りを成就し、国土の大難をもはらうことができるのである。

〈池田先生が贈る指針〉
 御本仏に直結し、妙法で結ばれた師弟ほど強いものはない。広布と人生の大願を成就し、立正安国の宝土を築く力は、この結合にある。
 戦後の荒野に恩師が一人立ち、地涌の陣列を呼び出して75年。揺るがぬ平和の民衆城が聳え立った。今、創価の若き世界市民の連帯こそ、地球社会の諸難を打ち払う希望なのだ。


聖教ニュース】

◆あす8・12「教育本部原点の日」 インタビュー 米パデュー大学イザベル・ヌニェス博士
2020年8月11日

 あす12日は「教育本部原点の日」。淵源である、池田大作先生が出席した教育部(教育本部の前身)の夏季講習会(1975年8月12日)から45周年を迎える。
 今や、アメリカやスペインなどの大学に“池田教育研究所”が開設され、世界の教育者や学術者が、池田先生の思想や創価の人間教育を研究する時代となった。
 コロナ禍などによる激動の時代に教育の果たすべき役割とは何か。創価教育への期待とは――池田先生の教育哲学を研究している、アメリカ・パデュー大学教育学部長のイザベル・ヌニェス博士に聞いた。

「歓喜」は人生を豊かにする「学び」の基盤
 ――ヌニェス博士は、池田先生と歴史学者ハーディング博士との対談集『希望の教育 平和の行進』を読んで先生を知り、研究を重ねてこられたと伺いました。先生の思想や行動で、特に注目されているのは、どのような点でしょうか。
  
 対談集と出合ったのは、7年ほど前のことです。厳しい現実に目を背けることなく、事実に基づきながらも、読者に「希望」を与える内容でした。彼らの対談は人類の善と変革の可能性に対する確信にあふれていました。
 この幸運な出合いから、池田SGI(創価学会インタナショナル)会長の思想を研究するようになったのです。
 会長の著作を読み進める中で特に印象に残っている言葉は「歓喜」です。『法華経の智慧』では、生命には「歓喜」を見つけ、「歓喜」を生み出す無限の可能性が備わっていることが強調されています。一読者として大きな衝撃を受けました。
 「歓喜」こそ、人生を豊かにする「学び」の基盤であると私は信じています。

昨年5月、ヌニェス博士(左から2人目)が、デポール大学池田教育研究所のグーラー所長(同3人目)と共に来日。教育本部の代表と懇談した(都内で)

昨年5月、ヌニェス博士(左から2人目)が、デポール大学池田教育研究所のグーラー所長(同3人目)と共に来日。教育本部の代表と懇談した(都内で)

池田会長の教育思想は教師の内面の変革を促す
 ――池田先生の思想の研究が進むことで、世界の教育界に、どのような影響を与えると思いますか。
  
 教育界は、とりわけ困難な状況にあります。長年にわたる教育格差や教育の目的の喪失に加え、感染症の世界的大流行、人種差別の問題などに直面しています。
 このような危機的状況から、発展と変革のチャンスを生み出す上で、池田会長の哲学は「歓喜」に向かう「希望」に満ちた道を照らし示してくれます。
 現在、デポール大学の「池田大作教育研究所」のジェイソン・グーラー所長との共著で、池田会長の思想と魅力を紹介する書籍の発刊の準備が進んでいます。その着想の源となったのが、池田会長の「希望」と「歓喜」の考え方でした。
 アメリカをはじめ世界の教育界が抱える多くの課題は、市場的価値観であらゆる側面を判断する経済的・政治的イデオロギーによって生じたものです。
 労働人口の創出が教育の唯一の目的となってしまい、共通の文化遺産の継承や保護、民主主義への参加や社会変革の主体者となるための青年育成といった「教育の目的」を見失っているのです。
 これらによって、人々が教職を目指す動機となるべき、教師本来の価値観も侵害されています。
 創価の人間教育は、こうした課題に対抗する強力な役割を果たすと確信しています。
 創価教育は、とりわけ教育者にとって、個人の内面性の充実や、歓喜と充実の共有といった、より広く深い価値観を取り戻す助けとなるでしょう。


昨年5月、創価学園での記念講演の後、学園生と語らうヌニェス博士。「生徒たちの『意欲』と『開かれた心』に感銘を受けました」と(東京・小平市で)

 ――池田先生はかつて「時代、社会の変動によって、教育の方法も変化しよう。しかし、子どもと共にあり、子どもを愛し、断じて守り抜こうとする心は、絶対に変わってはならない。そこに、人間教育の原点もあるからだ」と訴えました。コロナ禍による変化が続く今、教師には、どのような役割が求められるでしょうか。
  
 経験豊富な教師であれば、子どもたちの生活や成長に関わる自身の役割が、単に知識や技術を教えるだけではないことを熟知しています。ある時はコーチ、看護師、カウンセラーとなり、またある時は親ともなり、さまざまな役割を果たすのが教師です。
 これは、コロナ禍によって生じたのではありません。コロナ禍によって鮮明になったのです。まして、コロナ禍によって多くの子どもたちが従来の支援を受けられなくなったことで、教師の重要性は増しています。
 すでに大きな役割を担っている教師の方々に、これ以上、要求するのは難しいことかもしれませんが、子どもたちに“あなたを大切に思っている”“私はあなたを支えるためにいる”と伝えていくことが、これまで以上に大切です。
 今、子どもたちだけでなく、その家庭、地域、さらには社会全体を包み込むような、広大な視野をもった教育哲学が求められているのです。

総神奈川教育部がまとめた2019年度「教育実践記録集」。教員らと子どもたちの心通う成長のドラマがつづられている

総神奈川教育部がまとめた2019年度「教育実践記録集」。教員らと子どもたちの心通う成長のドラマがつづられている

 ――池田先生の提案で始まった創価学会教育本部の「教育実践記録運動」は、昨年度で14万5000事例を突破しました。代表事例の英訳も進んでいます。博士は教育実践記録運動の意義について、どのようにお考えですか。
  
 昨年に訪日した折、教育本部の方々から実践記録運動について伺い、大変にうれしく思いました。
 皆さまの教育実践記録は、それぞれの教師の人生と仕事をつづる「物語」であり、人間の経験における最も豊かな資料と言えるでしょう。
 私も、かつて出版した共著本で、教育実践のエピソードを紹介したことがあります。
 それは私が23歳の時、ロサンゼルス郡にある小学校の1年生の担任として出会ったアレックス(仮名)との物語です。
 彼は、授業中に教室を走り回ったり、机の下に潜り込んだりしていました。しかし、他の児童に手伝ってもらうと学業に取り組むことができました。
 クラスの子どもたちは、自発的にアレックスに勉強を教えてくれました。彼の学習を支えることで、皆が直感的な喜びを感じていたようです。友達の優しさに包まれたアレックスは、次第に親切な行動を取るようになっていきました。
 その後、アレックスは特別支援学校に転校することになりましたが、互いを助け合うクラスの気風は継続しました。
 私は特別支援教育の専門家ではありません。アレックスは転校によって学習が進み、より幸福になったかもしれません。
 しかし、その後に担当したクラスでも、同じような気風をつくる努力をしましたが、クラスの皆の心に潜在する“善意を信じる心”“皆を大切にする心”が、アレックスがいたあのクラス以上に引き出されることはなかったのです。どんな子にも、その子にしかない使命があることを、アレックスから教えてもらいました。
 こうした「物語」は、「教え」と「学び」の最も効果的な手段でもあります。
 教育本部の皆さまが残されている、これほど多くの教師による共通の哲学に基づいた「物語」は、創価教育や日本の教育の研究に関するデータの宝庫とも言えます。
 とりわけ池田会長の教育哲学の理論的枠組みを研究する教育学者にとって、多くの手掛かりを得る貴重な資料となります。

激動の時代に希望を送る創価の人間教育の哲学
 ――博士が、さらに研究を進めようと思われている、創価の教育哲学は何でしょうか。
  
 最も時に適っているのは、創価教育の変革の力を研究することです。
 あらゆる社会変革は「一人」から始まります。教師は目の前の一人一人を励まし、内面の変革を促す上で最高の立場にあります。
 社会変革のための教育興隆に向けた創価の人間教育の実践と効果を研究する上で、ぜひともアメリカと日本の教育実践の「物語」をまとめ、比較研究をしたいと思っています。
  
 ――コロナ禍の中で奮闘する教育者へのエールをお願いします。
  
 私たちは、絶望に陥ってしまいがちな、衝撃的なことばかりを経験しています。しかし、一つ一つの新たな挑戦から学び、成長することができます。
 人生にもたらされるあらゆることに、「信頼」「信念」「感謝」の心で、共に立ち向かっていきましょう!

 【プロフィル】アメリカ・パデュー大学教育学部長、教授。専門は教育政策、カリキュラム研究など。法科大学院を卒業後、アメリカ、イギリスの小学校教員などを経て、イリノイ大学シカゴ校で博士号を取得。数々の大学で教壇に立ち、現職に至る。

 

【特集記事・信仰体験など】

◆〈未来の宝と共に 池田先生の書籍に学ぶ〉中国少年部長 岩渕光明さん
 テーマ「勉強や宿題が面倒です」

 勉強や宿題は、するべきときにしてしまえば、後の時間を、伸び伸びとやりたいことに使えます。そのほうが、価値的ではないでしょうか。
 もちろん、遊びや休みの時間も必要です。だから、「今は勉強だ!」「今は本を読もう!」「今は遊ぼう!」「今はゆっくりしよう!」と、時間帯を自分なりに決めて使うことです。そうやって生活にメリハリをつけ、時間を大切にしていけば、楽しい、充実した時間を、何倍にも増やすことができます。
 (『希望の大空へ』86ページ)

一歩前進の挑戦が将来を開く
 私は小学生の頃から創価学園に通い、勉強や読書が好きで楽しく取り組んでいました。
 しかし、作文は大の苦手。毎年、夏休みがやってくるとワクワクする半面、“また作文の宿題がある”と暗い気持ちになっていました。それでも両親からの励ましを受け、勤行・唱題に挑戦。“よし、頑張ろう!”と決意し、上手な文章が書けなくても、苦手なことに挑む癖をつけていきました。
 その努力と挑戦の姿勢は、学園を卒業し、創価大学法学部に進学した後に生きてきました。
 法学部に進んだ当初も、文章を書くことは苦手なままでしたが、試験はほとんどが論述問題。長い文章をたくさん書かなければなりません。苦手なことを乗り越えるために、“やるしかない”と決めて、日々、勤行・唱題を実践し、勉強に取り組みました。
 最初は参考書を見て、正しい文章のまねをする練習を。諦めずに何度も何度も書き、勉強を重ねると、徐々に書くことが苦にならなくなり、コツをつかめるようになっていきました。
 結果、良い成績を取れるようになり、大学生活の中で、特待生に2回、選ばれたのです。祈りを根本に努力と挑戦を続けていけば、必ず成果が出ると実感できました。
 池田先生は『希望の大空へ』の中で、“楽しい夏休みを過ごすための合言葉は「チャレンジ」”と示された上で、次のように言われています。
 「『三日坊主』だって、かまわない。三日間、挑戦したことは、三日分は前進し、成長したということだからです。三日続いたのだから、自分に自信を持つことです」「何回も、こりずに決意して、挑戦できる人が、偉い人です。勝つ人です。大事なことは、ねばり強く挑戦を続けるということなんです」と。
 今年は、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、夏休みが短くなり、その中で宿題や習い事などに取り組む人がほとんどでしょう。いつもと違う環境で、戸惑いや不安、苦労も多いと思います。だからこそ信心根本に、「環境に負けないぞ!」「勉強をあと5分、あと1ページ頑張ろう!」と心を奮い立たせて、一歩前進のチャレンジをしていきましょう。その一歩が自身の成長につながり、将来の道を開くきっかけとなります。
 “昨日よりも今日の自分に勝つ”“明日は今日の自分に勝つ”――そう決めて、挑戦と成長の夏にしていきましょう。


◆〈紙上セミナー 仏法思想の輝き〉2020年8月11日
 苦しむ子に寄り添う  幼児・家庭教育部長 市川由紀絵

 【プロフィル】いちかわ・ゆきえ 創価大学卒業後、東京都内の公立小学校に勤務し、現在は校長を務める。1965年(昭和40年)入会。埼玉県川口市在住。婦人部副本部長。総埼玉副教育部長。

心の重荷を軽くする関わり
 池田先生の「私の最後の事業は教育である」との言葉に感銘し、教員になって33年。これまで、さまざまな子どもたちと出会いました。苦労や悩みもたくさんありましたが、それ以上に、子どもたちから「生きること」のすばらしさ、人間のもつ可能性の大きさを教わり、教育という仕事の偉大さを感じています。
 忘れられない出会いの一つに、私が担任を受け持った、ある6年生の児童がいます。
 この学年は、前年度に学級崩壊しており、新年度がスタートしてからも、男子児童数人が授業中に勝手に立ち歩いたり、授業を妨害したりしました。それを注意した教員に集団で暴力を振るうこともしばしば。その影響で、他の児童も無気力になってしまい、手のつけられない状況でした。
 こちらが何を言っても、返ってくる言葉は「うざい」「くそ」「死ね」という暴言ばかり。どうしたらこの子たちと心を通わせることができるのかと、悩みながら題目をあげ、自分なりに懸命に関わっていたある時、リーダー格の子がつぶやいた一言に、はっとしました。
 「どうせ俺たちなんか、何をしたって認めてもらえない」
 “ああ、この子たちは、心の中では認めてもらいたい、がんばりたいと思っているんだ”――そう気付かされました。問題行動の奥にある、子どもたちの心が見えた瞬間でした。
 以来、この子たち一人一人に、活躍の場を与えていき、少しの変化でも保護者に伝えるようにするなど、粘り強く成長を見守り続けました。
 迎えた卒業式。それぞれ立派に成長した子どもたちの姿に心を打たれ、「どんな子でも、必ず伸びることができる」との確信を深めました。

感染拡大の中で
 御書に、「一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩(中略)一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり」(557ページ)とあります。
 私たちの唱える題目には、ありとあらゆる人の生命から、仏性という最極の善性を呼び覚ましていく響きがあります。“どの子にも無限の可能性がある”と信じて祈り、関わり続けるこちらの心は、子どもたちの心にも必ず伝わると確信します。
 新型コロナウイルスの感染拡大で、学校生活は一変し、マスク着用やフィジカルディスタンス(身体的距離)をとりながらの関わりは、人と人との距離を遠ざけるものとなりがちです。
 コミュニケーションが取りづらいことに加え、授業時数の確保のために夏休みも短くなり、学習の遅れを心配する周囲の雰囲気に、重苦しさを抱えている子も少なくないでしょう。また、大人自身が不安を抱えている様子を、敏感に感じ取っている子もいます。
 一方、外出自粛の期間を「家族のつながり」を再確認する機会と捉え、日々の生活の中に楽しさを見つけるなど工夫していた家庭では、子どもも安心して過ごせていたと感じます。子どもたちの悩みや心の声に耳を傾け、同苦し、心の重荷や不安を軽くしてあげるような周囲の関わりが、今こそ大事ではないでしょうか。

長男の不登校
 わが家の長男が中学1年の時、同級生からの暴力がきっかけで学校に行けなくなりました。長男は穏やかな性格で、頼まれなくても手伝うような優しい子なのですが、断ることができず、また自分のやりたいことをはっきり決められないところもありました。中学に入学してからも、やりたい部活が見つからず、成績は徐々に下がっていく一方。朝になっても起きてこない日があり、「具合が悪いのか」と聞いても返事はあいまいで、無気力のようでした。やっとの思いで登校したものの、友達とのトラブルが起こり、とうとう、行けなくなってしまいました。
 この時、私は「息子よ、強くなれ! 強くなれ!」と祈っていました。しかし、そうではないことに気付かされました。ある時、夫が長男に、「君のいいところは、その優しさだ。その優しさをずっと大事にしてほしい。君は変わらなくていい。君は、君のままでいいんだよ」と話したところ、長男は大粒の涙をこぼしながら、その言葉を聞いていたのです。
 それから、長男の状態は好転し、学校にも行けるようになり、生き生きと学校生活を送れるようになりました。進路も自分で決め、中学・高校と勉学に励み、家中に響き渡る声で題目をあげて、志望した大学の合格を勝ち取れたことは、長男の大きな自信になりました。
 日蓮大聖人は「人に教えることは、車輪が重かったとしても油を塗ることによって回るようにすることである」(御書1574ページ、趣意)と仰せです。
 子どもは、環境が整えば、必ず自分自身で一歩を踏み出せる時がきます。そのためにも、周囲の大人が、子どもにとっての最大の教育環境となっていくことが何より大切ではないでしょうか。
 池田先生はつづっています。
 「どんなに困難で複雑な現場にあっても、子どもたちを取り巻くすべての皆様に、『それでも対話を!』と申し上げたいのであります」
 「『一番苦しんでいる子どもの側』に立って、対話を進めていただきたいのであります」
 心通わせる実践を通して、子どもたちが幸福を感じられる社会を構築していきたいと願っています。

[視点]抜苦与楽
 仏法では、仏の崇高な慈悲の行為として、「抜苦与楽(苦を抜き楽を与える)」の実践を説きます。
 日蓮大聖人は、一切衆生の苦悩は「ことごとく日蓮一人の苦である」(御書758ページ、通解)と仰せになり、苦しみにあえぐ民衆に同苦し、苦難を乗り越えていくよう、力強い励ましを送られました。
 “同苦”とは、上から哀れむような“同情”ではありません。相手に寄り添い、悩みを共有しながら、相手が自力で立ち上がれるまで、粘り強く関わり続けていく実践です。
 それはまた、「相手の可能性を信じ続けること」と言い換えることもできるでしょう。こうした慈悲の精神に基づく“励ましの絆”で結ばれた連帯が、創価学会なのです。


◆〈信仰体験〉〈登攀者2020〉蒸気機関車の車両整備士   夢と浪漫の旅路をゆく

 黒光りする重厚な車体が鼓動を繰り返す。噴き上がる白い蒸気と黒い煙。鳴り響く汽笛。
 明治から昭和にかけて活躍した蒸気機関車(SL)は今、観光列車として日本各地を走る。
 「鉄の塊が蒸気の力で動く。その迫力がたまりません」と語るのは、蒸気機関車の整備士・原圭一さん(59)=奈良県生駒市、副圏長(地区部長兼任)。
 JR西日本の梅小路運転区(京都市下京区)に勤務する。焼けた肌に青い作業服。白髪交じりの頭に黄色いヘルメット。いぶし銀の鉄道マンは、ハンマーを一つ握ると、ゆっくり歩きだした。
 扇形車庫に止められたD51形蒸気機関車200号機。
 直径140センチもの大型動輪に固定されたいくつものナットを、ハンマーでたたいていく。緩みやゆがみがないか、打音検査で確かめていく。
 ナットの大きさによって、たたく強さや角度を変える。その際、左手をナットに添えることで、指先に伝わる振動から、より正確に異常を見抜けるという。この洞察力。
 そして、「“異変があるかもしれない”と思う想像力がさらに大切」と原さんは言う。
 丁寧な仕事ぶりに安全運行を支える矜持(きょうじ)が光る。
 苦い経験がある。まだ原さんが30代だった頃。
 機関室の水面計の下のコックが緩んでいた。それを見抜けず、噴き上がった蒸気の勢いでコックが飛び、水蒸気が噴き出した。一瞬にして機関室は真っ白に。慌てて飛び降りる機関士と機関助士。
 幸い、その日の運行を終えて、機関庫に戻る際の出来事だった。
 “これが運行直前だったら……”。背筋が寒くなる思いがした。
 自らの仕事に安閑としていい日などない。絶対に失敗が許されない緊張感と重圧にもまれながら、積み重ねた技術こそが自らのものになる。それを自身に言い聞かせた。
 以来、ボイラーや機関室など上回りの技術、動輪や連結器など下回りの技術、それぞれの第一人者に教えを請いながら、技術を身に付けてきた。
 蒸気機関車はその特性から生き物に例えられる。
 人やモノの大量輸送に貢献した機関車は、一つ一つの整備に格段の手間が掛かるが、その分、思い入れも深くなる。
 「手のかかる子どもみたいなもんやね」と原さん。蒸気機関車にとっての食料は「石炭」。釜焚作業も原さんの業務の一つ。運行が連日にわたる際は、夜間も泊まり込みで、火を絶やさないという。
 1000度を超す火室の蓋を開けると、熱風が体に吹き付ける。
 玉のように噴き出る汗を拭う間もなく、スコップで石炭をすくい、「じゅうたんを敷くよう」に満遍なく石炭を入れる。そして、ボカと呼ばれるカギ棒でかき回す。
 京都鉄道博物館では、蒸気機関車の体験乗車を連日行っている。
 「わあ、ヒロみたい!(アニメ『きかんしゃトーマス』に出てくる蒸気機関車をモチーフにしたキャラクター)」と駆け出す子どもたち。
 「煙のにおいが懐かしい」と往時をしのび、目を細める老夫婦の姿も。
 目下、取り掛かっているのは、「全般検査」。大正3年に製造された「8630」蒸気機関車を全て分解し、一から組み立て直す作業。
 部品交換が必要でも、簡単には手に入らない。工場に製作を依頼したり、国内各地に静態保存されている機関車から譲り受けたり。
 大正時代の手書きの図面を元に、若手社員らと力を合わせ、現代によみがえらせる。
 夢と浪漫を乗せた蒸気機関車の旅は続く。
 高校卒業後、旧国鉄に入社した原さん。配属されたのが、蒸気機関車などを扱う梅小路運転区だった。
 だがその後、国鉄分割民営化があり、約10年間の出向を経験した。
 関連企業が運営する横浜の遊園地で、ジェットコースターの整備という畑違いの仕事に従事したことも。
 “いつかまた蒸気機関車をやりたい”。そのことを夢見て、仕事を終えた後、ボイラー技士や電気工事の勉強を重ねた。胸にあったのは、「忍耐即勝利」。そう思えたのは、悩みを信心で乗り越えた確信があったから。
 幼少期から吃音(きつおん)に悩んできた。何気ない時はスムーズに言葉が出ても、緊張した場面では言葉がつかえる。話そうとすればするほど、焦って言葉が出てこない。
 二つの思い出がある。
 一つは、未来部担当者からの励まし。同級生にからかわれて落ち込んでいる時、不思議と未来部担当者が家を訪ねてくれた。何を言うわけでもなく、ただそばにいるだけ。それでも、無形の慈愛が心に染みた。
 ある時、言われた。「原君、今度会合で劇に挑戦してみんか」
 “そんなん無理や”。そう言って断ることもできた。しかし、原さんは挑戦することに決めた。毎晩、セリフの練習を重ね、本番では無事、大役を果たすことができた。
 もう一つは、輸送班(現在の創価班)でのこと。
 登山会参加者の前で注意事項を伝える役割を担当した。言葉が出てこず、汗びっしょりになった。
 毎回が真剣勝負。「広宣流布のためにお役に立つ」と必死にしがみついた。
 「蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ」(御書26ページ)。
 友人への仏法対話にも挑戦した。そうして迎えた最後の任務の時。原さんが話し終えると、一人の壮年が近寄ってきた。
 「最後まで、つかえずに言えたやんか」
 そう言われて初めて気が付いた。いつの間にか吃音を乗り越えていたことに。
 「昔はこればっかり祈っていたんですが、いつの間にか祈ることは、部員さんや友人のことになっていたんです」
 池田先生は語っている。
 「信心をすれば、現実の課題や悩みがなくなるのではない。悩みに負けない生命力が出るのだ」
 原さんは現在、地区部長を担いながら、圏の未来本部長として、多くの未来部員に励ましを送っている。
 「蒸気機関車は走り始めたら、何があっても目的地まで走り抜くんやで」
 池田先生が築いた常勝関西の魂を継ぐ未来部員と共に、人間革命の旅路をゆく――。

 

2020年8月10日 (月)

2020年8月10日(月)の聖教

2020年8月10日(月)の聖教

◆今週のことば

 「題目の光無間に至りて
 即身成仏せしむ」
 妙法で結ばれた絆は
 自在にして永遠なり。
 幸福家族は晴れ晴れと!
      御書P712


◆名字の言 言語学者・外山滋比古さんの「朝飯前」の捉え方   2020年8月10日

 朝飯前という言葉がある。朝食の前にすぐできるほど容易、との意味だ。しかし言語学者の故・外山滋比古さんは、元の意味は少し違っていたのではないかと疑問を持った▼人間の頭の働きは、一日の中で朝の時間が最も活発。朝飯前に仕事をすると、本来は決して簡単ではないことがさっさと片付いてしまうので、いかにも簡単そうに見える。その理由を知らない人間が「朝飯前と呼んだというのではあるまいか」と(『思考の整理学』筑摩書房)▼ことわざにも「朝起き千両夜起き百両」と。朝早く起きて仕事をする方が、夜遅くまで起きて仕事をするよりも10倍の価値がある。それを経験的に実感している人も多いだろう。コロナ禍によって、生活を朝型に変えたという人も少なくない▼若き日の池田先生にとって、朝は師の薫陶を受ける大切な時間だった。戸田城聖先生が会社の始業前に、万般の学問を授けた「早朝講義」である。池田先生は当時の日記にこう記している。「毎朝、冴えた頭で聴講できる自己を築かねばならぬ」「勉強せねばならぬ」▼池田先生が今日まで世界に広げた平和・文化・教育の大道も、礎は恩師から学んだ「戸田大学」にある。一日の勝利は朝の勝利から。その積み重ねが、人生の勝利へと結実することは間違いない。(之)


◆寸鉄

激動の時代、自分の足元
を固めた人が勝者―恩師
今こそ勇敢に友情を拡大
     ◇
特設ページで戦争・被爆
証言を順次配信。未来に
語り継ぎ平和への歩みを
     ◇
食は「命をつぎ」「いろを
まし」「力をそう」と御書。
聡明な食事で夏バテ防止
     ◇
コロナ禍で帰省見送る人
が増加。会えずとも心は
つながる。電話・手紙一つ
     ◇
今週、各地で高温の予報。
熱中症は室内でも。水分
補給忘れず。空調利用も


◆社説 2020・8・10日本人初のメダル獲得から100年 開拓者の気概で広布新時代を

 野球やサッカーなどあらゆるスポーツ競技で、世界トップレベルと渡り合う日本人選手の姿を多く目にするようになった。その先駆けともいうべき“偉業”から、今月で100年の節目となる。
 1920年(大正9年)に開かれたアントワープ五輪。男子テニスのシングルスとダブルスで、福岡県出身の熊谷一弥がともに準優勝を果たし、五輪史上初の日本人メダリストとなったのだ。
 熊谷が初めてラケットを握ったのは小学生の頃。テニスは“大人のスポーツ”という風潮がある中で、少年は教師に交じって球を打ち合った。慶應義塾大学テニス部に在籍時、“君たちが日本テニス界のパイオニアに”とのOBの勧めにより、「軟式」から、世界の主流だった「硬式」に転向する。
 最初こそ慣れない硬球に苦労する熊谷だったが、徐々にコツをつかみ、数々の国際大会で結果を残していく。銀行に就職後、米国転勤となった彼は、並みいる強豪を圧倒。五輪前年には全米3位まで上り詰め、その名を世界に轟かせた。
 道なき道を突き進み、栄光のメダルを手にしたのは、第1次世界大戦の終結から2年後のこと。熊谷は異国の人々との交流を通し、「世の中のできごとの全てをスポーツ精神で処理していれば、戦争など起きないだろう」(『ライバルと成長』学研教育出版)と述懐している。
 その先駆の足跡は、果敢に新たな世界に挑みゆく青年へのエールといえよう。  
 池田先生の指導に、こうある。「青年とは先駆者である。挑戦者である。開拓者である。すでに、でき上がった土台の上に、自分が花を咲かせるのではない。人のため、社会のため、あとに続く後輩たちのために、自分が礎となる――。この青年の誇り高き闘魂によって、道なき道が開かれる」
 池田先生は恩師と交わした一言一句を心に刻み、「聖教新聞の拡充」「創価学園・大学の設立」など、全ての構想を実現し、今日の世界広布の大道を開いてきた。第1次宗門事件の折、悪侶らの理不尽な要求で会合に出席できないという状況下では、功労者宅の家庭訪問や記念撮影、あるいは揮毫を贈るなど、同志の激励に全精魂を注がれた。
 その師の心を真っすぐに受け継ぐ若き友は今、コロナ禍でかつて当たり前だった行動が制限される中、新たな学会活動の形態を確立しようと、知恵と工夫が光る価値創造の挑戦を続けている。
 学会創立90周年の「11・18」、さらに100周年の2030年へ――。従藍而青の誓いあふれる青年部を先頭に、“私が世界広布の新時代を切り開く!”との気概に燃え、勇気の対話拡大に挑もう。


◆きょうの発心 富木殿御書 広島池田総県副社会部長 北野勝彦2020年8月10日

御文
 我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ(富木殿御書、970ページ・編797ページ)
通解
 わが一門の者は夜は眠りを断ち、昼は暇なくこのことを思案しなさい。一生空しく過ごして万歳に悔いることがあってはならない。

題目根本に悔いのない前進を!
 寸暇を惜しんで仏法を学び、邪法を破折するなど、悔いのない一生を送るよう教えられています。
 わが家は父と私の病気に悩み、一家で入会。信心で病を乗り越え、1967年(昭和42年)の高等部の夏季講習会に参加。一人一人を温かく激励される池田先生の姿に、師弟の原点を築くことができました。
 84年(同59年)10月、牙城会の任務に就いていた呉平和会館に先生をお迎えすることができました。そして記念幹部会で先生は、この一節を拝して激励を。私の人生の指針となっています。
 宿命の嵐に遭うこともありましたが、呉市の消防隊として37年間勤務。職務を果たすことができました。また2人の子どもは、共に創価大学を卒業し、広布後継の道を歩んでいます。これも信心強盛な妻のおかげと感謝しています。
 “中国の心臓部”呉との誇りを胸に、学会創立100周年を目指し、題目根本に、悔いのない前進をしてまいります。


【教学】

◆〈日蓮大聖人の慈愛の眼差し〉=完 池上兄弟 「賢者はよろこび愚者は退く」
2度の勘当に屈せず一家の宿命転換を成就 
後世に輝く「難を乗り越える信心」の鑑

「池上」の地名の由来となったとも伝えられている洗足池(東京・大田区)
「池上」の地名の由来となったとも伝えられている洗足池(東京・大田区)

 広宣流布とは、仏と魔との闘争である。
 日蓮大聖人は大難にも一歩も退かず、渾身の激励を門下へ送られた。師の励ましを受け、門下たちは病苦や家族との死別、権力者からの迫害など障魔の嵐を乗り越えていった。
 日蓮門下の人間群像は、「師弟の絆」こそ、一切の苦難に打ち勝つ力であることを示している。
 企画「日蓮大聖人の慈愛の眼差し」の最終回は、師の御指導通りに三障四魔に屈せず、一家の宿命転換を成し遂げた「池上兄弟」を紹介する。

魔との闘争こそ成仏への直道
 池上兄弟の兄は宗仲といい、弟は宗長と伝えられている。池上とは、武蔵の国・千束郷ごう池上(東京都大田区池上とその周辺)のことで、兄・宗仲は池上の地頭だったようだ。
 兄は右衛門の大夫の志、弟は兵衛の志という官職を持っており、日蓮大聖人はそれぞれの官職名で二人を呼ばれていた。康光(宗親とする説もある)と伝承される父と兄は鎌倉幕府に仕え、殿舎の造営や修理などの建築、土木に携わる大工(工匠)の棟梁に当たる立場にあったと考えられている。
 池上兄弟が大聖人に帰依した時期は定かではないが、立宗宣言の数年後、四条金吾らと同時期といわれている。
 入信から20年ほどたった頃、兄弟に大きな難が降りかかる<最近の研究では建治2年(1276年)と考えられている>。真言律宗の僧・極楽寺良観の熱心な信者だった父・康光が、兄弟に法華経の信仰を捨てるように迫り、兄・宗仲を勘当したのである。
 当時、親から勘当された子は家督相続権や遺産相続権を失った。それは社会的な身分を剝奪されることでもあった。つまり、宗仲にとっての勘当は、経済的保証を奪われ、社会的に破滅することを意味した。
 一方で弟・宗長は、父の意向に従って妙法の信仰をやめれば、兄に代わり家督を継ぐことになる。家督を継いで親に孝養を尽くすか信仰を選ぶか、悩ましい事態になった。
 このように兄・宗仲の勘当は、兄弟の信心を破り、二人の仲を引き裂こうとする陰湿なものであった。
 大聖人は、池上兄弟に長文のお手紙「兄弟抄」をしたためられ、兄弟が直面している難は法華経に説かれる通りであることを示される。その中で、未来に大地獄に堕ちるほどの報いがあるところを、正法を行じる功徳によって現世で少苦として受ける「転重軽受」であるとして、「各各・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候」(御書1083ページ)と激励。仏道修行を妨げようとする魔性と戦うことが成仏への道であることを教えられる。
 大聖人の御指導通り、池上兄弟は夫妻ともども心を合わせて信心に励んだ。そして翌年までには宗仲の勘当が解かれるのである。

弟・宗長への厳愛の御指導
 しかし、宗仲が再び勘当されてしまう。極楽寺良観が、自身の信奉者である父・康光をあおり立てたのだ。
 1度目の勘当の時と同様、大聖人が特に気に掛けられたのは弟・宗長の信心であった。
 本来、「信仰」と「孝養」は一方を選び取るようなものではなく、信仰を全うすることが真の孝養となる。しかし、宗長は選択を迫られているように感じたかもしれない。
 宗長へのお手紙「兵衛の志殿御返事(三障四魔の事)」で大聖人は、宗長の迷いを振り払われるように、あえて厳しく戒められる。
 まず、「師と主と親とに随っては悪いときに、これを諫めるならば、かえって孝養となる」(同1090ページ、通解)と確認される。
 その上で、兄・宗仲は「今度、法華経の行者になるでしょう」(同1091ページ、通解)と仰せになる一方、宗長には「あなたは目先のことばかりを思って、親に随ってしまうでしょう。そして、物事の道理が分からない人々は、これを褒めるでしょう」(同ページ、通解)と心配される。
 さらには、「今度は、あなたは必ず退転してしまうと思われます」(同ページ、通解)等と繰り返し仰せになる。
 そして、「一筋に思い切って兄と同じように仏道を成じなさい」「『私は親を捨てて兄につきます。兄を勘当されるのならば、私も兄と同じと思ってください』と言い切りなさい」(同ページ、趣意)と、まるで肩を抱えて力強く揺さぶるかのように、何度も何度も宗長の勇気と覚悟の信心を奮い起こそうとされるのである。
 “幸福への道を断じて踏み外させまい”との大聖人の厳愛に呼応するように、宗長の胸中には、兄と共に信心を貫く決意が固まっていったことだろう。
 さらに大聖人は「潮の満ち引き、月の出入り、また季節の境目には、大きな変化があるのは自然の道理です。同じように、仏道修行が進んできて、凡夫がいよいよ仏になろうとするその境目には、必ずそれを妨げようとする大きな障害(三障四魔)が立ちはだかるのです」(同ページ、趣意)との原理を示される。
 その上で、こう仰せである。

 「賢者はよろこび愚者は退く」(同ページ)

 “苦難は、いよいよ大きく境涯を開くチャンスだ”と、喜んで立ち向かう「賢者」であれと、信心の姿勢を教えられるのである。
 池田先生は次のように講義されている。
 「一見、障魔から攻め込まれているように思うことがあるかもしれない。しかし本質は逆です。私たちが自ら勇んで成仏の峰に挑んだがゆえに、障魔が競い起こったのです」「どこまでも、主体者は自分です。永遠の常楽我浄の幸福境涯を得るために避けて通ることのできない試練である――こう覚悟した者にとって、障魔と戦うことは最高の喜びとなるのです」
 魔が競い起こるのは正法の実践が正しいことの証明であることを深く確信し、喜び勇んで立ち向かっていく。ここに、「創価の賢者」の生き方がある。

信仰を貫き通し、ついに父が入信
 池上兄弟は、前回の勘当の時にも増して心を合わせて信心に励み、父親に極楽寺良観の誤りを粘り強く指摘し続けたことだろう。その陰に、妻たちの揺るぎない信心による励ましがあったことは間違いない。
 その結果、ついに父・康光が法華経の信仰に帰依する時が来た。弘安元年(1278年)のことである。
 その報告を聞かれた大聖人は心から喜ばれ、宗長に送られたお手紙の中で、兄弟の団結を称賛される。師の真心に、二人はさらに報恩の決意を固めたことだろう。
 入信の翌年の弘安2年(1279年)、父・康光は安らかに息をひきとる。それを伝え聞かれた大聖人は、こう激励される。
 「あなた(弟・宗長)と大夫の志殿(兄・宗仲)は、末法の悪世に法華経の大法を信じてきたので、必ずや悪鬼が国主と父母等に入ってそれを妨げようとするであろうと思っていましたが、予想通り、2度にわたる勘当という難が競いました。しかし、勘当を許されて父を信心させたあなた方は真実の親孝行の子ではないでしょうか」(同1100ページ、趣意)
 弘安2年といえば、大聖人は熱原の法難に臨んで、厳然と指揮を執られていた頃である。その一方で、こうして門下をたたえ、さらに不退転の人生を歩めるよう、こまやかな激励を重ねられていたのである。
 弘安5年(1282年)9月18日、大聖人は常陸の国くに(茨城県北部と福島県南東部)へ湯治に行かれる途中、宗仲の屋敷に立ち寄られる。そして10月13日、池上邸で御入滅される。
 翌14日に営まれた御葬送の際には、四条金吾と共に幡を持つ宗仲と、太刀を奉持する宗長の姿があった。
 池上兄弟と妻たちの「難を乗り越える信心」の戦いは、大聖人が仰せになった通り、「未来までの・ものがたり」(同1086ページ)として、700年以上を経た今も、私たち信仰者の鑑として不滅の輝きを放っている。


【聖教ニュース】

◆核兵器なき世界を誓う  2020年8月10日
 長崎 原爆投下75年  各家庭で全ての犠牲者を追善  青年部が「被爆体験を聞く会」

長崎青年部の代表が、平和公園の平和祈念像に献花(長崎市内で)

 長崎青年部の代表が、平和公園の平和祈念像に献花(長崎市内で)

 長崎への原爆投下から75年となった9日、投下時刻の午前11時2分を中心に、長崎の各家庭で家族平和勤行会を行ったのをはじめ、全国で核兵器と核実験の犠牲者を追善し、核廃絶を誓う祈りがささげられた。
 長崎では同日午後、青年部が第4回「オンライン証言を聞く会」を開催。また、長崎平和会館で平和の集いを開いたほか、平和公園の平和祈念像に代表が献花し、不戦の誓いを新たにした。8日には長崎青年部のピースフォーラムが行われた。
 オンライン証言を聞く会では、10歳の時に長崎で被爆した梅林二也さん(参議)が体験を語った。
 当時、父の転勤で長崎から広島に家族で引っ越していたが、祖母の願いで一人、長崎に戻った梅林さん。両親ときょうだいは広島で被爆し、自分と祖母は長崎で被爆した。
 1945年8月9日、友達と遊んでいると突然、稲妻のような閃光が見えた。慌てて防空壕に隠れると、直後に「ドカーン」というごう音が耳をつんざき、崩れた土砂で体が埋まってしまった。程なくして助け出され、見上げると、明るかった空は夜かと思うほど暗く、辺りには炎が広がっていた。
 数日後に市街地を歩くと、原形をとどめない建物、血に染まったシャツを着て放心したように歩く人、子どもを背負い家族の安否を尋ねる人などがあふれていた。さらには、道のあちらこちらに死体が転がり、消防団が廃材で焼いていた。
 一瞬で街を廃虚と化し、多くの命を奪った核兵器。梅林さんは、「今なお後遺症に苦しめられ、おびえる被爆者の声に耳を傾けてもらいたい。そのメッセージを、世界中に発信してもらいたい」と呼び掛けた。

 一方、ピースフォーラムでは、田中県学生部長が九州学生部が実施した平和意識調査の結果を報告。長崎青年平和委員会の西村委員長は、今秋に発刊予定となっている被爆証言集を紹介した。森総県青年部長が生命尊厳の哲学を語り広げていこうと力説した。
 長崎では7月30日、青年部が聞き取った被爆証言映像41人分を国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に贈呈するなど、さまざまな活動を積み重ねてきた。
 “長崎を最後の被爆地に”と、友は核兵器のない世界を訴え続けていく。

長崎青年部のピースフォーラム。山口青年平和会議議長、小松女性平和文化会議議長があいさつした
長崎青年部のピースフォーラム。山口青年平和会議議長、小松女性平和文化会議議長があいさつした


◆〈世界青年部総会まで残り48日〉特設サイトがオープン “招待状”などを利用可能  2020年8月10日

 9月27日午後1時半(日本時間)からオンラインで開催される「世界青年部総会」に向け、特設サイト(http://wygm2020.sokayouth.jp/)が開設された。
 サイトでは、総会の予告動画の視聴や、友人らに贈る「インビテーションカード」(招待状)のダウンロードなどが行える。また今後、小単位の会合等で活用できるよう、池田先生の世界広布の歩みを学習できるページや、総会を目指して世界の青年部が挑戦する、励まし対話の総数が分かる“対話カウンター”を設置予定。
 学会を世界宗教へと飛翔させた師の闘争を学ぶとともに、地球規模の団結で結ばれた創価家族の広がりを実感できるサイトである。


【特集記事・信仰体験など】

◆〈池田先生の会長就任60周年 青年部が原田会長に聞く Ⅱ部〉第17回 
 「大衆とともに」―公明党の結党① 2020年8月10日

〈出席者〉 西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長

英知の人材を陸続と輩出――「民衆」に光を当てた政治を
「立正安国」の実現は仏法者の社会的使命

「大阪の戦い」で同志を励ます池田先生。友は、“毎日の活動が、楽しくて楽しくて仕方なかった”と振り返る(絵・間瀬健治)

 ◆樺澤 公明党は、生命・生活・生存を最大に尊重する「中道政党」として、1964年(昭和39年)11月17日に結党されました。以来56年。現在は与党として政権の一翼を担い、未曽有のコロナ禍にあって、一律10万円の特別給付金や大学生への緊急給付金をはじめ、ウイルス対策として25本を超える提言を出すなど、「希望の灯台」として、存在感を増しています。今回からは、国民の命と暮らしを守る公明党の原点を確認していきたいと思います。
  
 ◇原田 創価学会は、日蓮大聖人の仏法を世界に弘めるとともに、人間主義を根本に、平和・文化・教育の運動を幅広く展開しています。
 一方、「生命の尊厳」「人間性の尊重」「世界の恒久平和」という理念を、現実社会、なかんずく政治の世界で具現化させるため、池田先生が創立されたのが公明党です。学会は支持団体として、その公明党を支援してきました。
  
 ◆樺澤 公明党のそもそもの出発点は、54年11月22日、創価学会に設置された文化部です。後に、この文化部員たちが、地方議会へと進出します。
  
 ◇原田 小説『人間革命』第9巻「展開」の章には、戸田先生の展望を通して、学会が政治に強く関わりを持ち始める理由が記されています。
 「広宣流布は、創価学会の会員の拡大だけを意味するものではない。御本尊を受持して信心に励んだ人は、まず、人間として自己自身を革命することは当然のことだ。革命された個人は、自己の宿命をも変え、家庭をも革新する。このような個々人の集団というものは、地域社会にも、一つの根本的な変革をもたらすはずである。いや、地域社会ばかりではない。それらの個々人は、あらゆる社会分野に英知の光を放ち、変革の発芽をもたらしていくであろう」
 「人間革命」の原理に基づいた極めて重要な指針です。
  
 ◆大串 さらに、「政治の分野でも、経済活動の分野でも、生産活動の部門でも、教育や文化や、科学、哲学の分野でも、自らの生命を革命した、わが学会員の日々の活動というものは、その才能を十二分に発揮した蘇生の力となるにちがいない。それは、社会に大きな波動を与え、やがては新世紀への斬新な潮流となって、来るべき人類の宿命の転換に偉大な貢献を果たす時が来よう。これが妙法の広宣流布の活動というものだ」とも記されています。
  
 ◇原田 そうです。政治の分野だけでなく、社会のあらゆる分野で、生命尊厳の哲理を持った人材が、陸続と輩出されゆくことを願ってのことなのです。

「新しい運動の堂々たる一歩」
 ◆西方 初めての選挙となった、55年4月の統一地方選では、54人の文化部員が立候補し、53人が当選しています。
 当時は、自民党と社会党による、なれ合いの堕落政治ともいわれる「55年体制」が始まるタイミングです。この時に、「民衆」のための政治を志し、学会が政治に関わったことは、大きな意義があると思います。
 また、苦しんでいる庶民の声を直接届けられる、地方議会から出発したことも注目すべき点であると思います。
  
 ◇原田 当時は東西冷戦下にあり、資本主義陣営と社会主義陣営のイデオロギー対立がそのまま日本に持ち込まれ、不毛な対決型政治が続いていました。金権政治や、選挙での買収も横行し、「造船疑獄」などの大型贈収賄事件なども頻発していました。
 そうした腐敗堕落した政治状況を、戸田先生は深く憂慮されていたのでしょう。
 財界・大企業を擁護する当時の保守政党、大組織の労働者の利益ばかりを優先する革新政党からは、多くの苦しむ「庶民・大衆」が置き去りにされていました。今こそ、そうした人々に光を当て、民衆不在の政治を変えていかねばならない――。ゆえに、国政から挑戦するのではなく、「庶民・大衆」に一番身近な地方議会から出発されたのだと思います。
  
 ◆林 「展開」の章には、「将来、民衆のために、民衆のなかで死んでいく決意の、清廉な人びとの合意として、あるいは政党を結成する必要もあるかもしれない」との戸田先生の心境も記されています。
  
 ◇原田 この思いを誰よりも深く理解されていたのが池田先生でした。初選挙の際、戸田先生の命を受け、池田先生は、東京都議選(大田区選出)と横浜市議選(鶴見区選出)の支援の最高責任者を務められました。
 多摩川を渡って行き来し、徹底して同志を励まされながら、いずれも見事にトップ当選を果たしたのです。それは、「妙法を胸に、全人類の宿命転換へ立ち上がった民衆が、いかに崇高で、いかに偉大な力をもっているか」を示す戦いでした。「それまでの日本になかった『新しい民衆運動』の、堂々たる第一歩」だったのです。
  
 ◆西方 創価学会が政治に関わりをもつようになったことで、無理解による反発が起き始めます。しかし、国際宗教社会学会の会長を務めたドブラーレ博士は、「宗教団体が、その信条に基づいて『社会は、このままでよいのか』と問題提起し、政治に影響を与えるのは当然のことです」と述べています。
 また、インド独立の父ガンジーは、「現実の問題を考慮に入れず、問題の解決に役立たない宗教は、宗教ではない」「宗教なき政治は(中略)生命を失ったシステムである!」と喝破しています。

「師弟不二」こそ勝利の根本要因
 ◆大串 庶民の声を国政に届けるため、56年7月に初めて参院選に臨みます。この時、地方区2人、全国区4人が推薦され、池田先生が指揮を執られた大阪地方区の1人と、全国区の2人が当選します。当時の模様は、『人間革命』第10巻に詳しく描かれています。いわゆる「大阪の戦い」です。「“まさか”が実現」(朝日新聞)と世間をあっと言わせた勝利でした。
  
 ◇原田 先生が大阪で展開された56年の大闘争とは何であったか。「一念」の章に「関西に広宣流布の常勝の大拠点を築き上げることであり、幸福と平和の、崩れざる民衆城を打ち立てることであった」とあります。
 2月には、戸田先生の誕生日を祝して、「関西に 今築きゆく 錦州城 永遠に崩れぬ 魔軍抑えて」との決意を、恩師に披歴されています。
 それが、5月の大阪支部の1万1111世帯の弘教となって結実するのです。それは本当に容易ならざる戦いでした。私自身、改めて『人間革命』第10巻を読み返しました。感動に次ぐ感動の連続で、池田先生が、戸田先生の思いをいかに真剣に受け止め、戦いを展開されたのか――その信心、「億劫の辛労を尽くした」一念の深さを学び直す機会になりました。
  
 ◆林 当時は入会して1、2年のメンバーがほとんどです。新しいことずくめで想像を絶する挑戦であったと思います。
  
 ◇原田 「強盛な祈りから始める」――池田先生は、これが勝利の「第1の要諦」であると、教えてくださっています。
 それは、関西の責任者になり、1月4日に大阪に向かった先生が、関西本部常住の「大法興隆所願成就」の御本尊に祈りをささげ、「これで、今度の関西の戦いは勝った!」と大確信をもってスタートされたことからも、よく分かります。
 「法華経の兵法をもちひ給うべし」(御書1193ページ)との一節を身読され、「強盛な祈り」を根底とした「実践」を貫き、“不可能を可能にする戦い”を展開されたのです。
 「第2の要諦」は、「最高の作戦、最高の行動」です。先生は「法華経とは将軍学なり」と体得され、「信心から出た作戦、行動」こそ、「最高の作戦、行動」になることを示されました。実際、半年間で約8000人の方に会い、励ましを送られたのです。自転車を3台も乗りつぶすほどの大激闘でした。
 こうして、関西に強靱な広布の組織が築き上げられていったのです。参院選に際しても、関西の同志は、「立正安国」の深き使命を自覚し、決然と立ち上がりました。それは、無名の庶民が、何の報酬も求めず、ただ社会を良くするため、自発的に推薦した候補を応援するという、全く新しい運動でした。
  
 ◆西方 大阪出身の私は、草創の先輩方から「峻厳な精神で戸田先生に接する、当時の池田先生の姿を忘れることができない」と何度も聞いてきました。
  
 ◇原田 「師弟不二」こそ、全ての根本です。『人間革命』に「師の考えるところと、弟子が懸命に考えることとが合一する時、信仰の奔流は偉大なる脈動となってほとばしる」「師の言葉から、師の意図を知り、さらに、その根源にまで迫って、その同じ根源を師と共に分かち合う弟子の一念は、まことに、まれだといわなければならない。しかし、このまれなる一念の獲得にこそ、師弟不二の道の一切が、かかっているのである」と書かれています。
 「大阪の戦い」を勝利に導いた、「師弟」の道の究極が示された箇所であり、現代そして未来永劫にわたり、私たちにとって一番大事な前進の眼目です。
 56年1月、池田先生が奮闘を開始された大阪の地に行かれた戸田先生は、中之島の大阪市中央公会堂で「方便品」の講義を行い、こう師子吼されました。
 「私が、こうして、大阪へ来て講義などをすることは、大阪の地から、病人と貧乏人をなくしたいためであります。このほかに、私の願いはありません」
 そのための闘争が、仏法者の宗教的使命である「広宣流布」の実現であり、社会的使命である「立正安国」の実現です。「生命尊厳」の哲理を根幹とした社会の建設が、現代の課題、時代の要請であることを、私たちは深く自覚していきたい。

◆〈「新・人間革命」と私〉 通訳翻訳部女性部長 川島美香子さん  2020年8月10日

〈心に刻む珠玉の言葉〉
 「戸田先生は、こう言われたことがある。『世界の広宣流布のためには、語学の勝利が前提である。語学の達人が何人いても、足りないことになるだろう』。皆さんの使命は限りなく深く、大きい。実力を蓄えて、偉大な通訳、力ある翻訳者に大成長するんだよ」
 <第19巻「陽光」の章>

〈時代背景〉
 1974年(昭和49年)3月、山本伸一はアメリカへ。伸一にとって海外初の大学講演となる、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)での講演に向け、日本語の原稿と翻訳した英語を確認しながら推敲を重ねる。さらに、通訳に携わる友と懇談し、仏法の理念などを明快に伝えられる、一流の通訳や翻訳者の育成に全力を注ぐ。

通訳への大きな慈愛と期待
 「陽光」の章には、世界の知性との交流のため、世界広布のため、自らの手で本格的な通訳の育成に取り組む山本伸一の姿が描かれています。
 通訳陣との懇談では、「話し手の言葉が終わったら、間髪を容れずに話し始める」「よどみなく話す」「臨機応変な対応力」「幅広い教養」など、具体的なアドバイスを送られます。一流の通訳を育成しようとする真剣さと、通訳への大きな慈愛と期待を感じ、改めて胸が熱くなりました。
 かつて私が通訳として出発する際、先生から「プロになりなさい。一流になるんだ。二流、三流はいらない。遠慮してはいけないよ。相手の気持ちになりなさい」と激励していただきました。
 以来、「プロ」とは、技能はもとより、“広宣流布を進める信心根本の通訳に”との意味であると捉え、先輩方と共に、先生が挑まれる、一流の識者との“生命と生命の勝負”に全力で携わらせていただきました。
 小説では、通訳の第一の要件に「声が大きいこと」を挙げられていましたが、私自身、先生に対するオックスフォード大学ボドリーアン図書館「終身名誉館友」証の授与式の際、通訳を始めるや、先生から「大きな声で! この部屋に響き渡るくらい大きな声で!」とご指導いただいたことがあります。その一言に大きな生命力を注がれた思いがしました。
「創価の心」を伝え広げる!
 先生は、常に仏法の理念が正しく伝わるかに心を砕いてこられました。
 かつて先生の講演の講評に立ったライナス・ポーリング博士が、先生の講演を深く理解された上で、十界の9番目である菩薩界を「ナンバー・ナイン」と言われ、菩薩の精神に立った行動を訴えた時、先生は大変に喜ばれていました。通訳に携わった一人として本当にうれしく思いました。
 創価学会が世界宗教として飛翔した今、「創価の心」を世界中に広げる通訳・翻訳が果たす役割は一段と大きくなると確信します。通訳翻訳部の一人一人が広布の主体者の自覚に立ち、どのような状況にも対応できる力を磨いていけるよう、励まし合ってまいります。


◆〈世界の体験プラザ〉米国の日系自動車会社に勤務 アメリカSGI ユウコ・リトルさん
 離婚、経済苦、娘の病を乗り越え

30代半ばで結婚し渡米
 私は三重県鈴鹿市で、学会2世として生まれました。家族の愛情に包まれて育ち、幼い頃から明るく活発、社交的でした。地元の高校を卒業後、働き始め、20代にはバイクを走らせたり、海外各国に旅行したり、船舶免許を取得したりと、さまざまな趣味を楽しみました。
 30代半ばに県内の中学校で英語を教えていたアメリカ人男性と出会い、結婚。2003年3月に長女シオラを出産しました。そして同年12月、一家そろって、彼の実家がある米中西部のオハイオ州に移住したのです。
 アメリカでは生活環境の変化に心身共に疲れ果て、持ち前の明るさを失っていきました。自己否定に陥った時期もありましたが、専業主婦として夫の仕事を支え、子どもを育てながら、SGIの活動に励む中、自信を少しずつ取り戻していきました。その間に長男レンを出産。政府機関への就職を果たした夫は順調にキャリアを積んでいきました。彼は未入会でしたが、仏法やSGIの活動には理解を示してくれていました。
 幸せな生活がずっと続くと思っていましたが、15年12月、家族で米北部ミシガン州に転居して約5カ月がたった頃、思いも寄らない事態に直面しました。夫から離婚を求められたのです。
 精神的にも経済的にも追いつめられ、この先、どう生きていけばいいかも分からず、絶望に打ちひしがれる日々が続きました。いっそのこと、自ら命を絶とうとも考えましたが、母として二人の子どもを置いていくことはできませんでした。
 この苦しい時期、私は毎日泣きながら題目を唱え、なんとか生きる勇気を奮い起こしました。そして「池田先生の弟子として、絶対に負けるわけにはいかない」と決意したのです。
 苦境にあえぐ中、SGIの会合に参加した時、メンバーの一人から日系物流企業が正社員を募集していることを知らされました。すぐに面接を受けると、同社の倉庫部門で採用されることに。人生の行方に不安を抱えつつも、新たな一歩を踏み出すことができたのです。

宿命転換を懸けた戦い
 シングルマザーとして仕事と子育てに多忙な日々を過ごす中、暮らしは次第に安定していきましたが、17年6月、私たち家族に大きな試練が襲い掛かってきました。14歳の娘が医師から悪性リンパ腫と診断されたのです。しかも、がんはステージ4であり、肺や頸部、足の付け根、骨髄にも転移していました。
 翌月、娘は化学療法による治療を受け始めました。
 最初に聞いた時には目の前の現実を受け入れられませんでしたが、治療が続いている間、私はどんなに苦しい状況下でも、SGIの活動に一歩も引かず、真剣に取り組みました。アメリカSGIのリーダーや信心強盛な母、きょうだいの姿を通し、誠実に、信仰一筋に生きることの大切さを学び、学会に感謝の念を抱くようになっていたのです。
 娘は治療を受けつつ学校に通いましたが、18年1月、インフルエンザに罹患。その後、体調を崩しやすくなり、自宅での学習を余儀なくされました。職場の上司は私の置かれた状況を理解し、在宅勤務を認めてくれましたが、給料は3分の1になりました。
 折しも母が重い病を患い、厳しい現実に心が折れそうになりましたが、開目抄の一節「私と私の弟子は、多くの難があろうとも、疑う心を起こさなければ、自然に仏界に至るであろう。諸天の加護がないからと、疑ってはならない。現世が安穏でないことを嘆いてはならない」(御書234ページ、通解)を思い起こし、自らを奮い立たせました。
 御本尊の前で祈りながら、私は心の中で叫びました。
 「どんな苦難に遭おうとも必ず宿命転換を果たしてみせます!」と。
 娘は造血幹細胞移植手術を受けるため、3週間の入院生活を送りました。幸いにも州当局から支援を得て、最良の治療を受けることができました。同年10月の検査結果では、がんの症状は消え、再び学校に通えるように。家族で病魔を勝ち越えたのです。

希望通りの転職かなう
 娘の治療の後、慌ただしい日々から日常を取り戻し始めると、私は自宅の購入を考えるようになりました。
 離婚後、私と子どもたちは小さなアパートで暮らしていましたが、ある日、息子が私に言いました。「僕はいつ、前のような家に住んで、もう一度、自分の部屋を持てるようになるの?」。わが子の胸の内を知り、心が痛みました。そして、新居を購入しようと決意したのです。
 やがて近隣地域に住みたい家を見つけました。当時の給与では手が届かない物件でしたが、無理を承知で不動産仲介業者に申し込みました。すると翌朝、その業者から連絡があり、住宅の価格が私の希望提示額を下回ったことを知らされました。驚きつつも、すぐに購入手続きを進め、昨年7月、念願の新居を手に入れることができたのです。
 同じ頃、私は人材紹介の業者から転職を提案されました。渡米前には日本の自動車会社で働いていましたが、人材を募集していた企業も日系自動車メーカーであり、業務内容も当時の経験を生かせるものでした。面接を受けると、「この会社で働きたい」との思いが一段と募りました。真剣な祈りを重ねる中、1週間後に採用が決まりました。しかも、勤務先である同社の開発施設は自宅から自動車で約10分という近さ。給与も3割アップ。全てが希望通りの転職となったのです。
 職場では現在、自動車の輸出入手続きに関わる業務を担当しており、充実した日々を送っています。
 SGIの組織では、今年1月から地区婦人部長として同志の激励に奔走。地元の会合の際には自宅を会場として提供しています。
 仏法のおかげで、困難を成長のバネにする自分へと変わることができました。離別した夫、その両親とは良好な関係を保ち、今も交流を続けています。
 これからも報恩感謝の心を忘れず、池田先生の弟子として不退の信仰を生涯貫き、勝利の人生を開いていきます。

 

2020年8月 9日 (日)

2020年8月9日(日)の聖教

2020年8月9日(日)の聖教

◆わが友に贈る

 躍進の8月に挑む
 受験生とその家族に
 真心のエールを!
 皆で勝利を祈り抜き
 温かく見守ろう!


◆名字の言 巨悪を生み出す温床――歴史学者の洞察  2020年8月9日

 戦時中、ユダヤ人を虐殺した蛮行の責任は誰にあるのか――。ドイツの歴史学者グイド・クノップはこう洞察する。元凶はヒトラーに違いない。だが、「それを傍観し、また目を背けていた」数百万の人々の責任も重い、と(『ホロコースト全証言』高木玲・藤島淳一訳、原書房)▼不正や真実から目をそらす。勇気の声を上げない。行動を起こさない。そうした人々の姿勢こそが、巨悪を生み出す温床になったというのだ。「人類への警鐘」と受け止めたい▼これまで長崎、広島で数々の平和行事を取材してきた。当事者から貴重な証言を伺うたびに、胸が熱くなった。原爆への怒りが込み上げた。そして強く実感した。“戦争の実態を知れば知るほど、平和の尊さに感謝できる。行動を起こす意欲、勇気が湧く”と▼日蓮大聖人は「敵を知らなければ、敵にだまされてしまう」(御書931ページ、通解)と警鐘を鳴らされた。時代や社会が変わろうと、生命軽視の魔性の権化ともいうべき核兵器の存在を断じて許してはならない。傍観、無関心を蔓延させる風潮こそが“平和の敵”と見破り、打破していくことだ▼被爆75年を迎えた今、改めて長崎、広島と真剣に向き合う時である。歴史の真実を学び合い、平和創造の連帯を一段と強めていきたい。(誠)


◆寸鉄

75回目の長崎原爆の日。
平和ほど尊いものはない
―この心を我らが未来へ
     ◇
原爆について知りたい―
米国民8割超。核兵器は
人類の敵。この思潮更に
     ◇
言葉がなければ結び合う
事もできぬ―哲人。一本
の電話も心つなぐ契機と
     ◇
水の事故相次ぐ。天候や
体調の変化を甘く見ず。
油断排して楽しい一時を
     ◇
空調は入電時が最大電力
―感染対策で換気の時も
切らない方が安価。賢く

 

◆きょうの発心 三三蔵祈雨事 富山大勝県副総合婦人部長 中川純子 2020年8月9日

御文 甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず、すこし健の者も独なれば悪しきみちには・たうれぬ(三三蔵祈雨事、1468ページ・編759ページ)


【先生のメッセージ】

◆池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」  終戦75年――友の心に平和の花を 


【写真の説明】鮮やかな蓮の花。淡紅色の花弁が大きく開く。先月22日、池田大作先生が都内でカメラに収めた。
 蓮の花は、泥水の中で育っても、泥に染まらず、美しく咲き薫る。蓮華のように、現実のさまざまな悩みや苦難の真っただ中にあっても、自他共の幸福を願い、社会や地域に“平和の花”を咲かせてきたのが、我ら創価の同志である。
 きょう9日は、広島(6日)に続き、長崎に原爆が投下された日。15日には、終戦75年を迎える。
 池田先生は小説『新・人間革命』の冒頭につづった。「平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」と。師の思いを胸に、平和の大道を開く、励ましの対話を着実に広げゆこう。
  
池田先生の言葉
 国と国、民族と民族、
 宗教と宗教の間における
 偏狭な
 「差異へのこだわり」は、
 人間が克服すべき
 根本の病の一つといえる。
 異なる人間への差別意識、
 差異へのこだわりを
 克服することこそ、
 平和と普遍的人権を
 創出するための
 第一歩であり、
 開かれた対話を
 可能にする道である。
  
 人類は“地球を故郷とする
 一つの民族”との
 視座に立てば、
 あらゆる差異を超えて、
 共生していける。
 生命という共通の基盤に
 立つことこそが、
 平和の礎であろう。
  
 民衆同士が互いに
 相手のことを深く知り、
 友情を結んでいけば、
 戦争を起こそうとする
 動きに対する
 ブレーキとなる。
 戦争や対立の背景には、
 互いの疑心暗鬼がある。
 だからこそ、
 民衆自身の手で
 「対話の窓」を
 広げていく努力が
 必要となってくるのだ。
  
 「真の対話」は、
 相手を尊敬し、
 相手から学ぶことだ。
 そこに互いの向上があり、
 喜びがある。
 「対話」で開けぬ道など
 絶対にない!――
 この確信で、真心と慈悲の
 発露のままに語ることだ。
 相手の仏性を信じ抜く
 祈りを根底に置いて、
 誠実に言葉を紡ぐ時、
 「真の対話」が生まれる。
  
 仏法の根本は友情である。
 善友の拡大である。
 平和のため、
 人類の幸福のために、
 あの地でも、この地でも、
 美しき対話と友情の花を
 咲かせてまいりたい。
 私たちの本領発揮の時は、
 いよいよ、
 これからである。
 世界中が
 私たちの活躍に期待し、
 創価の人間主義の勝利を
 待っている。

 

【聖教ニュース】

◆SGIらが参加し宗教間共同声明 2020年8月9日

 原爆投下75年 核兵器廃絶を強調

 SGI(創価学会インタナショナル)が参加する「核兵器を憂慮する信仰者のコミュニティー」が6日、広島と長崎への原爆投下75年に当たり、核兵器廃絶への行動を呼び掛ける共同声明を発表した。
 これは、SGIがWCC(世界教会協議会)、オランダの平和団体「PAX」などと共に準備を進めてきたもの。今回、キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教、ヒンズー教、ジャイナ教など189の団体が賛同を表明している。
 声明では、まず「多様な信仰を基盤とする団体の連帯として、私たちは声を一つに核兵器を拒絶する」と主張。世界の“ヒバクシャ”の勇気の証言に敬意を表するとともに、同じ苦しみを将来の世代を含め全ての人に味わわせないよう、核兵器廃絶に取り組む必要性を述べている。
 また核兵器を巡る世界情勢の悪化を指摘する一方で、個人と世界において善のための変革は可能であるとし、最も危機的な状況にあっても、人類には、協力し、創造的に問題を解決し、相互の信頼を築く力があると強調。核不拡散条約(NPT)は、“他国の危険の上に築く自国の安全保障ではなく、全ての国にとっての安全保障”との重要性を各国に気付かせる役割を果たしたことに言及。このNPTの究極の約束である廃絶を実現させなくてはならないと訴えた。
 最後に、各国に対して、いかなる状況でも核兵器は二度と使用されてはならないとの立場を明確にすることを求め、被爆75年の今こそ核兵器禁止条約に批准するよう呼び掛けている。


◆〈青年部主催〉被爆証言を聞く会から 2020年8月9日
 日本原水爆被害者団体協議会 濱住治郎 事務局次長

 青年部が主催する戦争・被爆証言を聞く会の第2回が7月26日、オンラインで行われ、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)事務局次長で広島県出身の濱住治郎氏(74)が被爆体験を語った。要旨を紹介する。
 1945年8月6日、私は母の胎内で被爆しました。妊娠3カ月の時でした。現在、被爆者健康手帳を持つ被爆者の平均年齢は83・3歳(3月末時点)ですが、私は一番若い被爆者の一人です。
 当時、わが家は爆心地から4キロほどの広島市・矢賀町にありました。母と6人のきょうだいは助かりましたが、父は亡くなりました。数え年で49歳でした。
 翌年に生まれた私は、毎日、家の座敷のかもいに掛けてあった父の写真を見て育ちました。父が亡くなったのと同じ年齢になった時、きょうだいに手紙を送り、8月6日当日の行動を書いてもらいました。
 父はあの日の朝、いつも通り会社に出掛けていったそうです。そして午前8時15分、人類史上初めての原子爆弾が投下され、熱線と爆風、放射線で街は破壊されました。わが家は爆心地から離れていたために倒壊を免れ、市内に住んでいた親戚家族が集まってきました。家族の無事を皆が心配し、待ちましたが、父だけは、いつまで待っても帰ってきませんでした。
 翌7日、母と姉たちは爆心地から500メートルほどのところにある父の会社へ、父を捜しに出掛けました。強烈な暑さと死体の臭い、耐えきれない不安の中で捜し続けましたが、結局、見つけることはできませんでした。
 翌日、母と姉たちは再び出掛けました。たまたま父の会社の同僚に会うことができ、父がいた場所がわかりました。行ってみると、焼け跡から父が身に着けていたバンドのバックル、がま口の金具、鍵だけが見つかったそうです。それを遺品として持ち帰りました。



原爆投下後の広島市内で、焼け跡から家族が見つけ出した濱住さんの父の遺品

原爆投下後の広島市内で、焼け跡から家族が見つけ出した濱住さんの父の遺品

 父を捜しに出た家族は2、3日後から発熱や下痢といった症状が現れました。原爆症の初期症状でした。いとこが家に連れてきた兵隊さんは、やけど部分にウジが湧き、薬もないので赤チン(消毒液)やジャガイモを擦ったものを塗るしかなかったそうです。しばらくして兵隊さんは息を引き取りました。
 わが家に避難してきたいとこも、3、4日して発熱し、髪の毛が抜け、亡くなっていきました。3歳のいとこは無傷でしたが、20日ほどで亡くなりました。身重の母の代わりに働いてくれた叔父も亡くなりました。
 そのような中で私は生まれたのです。母は電気の集金の仕事の合間に田んぼや畑仕事で家計を助け、兄は大学進学を諦め、高校卒業後は働きに出て、家族を支えてくれました。
 結婚して子どもが生まれたとき、私は家族を持つ幸せを感じました。と同時に、49歳で人生を終えた父を思うと、残した子どものことなど父なりの思いがあっただろうと想像しました。父の分まで生きなければ、と思うようになりました。
 放射能は、女性や子どもに大きな影響を与えます。胎内で被爆したからといって被害を免れることはありません。小頭症の事例にみられる通り、むしろ胎児だからこそ、その無防備な若い細胞に対する放射線の影響は計り知れないものがあります。“胎内被爆者は生まれる前から被爆者の烙印がおされていた”と言う方もいます。被爆から75年たった今も、原爆の残虐さと放射能は被爆者を苦しめ続けています。

戦争なき世界を次代へ
 私たちは、世界に約1万3400発あるとされる核兵器の恐怖の中で暮らすことを余儀なくされています。
 私にとっては、戦争はまだ終わっていません。父の死は、つい昨日の出来事のように思えるのです。核兵器がゼロになり、核兵器の恐怖から逃れられるまで、被爆者は安心して死ぬことはできないのです。
 原爆投下後、近くの学校の校庭では、毎日5、6人の遺体を1カ月半にわたって焼いていたそうです。その人たちは、人として死ぬこともできなかった。生き残った人たちも、その後の人生を不安の中で生きることを強いられました。
 この非人道的な兵器、絶対悪の兵器が使用されれば、人類は破滅の道を進むことになります。再び被爆者をつくらせてはいけません。戦争は貧困を生み、憎しみを増幅していきます。核兵器の使用は、人類の生存に関わることです。
 私は今も、父を思わない日はありません。核兵器も戦争もない青い空を子どもたちに届けることが、全世界の大人の使命ではないでしょうか。核兵器のない世界、皆さんや子どもたちの希望が実現できる世界になってほしいと願っています。


【特集記事・信仰体験など】

◆〈未来に輝く知性の宝冠〉=完 デンマーク・南大学 先師と恩師に捧げる栄誉
 創価教育の“種”は大樹に
 師弟の勝利を世界は讃える


池田先生に対する250番目の名誉学術称号となった、デンマーク・南大学からの「名誉博士号」の授与式。席上、先生とラスムセン総長㊨が固い握手を交わすと、会場は万雷の拍手で祝福した(2009年3月、創価大学で)

池田先生に対する250番目の名誉学術称号となった、デンマーク・南大学からの「名誉博士号」の授与式。席上、先生とラスムセン総長㊨が固い握手を交わすと、会場は万雷の拍手で祝福した(2009年3月、創価大学で)

「教育とは種子のようなものです」
 デンマーク・南大学のラスムセン総長(当時)が、厳かな口調で語った。
 2009年3月21日。創価大学で行われた、池田大作先生に対する「名誉博士号」の授与式である。
 「ひとたびまかれた種は、人生の過程において成長し続けるからであります。これはデンマークの教育思想の根幹をなす考え方です。そして、私が理解する限り、創価大学の教育の本義でもありましょう」
 この名誉博士号が、世界の大学・学術機関から先生に贈られた、250番目の名誉学術称号となった。
 学位記には、「『生のための教育』の発展に向けた長年の研究と実践をたたえ」と記されていた。
 「生のための教育」とは、近代デンマークの精神の父・グルントヴィが提唱した思想のこと。学校とは、生徒たちが生きることや人生について学び、生命の多様性を学ぶ「生のための学校」であらねばならない――これが彼の信条であった。
 そのグルントヴィと、童話作家のアンデルセン、そして哲学者キルケゴール。名誉博士号を記念して贈られたメダルには、同国の3人の肖像が刻まれていた。
 「池田博士の行動にはまさに3人の偉大な哲学者の価値観が生きています」とラスムセン総長。さらにこう述べた。
 牧口常三郎先生、戸田城聖先生の教育構想を継ぎ、全てを実現した池田先生によって、両師の功績は今、世界で大きく宣揚されています――と。
 教育立国・デンマークに脈打つ人間教育の精神を、世界規模で体現する人物として、同大学は第1号となる名誉博士号を先生に授与したのである。
                             ◇ 
 デンマークに“教育の種子”をまいた人――それがグルントヴィである。
 19世紀前半、同国では、高等教育を受けた一部の知識人や官僚が特権的な地位に就いていた。国民の大半を占める農民たちの声が政治に反映されない状況に、民主主義の空洞化を危惧したグルントヴィは、「生のための学校」と題する冊子を著した。
 その中で彼は、知識の詰め込みではなく、自由な語らいの「生きた言葉」を通して知恵と人格を育み、生きる意味を思索し、生命を啓発し合う教育のあり方を提唱した。こうした理念のもとに生まれたのが、フォルケホイスコーレ(国民高等学校)である。
 1844年に最初の学校が設立されて以降、国民高等学校は各地に広がった。グルントヴィ自身は、実際の設立に関与することは少なかったが、彼がまいた教育の種子を芽吹かせ、花を咲かせる弟子たちがいた。
 その一人がコルである。
 51年、コルによる最初の学校が開校。以降も精力的に、子どもへの語り掛けを中心とした教育や、女性の入学を認める高等教育機関などを実現した。グルントヴィの思想を受け継ぐ行動にほかならなかった。
 64年、プロイセン、オーストリアとの戦争に敗れて国土を奪われたデンマークは、“外に失いしものを、内において取り返す”との合言葉のもと、内発的な国づくりを志向するようになる。この頃から、陸続と、国民高等学校が各地に誕生していった。
 グルントヴィとコルを敬愛してやまなかったのが、牧口先生である。
 「(学校は)子どもたちがほかのどの場所にいるよりも、一番幸福で自由でなければならない」(清水満訳・解説『コルの「子どもの学校論」』新評論)との思想は、子どもの幸福を第一とする先生の教育哲学と響き合うものだった。
 牧口先生の教育学が『創価教育学体系』として発刊されたのは、1930年。実現に奔走したのは弟子の戸田先生である。
 同書の緒言(序文)で牧口先生は、グルントヴィとコルの師弟に自らと戸田先生を重ね合わせ、「創価教育学の前途に一点の光明を認めた」と記した。
 先師、恩師の遺志を継ぎ、池田先生は61年10月、欧州への平和旅を開始した。最初の訪問地がデンマークだった。
 当時の真情を、先生はつづっている。「自分もコルのように、先師・牧口常三郎、恩師・戸田城聖の教育の理想を受け継ぎ、一刻も早く、創価教育を実現する学校を、設立しなければならないと思った」
 そして7年後の68年、創価学園が開校。71年には創価大学が開学した。学園と大学をはじめ、今や世界に広がる創価教育の学びやは、先生の両師への誓いの結晶である。
 一方で先生は、世界の識者と人間教育を巡る語らいを重ね、デンマークの名門・アスコー国民高等学校のヘニングセン元校長とも、対談集を発刊した。
 グルントヴィがいかに偉大であっても、その思想は永久に残ると保証されるものではなく、私たちが自分の手で勝ち取るべきもの――そう元校長は語った。
 先生は述べた。
 「理想が偉大であればあるほど、一つの世代で、すべてを実現することは難事です。ゆえに、次の世代への継承が必要となる」
 「『師弟』とは、同じ理想を分かち合い、その実現に向かって戦う最高無二の同志と言えるのではないでしょうか」
                              ◇ 
 名誉学術称号は、全て、先師と恩師にささげるもの――池田先生は常々、そう語ってきた。
 牧口先生の創価教育の理念を、私塾「時習学館」で実践した戸田先生。
 恩師から「戸田大学」で授かった万般の学問を誇りとして、平和と教育のネットワークを世界に広げてきた池田先生。
 その翼の下で学ぶ生徒・学生たちは、人を思いやり、尊重する心を生命深くに刻みながら、知性と人格を鍛えている。
 各国から来日する多くの識者らが、彼ら、彼女らの姿に触れ、創価教育の精神が脈々と流れ通う実像を、目の当たりにする。
 90年前にまかれた人間教育の“種子”は今、池田先生によって大樹となった。
 創価の師弟は教育で勝った。世界から先生に贈られた「396」の知性の宝冠は、その勝利をたたえる月桂冠である。

ラスムセン総長
 牧口初代会長の歴史を興味深く読ませていただきました。この偉大な人物の人生に私は深い感銘を覚えました。世界の人道主義が最大の脅威にさらされた戦時中の牧口会長の静かなる闘争と、平和ならびに人間に対する確固たる信念に心から感動しました。
 第2次世界大戦後、ユダヤ系ドイツ人の哲学者アドルノは、アウシュビッツのような悲劇を二度と繰り返さないためには、抑圧的ではない自由な教育文化をしっかり構築することだと結論づけています。創造的かつ普遍的な教育の実現、これこそ創価教育の根本思想にも通じます。(中略)
 正しい価値観の崩壊を防ぐため、「生のための教育」、個々の覚醒を促す実りある教育の実現が、未来のための重要不可欠な課題なのではないでしょうか。この点は教育が果たすべき最大の責務の一つであると思います。
(中略)
 デンマーク・南大学は稀有な人物をたたえるため、第1号の名誉博士号を授与することを決定しました。教育の目的を深く理解し、国際的な視野に立ち、人間主義と国境を超えた相互理解を推進し、福祉の発展に貢献した人物をたたえるためです。(中略)
 わが大学は池田博士に名誉博士号を授与できることを大変光栄に思います。そして博士が1961年、欧州訪問の第一歩をしるしたデンマークからの授与が、記念すべき250番目の名誉学術称号となることを心よりうれしく思います。(名誉博士号の授与式〈2009年3月21日〉から)

市民に開かれた国
立大学社会貢献の人材を輩出
 多くの教育機関が合併して誕生した国立大学。ユトランド半島南部のハーザスレウやコリングなどの都市にキャンパスを構え、6000人を超える学生が在籍する。
 教育科学や健康科学などの分野に重点を置き、幅広い高等教育プログラムを提供。地域密着の研究や実践、社会人コースの設置など、市民に開かれた大学として発展を遂げる。
 世界各国の大学・研究機関とネットワークを結び、国際交流を活発に推進。創価大学とも学術交流協定を締結し、交換留学生が両大学を往来している。

 

◆〈信仰体験〉3・11ファインダー  「農福連携」の夢広げ

 【福島県・浪江町】青々と葉が茂るビニールハウスで、こつこつ働く。二十日大根を収穫したり、ぶどうを育てたり。発達障がいがある実み和わさん=華陽リーダー=は、花きや野菜などを栽培するNPO法人に昨春から勤めている。

 「自分は本当に幸せ者」
 そう言えるまでの道は途方もなく長い。
 心に傷を負い、わが身の障がいを認めつつ、やりたいことにチャレンジして今の彼女がいる。
 埼玉育ち。小学5年でADHD(注意欠陥・多動性障害)とLD(学習障害)の診断を受けた。漢字が苦手でノートに100個ずつ練習したが、書けば書くほど違う字になった。
 中学に上がると、いじめの標的にされた。口をつぐみ、廊下の端をうつむいて歩くようになった。
 授業参観日に、独りぼっちの姿を母に見られた。理科室に移動するクラスメートの輪に入って取り繕うこともできなかった。
 「休んでいいよ」と諭す母に首を振り、「休んだら自分に負けちゃうよ」と明るい声で学校へ行く。本当は死にたいぐらいだった。いじめられる自分が悪い、と黙っていた。
 「君は、どこも悪くない。『いじめている』側が、100パーセント悪い」
 『希望対話』の池田先生の言葉に顔を上げ、中学を通い切った。
 前へ前へと時を刻む。富士鼓笛隊でアルトサックスに挑み、酪農が好きで農業大学校にも進んだ。
 そんな彼女を、浪江町は温かく迎えた。
 土地の言葉で家に招き、熱いお茶を出す人。畑の土がついたままの野菜を両手に持たせてくれる人。穏やかな風。遮るものがない大空。肌に合った。
 働き口は役場の人が紹介してくれた。実和さんは初任給で、コンビニのアイスクリームを両親に買った。
 仕事で周りが見えなくなるほど集中することが、たまにある。ADHDの特性だ。
 草むしりも広範囲ではなく、一つの草に過剰になるから、「遅い」と言われた。へこんで御本尊の前に座ると、母の言葉が浮かぶ。
 「障がいは個性だから」
 それは優しさだと分かっていた。だが「そんな簡単なものじゃない」と泣いて突っぱねた。中学3年の頃だ。
 障がいのどこが個性なのか――。その問いに近づき、後ずさりしながら時を重ね、実和さんは諦めない心を培った。
 そして夢を見つけた。
 障がいのある人が農業に従事することで社会に参加する「農福連携」。避けようのない不自由さは、少しなら共感できる。それを強みに「障がいがあるからこそ作れる農園を目指してみたい」。わが身のことで精いっぱいだった自分を越えた。
 浪江に来て2回目の夏。
 地元の人との触れ合いに身を置くと、「浪江町のアイドル」と呼ばれた。うずくまっていた過ぎし日の自分には、想像できないほどの言葉だった。
 照れながら町の人の笑顔を見ていると、こんなふうに思う。
 「浪江はこれから発展していく希望の町。この町が大好きです」


◆〈壮年部のページ〉

★第2総東京 東村山戸田区      感謝と誓いの「共戦譜」

 東京・東村山市を活動の舞台とする東村山戸田区の壮年部。本年1月から、65歳以上のメンバーが集い、「黄金会」として、毎月1回の予定で、小説『新・人間革命』の勉強会を開始した。
 しかし、コロナ禍で会合等が中止に。だが研さんは続けていこうと話し合い、毎週水曜日付の本紙の連載「世界広布の大道」を教材に、各自で小説を学習。さらに毎週土曜日には“同盟唱題”を行ってきた。
 また困難が続く中、“皆で励まし合い、明るく朗らかに難局を乗り越えよう”と「川柳」を募集したところ、メンバーを中心に560句を超える応募があり、5月3日に作品集が完成した。
 そこには「戦は現在 四表の静謐 祈るなり」「いざチャンス 人革読了 挑戦中!」「こどもの日 孫と並んで 唱題行」など前進の息吹あふれる作品が。
 また「寒苦鳥 明日から読むぞと 御書閉じる」「黄金会 スマホデビューで 若返り」「お父さん 自粛しないの 勤行は?」などのユニークなものも。
 さらに年譜『栄光の共戦譜』の贈呈が開始されると、メンバーの心に一段と勇気が湧き上がった。「素晴らしい年譜を手にし、自身の広布の戦いがよみがえりました。池田先生との思い出を懐かしく振り返り、皆が新たな誓願に立っています」と語るのは、谷英也副区長(73)。谷さんは本年、地域に住む90歳の友人を入会に導いた。
 「黄金会」のメンバーは、今この時を“自身の広布の歴史を振り返るチャンス”と捉え、それぞれが体験と決意を「私の師弟共戦譜」と題してつづり、8・24「壮年部の日」を目指して、文集にまとめることに決めた。
 原稿作成は順調に進んでおり、池田先生の会長就任式に夫婦で参加した感動、班長・班担当員(当時)との記念撮影で先生の隣に座った感激、勤め先の理容店に先生が来店された喜びなど、かけがえのない自分史が、びっしりと記されている。
 一人一人に投稿を呼び掛けている山口信次地区幹事(76)は、「皆さん、感謝と誓いを込めて、思う存分、つづってくださっています」と。山口さんが所属する地区では、11人もの壮年が原稿を提出した。
 メンバーの一人、渡辺直宣副区長(75)は、長年、地域の防犯パトロールに携わり、警視庁や東京防犯協会連合会などから表彰を受けるなど、地域での信頼は抜群だ。
 「コロナ禍で自粛していた分、活動したくて、うずうずしています。感染拡大防止に万全の注意を払いながら、“創価の正義”を胸に、創立90周年を勝利します」

★埼玉県越谷市  高木 良昇さん(76)  苦難が信心を深める

 埼玉県越谷市の高木良昇さん(76)=越谷凱旋圏・川柳支部、副創価長(副ブロック長)=は一昨年8月、自宅で倒れ、病院へ緊急搬送された。
 「脳幹部出血」――呼吸や血圧を保つなど生命活動の基本を担う脳幹部位から出血しており、医師から「出血箇所が、あと数ミリずれていたら、命の保証はなかった」と告げられた。
 後遺症で左半身不随となったが、入院から5カ月後に車いすで退院。現在は週3回、リハビリに通っている。「一日も早く回復するよう、必死に祈り、生命力を奮い起こして、リハビリに励んでいます。病気前よりも元気になって、仕事も学会活動も全てやり抜き、信心の実証を示していくことが目標です」
 太陽光発電事業などを手掛ける高木さん。これまで仕事で付き合いのある知人から、人生の悩みを相談されたことが、しばしばあった。退院から1カ月がたった昨年2月にも、20年来の知人から悩みを打ち明けられた。友人は、周囲との人間関係がうまくいかず、心臓病も患い、これからどう生きていけばいいのか分からないと苦しんでいた。
 じっと耳を傾けていた高木さんが口を開いた。「今回、私は脳幹部出血で倒れ、医師から『寝たきりになり、口もきけなくなる』と言われました。“もう人生、終わりだ”とも思いました。でも、胸中で『南無妙法蓮華経』と唱えていく中で、“断じて負けられない”という思いが湧いてきたのです。御書に『妙とは蘇生の義なり』(947ページ)と仰せの通りです。信心を実践すれば、必ず状況を変えていけます」。高木さんの“不屈の心”に触れて、知人は信心で立ち上がる決意を。その後も高木さんは励ましを送り続け、本年1月、知人は入会した。
 高木さんは決意する。「『難来るを以て安楽と意得可べきなり』(御書750ページ)です。病気が“本物の信心”を教えてくれました。いつも祈ってくださる大勝地区の皆さんと共に、報恩感謝の思いで、これからも折伏に挑戦していきます」
〈学ぼう「黄金柱の誉れ」Q&A〉8

 大切な夏休みに入り、お子さんやお孫さんに信心の素晴らしさを伝えていきたいと思っている壮年部の方々も多いと思います。ここでは、信心の継承をテーマに、壮年部指導集『黄金柱の誉れ』から池田先生の指導を学んでいきましょう(指導集248ページから250ページまでを抜粋)。

●テーマ 信心の継承 子どもが、なかなか信心に立ち上がりません

〈「信念、生き方、情熱」を賢明に伝える〉

 私たちは、法のため、人のために奉仕している。エゴの人生ではない。ゆえに人よりも忙しいし、団欒の機会も思うままには取れないかもしれない。それでも人に尽くして生きている。いちばん尊い人生なのである。
 その信念、生き方、情熱を、子どもたちが理解し尊敬できるようにしてあげなければならない。愛情も信念も、“黙っていても、いつかわかってくれるだろう”と考えるのは誤りである。
 意識して“表現”しなければならない。あせらず、そして賢明に伝えていくことである。その「知恵」が「信心」の表れなのである。
(『池田大作全集』第82巻、SGI代表者会議でのスピーチ)

〈自分がしっかりしていればいい〉

 両親や夫や奥さんがなかなか入会しない、あるいは子どもが信心に立ち上がらないからといって、あせる必要はありません。

 大聖人も「この功徳は父母・祖父母・乃至無辺の衆生にも・をよぼしてん」(御書1231ページ)――この功徳は、あなたの父母・祖父母、さらに無辺の衆生にもおよんでいくでしょう――と仰せです。自分がしっかりしていれば、すでに道は開かれているのですから、安心していい。太陽は一つ昇れば、全部を照らしていける。自分が一家・一族の太陽になればいいのです。
 (『池田大作全集』第30巻、「法華経の智慧」)

 〈恥じることはない〉

 自分が幹部で、子どもさんが一生懸命に信心していないことから、“幹部として恥ずかしい。皆に申し訳ない”と、何か後ろめたい思いでおられる方もいるかもしれない。また、“幹部なのに……”と厳しい目で見ている人もいるかもしれない。
 しかし、負けてはいけません! 決して恥じることはありません。全部、深い意味があるんです。要は、子どもさんが信心に励み、幸せになれるように、強盛に祈り、日々、真剣に努力し抜いていくことが大事なんです。
 むしろ、子どもさんのことで、確信を失い、元気が出なくなってしまったり、学会活動に対して遠慮がちになってしまったりすることの方が問題です。それこそが、魔に破られてしまっていることだからです。何があろうが、めげたり、萎縮してしまったりすることなく、大生命力をみなぎらせ、堂々と胸を張って、戦うんです。そして、周囲の若い後継の世代を温かく励まして、全力で育成していけばいいではありませんか!
 (小説『新・人間革命』第27巻「求道」)

2020年8月 8日 (土)

2020年8月8日(土)の聖教

2020年8月8日(土)の聖教

◆わが友に贈る

 師弟の原点や
 信仰の喜びを
 家族で語り合おう!
 広布の未来を開く
 信心継承の夏に!


◆名字の言 本に出会うことは、人に出会うことと近い――小説家・森博嗣氏 2020年8月8日

 小説家の森博嗣氏は子ども時代、読書が苦手だった。理由は遠視。文字を見ようとピントを合わせても前後がぼやけてしまうので、一文字ずつ本を読むしかなかった▼そんな氏が、人生で初めて買った本がエラリー・クイーンの『Xの悲劇』。1ページを読むのに、10分以上もかかった。それでも毎日2時間以上をかけて読み進めた。結局、読了には約1カ月かかったが、その面白さに驚愕したという▼氏は「本に出会うことは、人に出会うこととかぎりなく近い」「本を開き、活字を読み始めるだけで、一瞬にして遠くまで行ける感覚がある」と(『読書の価値』NHK出版新書)。一人の人間が経験できることは限られているが、読書によって、多くの人の人生から学び、世界の文化を知ることができる▼池田先生は「本」について、地球を瞬時に移動できる“世界旅行の切符”であり、歴史を学び、未来社会を生きる“タイムマシン”であり、“偉人との対話の広場”と、未来部員に語っている。青春時代の読書は、「心の翼」を大きく広げ、向上の人生を生きる源泉となる▼未来っ子と共に、たくさんの“良書と出合う”夏としたい。未来部の「読書感想文コンクール」「きぼう作文コンクール」は、その絶好の機会である。(銘)


◆寸鉄

南無妙法蓮華経と唱え奉
るを智慧とは云うなり―
御書。祈れば必ず活路が
     ◇
怠けている間に青年時代
は過ぎ去る―戸田先生。
青春の薫陶こそ生涯の宝
     ◇
東京・荒川広布原点の日。
師が築きし“庶民の都”。
誇り胸に友情の輪を拡大
     ◇
暑かったらマスク外して
―小児科医会が子どもに
呼び掛け。熱中症に注意
     ◇
帰省する際も手指消毒や
換気、「3密」等避けて―
分科会。互いの命守る為


先生のメッセージ】

◆〈心に御書を〉66 妙法と共に! 仏の大生命力で2020年8月8日

〈御文〉
 此の法華経には我等が身をば法身如来・我等が心をば報身如来・我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候(妙法尼御前御返事、1402ページ)
〈通解〉
 この法華経には、私たちの身を法身如来、私たちの心を報身如来、私たちの振る舞いを応身如来と説かれているので、この経の一句一偈を持ち信じる人は皆、この(三身如来の)功徳を具えるのである。

〈池田先生が贈る指針〉
 妙法は宇宙と生命を貫く根源の法だ。題目を唱え行ずる人は、三身如来の仏である。身も心も振る舞いも、そのまま仏なりと仰せなのだ。
 広布に生きる自身を卑下してはならない。同志を軽んじてもならない。
 妙法と共に我らは胸を張って、仏の大生命力を生活に社会に漲らせよう! 伸び伸びと仲良く朗らかに!


【教学】

◆御書池田大学運動のために 池田華陽会御書30編に学ぶ
千日尼御前御返事㊦ (雷門の鼓御書)

 今月は、「千日尼御前御返事」の後半を学びます。
 池田先生は、つづっています。
 「一人一人が人間革命のドラマの主人公です。一人ももれなく、確かな幸福の軌道を歩み抜くのです。そのために、日蓮大聖人が教えてくださったのが、『心こそ大切』の大哲理です。『心こそ大切』――いつでも、どこでも、誰でも『人間革命』を勝ち開いていける究極の要諦が、ここにあるといっても過言ではないでしょう」
 日蓮大聖人が示された「心こそ大切」との仏法の真髄を学び、わが心を磨き輝かせゆく“行学の夏”の前進を開始していきましょう。(拝読範囲は1316ページ10行目「譬えば黒漆に」~1317ページ本抄末尾です)

本抄について

 本抄は、弘安元年(1278年)閏10月19日、日蓮大聖人が身延で認められ、山海に隔てられた佐渡の地に住む、門下の千日尼に送られたお手紙です。
 千日尼は、大聖人が佐渡に流されていた時、夫の阿仏房と共に弟子となり、命を懸けて大聖人をお守りしました。
 大聖人が身延に入られた後も、夫妻は使命に燃えて、佐渡の広宣流布の中心者として活躍します。さらに、夫の阿仏房は、幾たびも遠路はるばる大聖人をお訪ねし、御供養の品をお届けしました。
 本抄で大聖人は、毎年のように阿仏房を送り出してきた千日尼の真心を称賛され、“妙法を持つ女性は必ず幸福になる”と最大に励まされます。
 また、「雷門の鼓」が千万里の遠くにあっても瞬時に聞こえるように、いかなる距離も超えて、師弟の心はつながっていることを教えられます。このことから本抄は「雷門の鼓御書」とも呼ばれています。

御文
 譬えば天月は四万由ゆ旬なれども大地の池には須臾(しゅゆ)に影浮うかび雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、我等は穢土に候へども心は霊山に住すむべし、御面(おんかお)を見てはなにかせん心こそ大切に候へ
(御書1316ページ15行目~18行目)

通解
 譬えば天空の月は遠く四万由旬も離れていますが、大地の池には瞬時に影が浮かび、雷門の鼓は千万里の遠くにあっても打てば瞬時に聞こえます。あなたの身は佐渡の国にいらっしゃいますが、心はこの国に来ています。
 仏に成る道もこれと同様です。私たちはけがれた国土におりますが、心は霊山浄土に住んでいるのです。お会いしたからといってどうなりましょう。心こそ大切です。

[解説]
求道心が行動に表れる

 掲げた御文の冒頭、大聖人は、天空の月も地上の水面に姿が映ることや、古代中国の「雷門の鼓」は、千万里離れていても瞬時に音が聞こえることをあげられています。
 仏法を求める心は、必ず行動となって表れます。大聖人は、毎年のように夫を送り出す千日尼の心を推し量り、天月や「雷門の鼓」のように“あなたの身は佐渡の地にあっても、心は私のところに来ていますよ”と述べられます。
 師への真心を尽くす千日尼の思いに寄り添いつつ、“心は共に戦っているではないですか”との激励であると拝されます。仏法の強い師弟の絆を教えてくださる、師の深い慈愛に、千日尼は勇気と希望を感じとったに違いありません。
 大聖人はさらに「仏に成る道」においても、大切なのは“心”であることを示されています。
 続く御文で、“身”は「穢土」という苦悩に満ちた現実世界にあっても、正法を行じる私たちの“心”は、共に「霊鷲山」、すなわち常寂光土にあると教えられています。
 「心は霊山に住べし」とは、自身の胸中には、何ものにも負けない“仏の生命”を涌現することができることを教えられているのです。そのことを確信し、どんな時も信心で心を磨き前進する挑戦が、私たちの仏道修行の根本なのです。本当の幸福とは悩みがないことではなく、悩みなどに振り回されず、妙法に生き抜く人生にあるのです。
 続いて大聖人は、千日尼に「御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ」と述べられます。“会えるか会えないか”といった形式ではなく、「師弟不二の心」こそが大切であるとの仰せです。
 私たちは、変化の連続で、困難の絶えない現実を生きています。時に、思い通りにいかないことに苦悩したり、未来に対する不安に駆られたりすることがあるかもしれません。
 しかし、信行学に励んで心を磨き、御書と池田先生の指導を根本に「人間革命」の実践を貫いていけば、必ず最高の幸福を築き、自分らしい使命の人生を歩むことができます。
 「心こそ大切」との確信で、師弟の誓い光る向上の青春を歩んでいきましょう。

池田先生の講義から
 「不退の心」「常勝の心」「先駆の心」「前進の心」「不屈の心」「決定の心」「勇気の心」「慈愛の心」「包容の心」「励ましの心」「感謝の心」、そして「“負けじ魂”を貫く心」――。私たちは日々の地道な仏道修行を通して、いつしか「仏界の心」、「菩薩界の心」をわが生命の大地から呼び出しています。「心一つ」で、自身を変え、周囲を変え、社会を変える一念三千の秘術を体得しているのです。
 それは、単なる気の持ちようとか、気休めなどの観念論ではありません。真の「心の変革」は、「現実の変革」を約束するのです。「わが心」すなわち生命境涯を深めていくことが、人間革命の宗教の真骨頂です。功徳とは、わが生命の変革にほかならないからです。(中略)
 「どこまでも広布の誓願に生き抜く心」
 「どこまでも学会と共に前進する心」
 まさしく、妙法に生き、師弟に生き、同志と共に生きていく「心」があれば、そこから一切が開けます。未来を築くのは、今の「心」にあるのです。(『人間革命の宗教』)

〈御書カフェ 華陽姉妹の語らい〉

御文
 一切衆生の同一苦は悉く是これ日蓮一人の苦と申すべし(諫暁八幡抄、587ページ)

通解
 一切衆生の同一に受ける苦は、ことごとくこれ日蓮一人の苦であると言うのである。
教えて
 悩んでいる友人を支えていきたいです。

池田先生の指導
 この御本仏の闘争に連なり、人びとの苦悩にどこまでも同苦し、「抜苦与楽」の慈悲の実践を現実社会の中で繰り広げているのが、創価の女性たちである。
 自らも悩みや苦しみと戦うからこそ、同苦できる。一緒に題目を唱え、苦難に負けない「師子王の心」を取り出して、一歩一歩、幸の道を力強く進んできたのである。(『随筆 永遠なれ創価の大城』)
                                                                  ◇ ◆ ◇
 悩みは千差万別である。相談を受けても、十分に答えられない時もあろう。大切なことは、悩みを分かち合い、共に祈ることだ。
 掛ける言葉が見つからなくとも、誠実に話を聞くだけでも力となる。信頼できる先輩を紹介して、アドバイスを求めてもよい。
 そして、その人が立ち上がるまで、題目を送っていくことだ。
 「同苦」の祈りが、友の希望となり、勇気となることを忘れまい。(2015・3・4付、「創価新報」掲載の「勝利の人間学」)


【聖教ニュース】

◆連載〈危機の時代を生きる〉徳之島に暮らす、7カ国語を話すアルゼンチン人 2020年8月8日  

 鹿児島市の南約500キロ、奄美群島の中央にある徳之島。この島に、アルゼンチン出身の地区部長がいる。

 ギジェルモ・ラミレスさん(47)は、創価大学で工学博士号を取得したコンピューター・セキュリティーの専門家。しかもスペイン語、英語、日本語をはじめ、7カ国語を使いこなす。
 地球の反対側からやって来た国際人が徳之島に移住したのは、なぜか――。彼の離島暮らしを追った。(記事=掛川俊明、野田栄一)  
  


人生の価値は、人のつながりの中に

 ラミレスさんは、島内の高校で非常勤講師を務め、情報科の授業を担当。二つの保育園でも英語を教えている。
 昨年2月には会社を設立。コンピューター・セキュリティーの研究開発と多言語のウェブサイト制作などを手掛ける一方、語学教室やパソコン教室も運営し、子どもから高齢者まで、多くの生徒が集まる。
 教育に携わるのが、ずっと夢だった。自分が磨いてきたIT(情報技術)と語学を教えられることが、うれしくて仕方がない。
 「今は、デジタルの時代でしょ。ITと語学のスキルを身に付ければ、どこにいても、世界を相手に仕事ができる」
 高校卒業後、就職や進学で島を離れる子どもは多い。「僕は、徳之島にいながらでも、夢をかなえられるようにしてあげたいんだ」
 この島の風景は、どこか故郷と似ている――。
  
 ラミレスさんが育ったのは、アルゼンチンの北部、自然豊かなコリエンテス州だった。
 1987年(昭和62年)、父・ドミンゴさんが心臓発作で他界。父は生前、家族の中で一人、SGI(創価学会インタナショナル)の活動に励んでいた。
 父亡き後、一家で信心を受け継ぐ。当時、地元の町にはSGIメンバーは4人しかいなかった。会合参加も40キロ離れた隣町へ。
 14歳のラミレスさんも母と折伏に励み、2年ほどで町のメンバーは約10倍になった。
 「クラスメート全員に語ったよ。成績もどんどん伸びて、地元の難関大学にも進めた。信心の功徳だね」


 99年、26歳の時に日本でのSGI青年研修会に参加。期間中、創価大学を訪問し、“池田先生が創立された大学で学び直したい”と誓う。
 帰国すると、半年後の留学を目指して、税務署の仕事に加え、学校の講師とプログラミングのアルバイトも掛け持ちし、学費をためた。
 日本へ旅立つ直前、父が世話になったSGIの壮年にあいさつに行った。
 「お父さんは“息子を創価大学に行かせたい”と、いつも語ってたんだよ」
 初めて知る亡き父の夢――涙が込み上げた。
 創大では、別科で日本語を学んだ後、工学部へ。大学院まで進み、10年間、在籍した。その間、妹のナタリアさんも創大に留学。
 自分と妹の学費を賄うため、いくつもアルバイトをしながら、研究に励んだ。
 「給料日の前は、食べる物にも困った。それでも明け方まで研究に追われて……」  
  

本部幹部会の席上、池田先生はラミレスさん㊧を包み込むように激励した(2006年9月、東京牧口記念会館で)

本部幹部会の席上、池田先生はラミレスさん㊧を包み込むように激励した(2006年9月、東京牧口記念会館で)
  
 そんな2006年9月。父を亡くし苦学するラミレスさんの様子を聞いた創立者・池田先生の提案で、父母の名を冠した“夫婦桜”が創大構内に植樹されることに。
 ラミレスさんは植樹の当日、本部幹部会にも参加した。
 会合の席上、先生はラミレスさんを壇上で抱き締めた。「全部、分かっているよ。頑張るんだよ」。何度も肩をたたき、励ました。
 その後、ラミレスさんは国際標準のコンピューター・セキュリティーの研究に打ち込んだ。
 「苦しくてどうしようもない時は、何度も桜の下に行きました。先生の『頑張るんだよ』って声を思い出して。“僕は独りじゃない、先生が見守ってくれている”って力が湧くんです」
 国際会議にも何度も参加し、創大の留学生で初となる工学博士号を取得。卒業後は、東京の企業や京都の研究機関に勤めた。
  
 だが、ビジネスは熾烈な競争の世界。都会の暮らしは人間関係が希薄で、会社では文化の壁も感じた。
 “自分は何のために日本に来たんだ……”。帰宅すると毎晩、部屋で一人、遠く離れた故郷を思った。
 その頃、毎年のように徳之島を訪れていた。大学院進学の保証人になってくれた知人が同島の出身で、会いに行っていたのだ。
 緑の山、澄んだ空気、人との触れ合い。島に来ると、故郷に帰ったような気がした。
 滞在中、自動販売機の前で、買ったはずの飲み物が出てこずに困っていた老婦人を助けた。すると翌日、お礼にと、たくさんの野菜を持って来てくれた。
 「なんだか、この島にずっといたいと思った。ちょうど仕事の契約も切れて。アメリカやドバイの会社から誘いはあったけど、断って」。2017年、徳之島に移住した。

大事なのは“心”を結ぶこと
 島に移り住んで3年が過ぎた。畑仕事を手伝い、土まみれになってジャガイモを掘り出し、島口(方言)や島唄、三線も習った。
 「僕が島を愛するほど、島の人たちも僕を大切にしてくれる」
 学会活動でも、その姿勢は変わらない。「御書が大好き!」と語るラミレスさんは、何カ所も座談会に呼ばれる。
 付箋をたくさん貼った御書を開き、日本語・英語・スペイン語で御文を紹介すると、参加者も大喜び。
 昨年からは地区部長として、地道な訪問・激励に徹し、信頼を結ぶ。
 島では“学会のラミレスさん”と、誰もが知っている。「だから悪いことはできないよ(笑い)」

 本年、新型コロナウイルスの影響は、徳之島にも――。
 島内に感染者は出ていないが、勤務先の高校は休校に。自分の教室も休業し、収入は激減した。
 「嘆いていても仕方がないから、題目だね。祈って祈って」
 すると、知人の島民からIT(情報技術)関連の仕事が舞い込み、さらに島の特産品を紹介するウェブサイトの作成依頼も。「島のつながりに助けられたよ」
 5月には学校も再開し、語学・パソコン教室も通常の運営に戻した。

 仕事でITを活用する一方で、学会の地区部長としては、オンラインの学会活動には少し慎重だった。地区内には、電波の入らない場所があり、80代以上の壮年部員も多い。
 「オンラインだと参加できない人がいるのがつらい。だから、僕は聖教新聞の記事を書き写した、励ましのカードを作って、みんなに届けているんだ」
 オンラインはあくまでツール(手段)であり、「大事なのは“心のつながり”を結ぶこと」だと、ラミレスさんは言う。
 創価大学の開学の日に、創立者・池田先生は、「労苦と使命の中にのみ 人生の価値は生まれる」「英知を磨くは何のため 君よそれを忘るるな」との二つの指針を学生に贈った。
 ラミレスさんも、この言葉をずっと大切にしてきた。
  
 「たしかに、島の暮らしは不便も多い。人間関係が窮屈だと思う人もいるかもしれない。だけど、僕にとっては、目の前の人を幸せにできる、すてきな“つながり”なんだ」
 自分が磨いてきたスキルを何に使うのか。人生の価値はコンピューターでは計算できない。
 ラミレスさんは、「生きる幸せは、人のつながりの中で実感するもの」と。
 最後に、「今まで住んだ場所の中で、どこが一番ですか」と尋ねると、「創大の滝山寮だね!」と即答。喜びも悩みもさらけ出して、仲間と語り合った日々が、今もラミレスさんを支えている。
  
●ご感想をお寄せください
 kansou@seikyo-np.jp
 ファクス 03―5360―9613  
  

“夫婦桜”の下から見上げる創価大学の本部棟(本人提供)

“夫婦桜”の下から見上げる創価大学の本部棟(本人提供)


【特集記事・信仰体験など】

◆〈いまを歩む〉 東日本大震災から9年5ヵ月  2020年8月8日
 宮城 コロナ禍の中で  社会を守り、未来を開く

 東日本大震災から9年5カ月。コロナ禍という新たな危機の中、未曽有の苦難を乗り越えてきた東北の創価家族は、今再び、励ましの輪を広げようと奔走している。今回は、震災当時からエッセンシャルワーカー(社会の維持に不可欠な仕事の従事者)として奮闘してきた、宮城の友を紹介する。

真心の介護を
 介護福祉士として働く佐々康太郎さん(男子部ニュー・リーダー)。
 勤務する介護福祉施設には、90人以上の高齢者が入所し、コロナ禍の今、手洗いや消毒などの感染対策に、いっそう力を入れている。
 「大変な時だからこそ、入所者に安心してもらえるよう、笑顔を引き出すコミュニケーションを心掛けています」
 佐々さんは2008年に入会。学会員が語る信仰体験に心引かれた。人生のさまざまな課題を前に、無力さを感じることがあった佐々さんにとって、信心は希望になった。
 唱題すると勇気が湧いた。何度か失敗し、諦めかけていた介護福祉士の資格取得を決意。それまで以上に勉強を重ね、合格を勝ち取った。
 その2年後に、東日本大震災が起こった。地域一帯が停電と断水に。その日、佐々さんは休暇だったが、居ても立ってもいられず、翌日すぐに、荷物をまとめて職場へと向かった。
 施設はライフラインがストップし、激しい揺れのため、浴槽にためてあったお湯も、ほとんどが流れ出していた。
 泊まり込みで入所者を支えた。暖房がつかない冷え切った施設で、一人一人の体調管理に集中した。夜は暗闇の中で手洗いに立つ人を注意深く先導した。あっという間に1週間が過ぎ、一時帰宅。その後も夢中で働いた。
 苦闘の日々の中で、佐々さんを支えたのは「題目」だった。気力を振り絞って御本尊に向かい、一日また一日、使命を果たす決意を強くした。
 「信心があったから、あの混乱を乗り越えられたのだと思います」
 平穏な日常が戻ると、活躍の場を広げるために新たな挑戦を開始。時間をこじ開けるようにして、ケアマネジャーの資格取得に向けた勉強に励んだ。そして、本年4月、晴れて難関を突破することができた。
 現在、宮城県内でも新型コロナウイルスの感染が拡大し、医療や介護現場では緊張が高まっている。
 「これまで以上に祈りを深くし、入所者に真心を尽くしていきたい」と、佐々さんは使命の道を真っすぐに進む。

看護の使命
 三浦智美さん(副白ゆり長)は、病院の地域包括ケア病棟で働く看護師。明るい人柄と、こまやかな心遣いで信頼は厚い。
 震災時は同じ病院の内科病棟に勤務していた。地震でライフラインは寸断。混乱の中で入院患者の病室に走った。
 けが人はいないか。人工呼吸器が外れていないか……。余震が続き、不安を募らせる患者に「大丈夫です。落ち着いてください!」と懸命に声を掛けた。
 当時、小学1年生と保育園児だった2人の娘の無事が分かったのは、日が暮れてからだった。学校と保育所に迎えに行き、共に避難所で夜を明かした。
 翌日、居住地域の様子を見に行き、愕然とする。住まいの県営住宅は海から離れていたが、周囲にがれきが散乱。1階の住居は床上浸水していた。津波は県営住宅のそばを流れる貞山運河をさかのぼってきた。
 それでも仕事を休むわけにはいかない。学校が再開するまで、子どもたちを病院の臨時保育所に預けて、患者の看護に当たった。
 シングルマザーの三浦さんは、看護師だった母の勧めで、25歳の時に看護学校へ。准看護師として病院に勤め始めてから2年後の震災だった。仕事と子育て、自宅の修繕など、目の回るような日々を、唱題根本に歩み抜いた。
 震災後、白樺会の一員として“看護の使命”を深める中で、三浦さんはもっと力を付けようと決意する。8年間の実務経験を経た2018年、大学の通信教育部に入学。本年3月に看護師の資格を取得し、活躍の舞台を広げた。
 この間、大きな励みになったのは娘たちの存在だった。
 震災から3年後に開催された総宮城創価青年大会。少年少女部の合唱団の一員として2人は、さわやかな歌声を披露した。多忙な仕事で、思うように娘たちに寄り添えなかった。それでも娘たちは“創価の庭”で立派に成長してくれていた。感動と感謝の涙が止めどなくあふれた。
 現在、病院にはコロナの感染を心配する患者が多い。
 「消毒の徹底や面会制限など細心の注意を払っていますが、最も大切なのは、不安を取り除く声掛けだと思います。自身を磨き、“看護の使命”を果たしていきます」

縁の下の支えに
 阿部好浩さん(地区部長)が代表取締役を務める有限会社「阿部鉄クリーン」。気仙沼市と南三陸町を舞台に、ホテルや民宿、水産加工会社、コンビニなどから出た廃棄物の回収・処理を担う。
 2年前に亡くなった父・鐵太郎さんが、母・稲子さん(支部副婦人部長)と事業の礎を築いた。阿部さんは、さらなる発展を目指し、妹・三浦直美さん(白ゆり長)や他の従業員と力を尽くしている。
 震災で南三陸町歌津の高台にある社屋と自宅は無事だったが、外出中だった両親と連絡が取れず、不安が募った。1週間余りして、ようやく再会。その後は被災した妹家族を自宅に受け入れた。
 電気や電話などが断たれる中、同志が何度も激励に通ってくれた。池田先生からの励ましの言葉を伝えられ、“負げねえ!”と固く心に誓った。
 変わり果てた故郷の復興に貢献したいと、がれきの運搬に奔走。仮設の店舗や事業所が立ち始めると、廃棄物の回収再開を依頼された。復興が進むほど、忙しさが増した。
 廃棄物の分別はほぼ手作業で行われ、手間暇が掛かる。従業員を雇っても、重労働に音を上げ、辞めていく。それでも阿部さんは復興への思いを燃やし、フル回転。2013年には産業廃棄物の積み替え保管施設の許可を取得。徐々に従業員も増えていった。
 本年、コロナ禍による自粛で景気は落ち込み、観光客も激減した。先の見えない日々が続く。こと廃棄物の回収・処理は、感染のリスクと直面する。社内では、消毒や手洗い、マスク着用などの対策を徹底。“地域に不可欠な仕事”との誇りと責任感が、リスクに備える姿勢に表れている。
 学会組織では、5年前から地区部長を。青年部時代に心に刻んだ「陰徳あれば陽報あり」(御書1178ページ)を拝し、“誰が見ていなくても、常に誠実な振る舞いを”と決意。挑戦を重ねてきた。本紙配達員としても奮闘する。
 南三陸町は今、新たな道路や港、観光・商業施設、高台の町などが、一つ一つ姿を見せてきた。これからが復興・発展の“本舞台”。「皆が笑顔になれる地域を! 自分はその“縁の下の力持ち”になりたいです」

◆〈語り継ぐ3・11〉宮城・仙台市宮城野区 星恵子さん
“生命の力”に感動の日々

 〈宮城県仙台市宮城野区の沿岸には、仙台塩釜港がある。その南側に蒲生干潟と七北田川の河口、さらに美しい砂浜が続く。東日本大震災では、沿岸一帯に巨大津波が押し寄せた。
 星恵子さん(宮城野総区・総区副婦人部長)は当時、この地域を含む宮城野本陣区の婦人部長だった。自身も津波にのまれ、九死に一生を得て、避難所に身を寄せた。その後の日々を、かけがえのない家族や住まいを失った同志に寄り添い、伴走してきた〉

 震災の日は、おいっ子の就職を祝うため、内陸部にある大崎市の実家に行っていました。あまりの激震に驚き、すぐに車で仙台市の自宅へと向かいました。
 国道45号を走り、仙台市内までもう少し、というところで、前方の車が次々とUターンし始めました。津波でした。
 必死に方向転換するも、前方から濁流が押し寄せてきました。車を乗り捨てて走りましたが、あっという間に腰の辺りまで水が上がってきました。
 パニックになりかけた時、誰かが「向かいのビルのドアが開いているから、早く!」と叫んでくれました。その声に助けられました。
 先に避難していた人たちと、励まし合いながらビルの屋上で助けを待ちました。深夜になってから消防隊に救助され、近くの小学校へ。翌日、道端で偶然出会った同志が泊めてくださり、3日目に夫や息子と再会することができました。
 その後、家族で東北文化会館に避難し、改めて被害の大きさを知りました。わが家は、すんでのところで免れましたが、近隣の多くが津波にのまれていたのです。地元の宮城野区内では蒲生、南蒲生、新浜の地域が壊滅的な状況で、胸が締め付けられました。
 1週間後に帰宅し、被災した同志に掛ける言葉も見つからないまま、お見舞いに歩きました。
 当時、会う人会う人、皆が支えにしていたのが「『心の財』だけは絶対に壊されません」との池田先生の励ましでした。
 それは9年が過ぎた今も変わりません。むしろ月日がたつほど、先生の言葉を体現しようとの思いを強くしながら、「心の財」を積む日々を過ごしています。
 たった一人の肉親だった母を亡くしたある婦人部員は、新天地で自治会の役員を引き受け、信頼を広げています。
 震災後に夫を入会に導き、再建した自宅を広布の会場として提供する友もいます。現在は、夫妻で聖教新聞の配達をしています。
 被害が大きかった旧・蒲生地区と旧・栄光地区の友は毎年のように集いを開催し、復興への決意を新たにしてきました。
 震災から5年の2016年3月に開催された東北青年音楽祭に、先生は“「心の財」とは何か”を示すメッセージを寄せてくださいました。そこには「『心の財』とは、何ものにも壊されない、何ものにも負けない、究極の生命の力です」とありました。
 復興へと進む私たち東北家族の一歩一歩が、“生命の力”の証明になることを確信し、感動を禁じ得ませんでした。
 私自身も、縁した人たちに励ましを送る挑戦を続けています。あの日、ビルの屋上で肩を寄せ合った方と交流を重ね、深い友情を築くことができました。
 これからも、希望の絆を結び広げる“創価の人生”を歩んでまいります。

◆〈信仰体験〉ブラボーわが人生こぼれ話   心に錦を 今日も感謝のてんこ盛り

暑中見舞いのはがきが届いた。
ボールペンの丁寧な字の上に
ざるに盛られた夏野菜が
大きく印刷されていた。
スイカ、トウモロコシ、ナス、トマト……
102歳になった感謝の人からだ。
ちょっと電話してみよう。
「絵やからね、食べられへんので気の毒やけど
おいしそうやなあ思うてくれはったら」
優しい気持ちがじんわり伝わる。
「冷やしてから、よばれてください」
粋な言葉に笑い合った。
このはがき
早速、冷蔵庫に入れておこう。

 【滋賀県草津市】手元の辞書で「もったいない」を引いてみた。①そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい。②過分のことで畏おそれ多い。かたじけない――とあった。その言葉を中村ツヤ子さん=支部副婦人部長=がチャーミングな目を細くして使えば、自ずと②の意味になる。(2017年3月21日付。当時掲載できなかった内容を「こぼれ話」として紹介します)
                        ◆◇◆
 老いては子に従えやから。家を建て替えて、長女夫婦と暮らしてます。今は御隠居さまで、ぼーっとしててもご飯が出てくるし、何も言うことないですなあ。
 三女がおはぎを持ってきてくれたんですわ。うれしーて、いすに腰掛けよう思うたら、ドスンとしりもちついて、起きられしません。救急車呼んでもうたら、近所の人が手を合わしはったわ。
 (診断は大腿骨だいたいこつ骨折。当時94歳。リハビリを終え退院したが、検査すると大腸がんがひょっこり見つかり、手術の運びとなったらしい)
 年が年やし、まな板のコイやから、どうないとしはったらええわ、いう気持ちでしたけどな。
 まーほんまに毎日がね、こんなにしてていいんかしらン思うくらいね、元気にさせてもうてます。
 私ね、京都の生まれですやろ。丹後たんごやから、ちりめんどころですわ。白生地きじをね、戦死した兄がくれてましたんや。それを大事に持ってたんです。

 藤色に染めてもうて、広ひろ衿えりをこしらえましてな。帯を締めますから、ピシッとしますわな。白い帯で、おめでたい模様ですわ。せやからね、池田先生にお目にかかれたら、これ着ていこう思うてたんです。
 まさかですわ。いえね、三女が訪中団から帰ってきましてね。昭和56年(1981年)11月です。
 池田先生が滋賀研修道場にいらっしゃったのでね、帰国の報告しに行く言うんで、米原まいばらの駅まで迎えに行きましてな。
 雨降ってたさかい「お父さん早よ」言うて、着替えもせんと車乗ったからねえ。何着てたやろう。普段着です。上はセーター着てたかなあ。かすりのモンペを履いてたのは覚えてますわ。
 研修道場の街灯の下に車止めて、主人(堅物かたぶつのまっさんと呼ばれていた)と待ってたんですわ。でも、どういう流れでそうなったんやろう、私らも先生にお会いさせていただくことになったんです。
 池田先生はいろいろ聞いてくださいました。もー緊張してね、格好のことなんか考えてる余裕なかったですわ。
 「いいお母さんですね。元気でいてくださいね」
 そうです、そうです。それだけは覚えてます。次女が家で題目をずっと送ってくれてたさかい、先生とお会いできたんかも分からんねえ。

 いつ池田先生にお会いしても、恥ずかしくない信心しとかなあきませんな。そない思うて頑張ってきました。
 人生振り返ると、あっという間ですわ。良い日もあれば、悪い日もありました。
 つらい時はあっても、つらさがあったさかい、今があるんや思います。
 眠りを断ってでも題目あげなあかん時も、そらあるやろ。それが人生の思い出になるんと違いますか。私、そう思うんですけど。
 題目をあげてると、自然と涙がこぼれるんです。そうですなあ、この年まで長生きさせてもうて……お母さんにお礼せんなならんねえ。
 私が2歳の時に両親が亡くなったもんで、顔を知らんのです。
 お父さんはハンサムやけど、お母さんはそうでもなかったらしい。でも誰より心がきれいやったて、おばあさん言うてたなあ。
 親から命を頂いて、池田先生から勇気を頂いて、ほんで長生きできたんやと思います。
 藤色の広衿は正月に1回着たぐらいですなあ。けど不思議なもんで、池田先生の思い出がいっぱい詰まってますんや。
 あの日を忘れてやしません。
 粗末な服の私に、池田先生は心の錦にしきを着せてくれはった。私はね、池田先生に包まれて、長生きさせてもうてます。胸にこたえますわ。もったいないことですなあ。

2020年8月 7日 (金)

2020年8月7日(金)の聖教

2020年8月7日(金)の聖教

◆わが友に贈る

 朝に勝とう!
 リズム正しい生活に
 充実と成長がある。
 清々しい勤行・唱題から
 一歩前進の日々を!


◆名字の言 元大関・照ノ富士の復活劇に秘められた師弟のドラマ2020年8月7日

 “史上最大の復活劇”に沸いた大相撲の7月場所。返り入幕の元大関・照ノ富士が5年ぶり2度目の優勝を果たした▼「落ちているときも応援してくれた方々に、恩返しがしたかった」。5年前の大関昇進後、照ノ富士は両膝の負傷や内臓疾患などに苦しんだ。「横綱候補」の呼び声が高かったが、序二段まで番付を落とした▼元大関の幕下以下での現役続行は前例がない。照ノ富士は引退を申し出た。だが、伊勢ケ浜親方は慰留し続けた。「序二段で勝つことは恥ずかしいことじゃない」「まず体を治そう」。弟子を思い、復帰を諦めない師匠の度重なる激励に、“もう一度、新弟子の決意でやり直そう”と決め、心身を徹底して鍛え直した。優勝旗は、審判部長の師匠から受け取った▼逆境は、人間の真価を問う試金石でもある。70年前の8月、池田先生は恩師・戸田先生の事業難の打開に奔走する中、日記にこうつづった。「地に依って倒れた者は、地に依って起つ以外ない。この現状を、再起させれば、最大の活躍の証明となる」▼相撲の勝負は、“立ち合いで決まる”といわれる。勇気を奮い起こし、グッと力を込めて踏み出す大切さは、人生も同じだ。その一歩が、かつてのつまずきも「敗北」ではなく、「勝利の因」へと変えていく。(踊)


◆寸鉄

宗教は人生の背骨である
―牧口先生。青年よ行学
錬磨に挑み我が境涯開け
     ◇
「子にすぎたる財なし」
御書。未来部は皆、後継の
大人材。共に祈り、成長!
     ◇
各地で天気の変化激しく
大雨等に注意。油断せず
早め早めの避難を心掛け
     ◇
都内で交通事故死が3割
増。速度超過等が原因と。
ルール順守し安全運転を
     ◇
1日8千歩で死亡リスク
半減―米研究。感染予防
継続しつつ賢く健康管理


◆きょうの発心 祈祷抄 滋賀総県副婦人部長 山下純子   2020年8月7日

御文
 大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず(祈祷抄、1351ページ・編519ページ)
通解
 大地をさして外れることがあっても、大空をつなぐ者があっても、潮の満ち干がなくなっても、日が西から出ることがあっても、法華経の行者の祈りのかなわないことは絶対にない。

確信の題目で幸福の輪を拡大!
 法華経の行者の祈りは必ずかなうと仰せです。
 物心ついた頃、母はおらず父と祖母と暮らしていました。9歳の時に、祖母と一緒に入会。苦難に動じない祖母の姿から、信心を学びました。
 高等部の時、初めて池田先生にお会いし、“学会の中で生き抜くんだ。頼むよ”との渾身の激励が、生涯の原点に。
 結婚後、自身の体調不良や、経済苦、3人の子育ての不安から、不眠症などに襲われました。“苦境を必ず変えてみせる”との確信の唱題で、全て乗り越えることができました。
 40歳を迎えた頃、思いがけず母との再会を果たし、入会に導くこともできました。その後、短い期間でしたが交流もでき、やがて母は霊山へ旅立ちました。
 先生の滋賀文化会館初訪問から25周年の本年、「皆が前進! 皆が人材!」のテーマを胸に、報恩感謝の心で前進します。


【先生のメッセージ】

◆マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 第16巻

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は第16巻を掲載する。次回の第17巻は21日付2面の予定。

挿絵は内田健一郎。


激励紹介掲載“地涌の菩薩”の使命忘るな

地涌菩薩

 <1972年(昭和47年)1月、山本伸一は、第1回全国大学会総会の会場近くで参加者を激励。大学卒業後、2年間信心から離れていた青年であった>

 「すべてのものには使命がある。花は咲くことを使命とし、太陽は輝き、暖かな光を送ることを使命としている。水は流れ、清め、潤すことが、使命といってよい。
 君も、私も、広宣流布という本然の使命をもって、この世に出現した地涌の菩薩なんだ。その自己の使命を果たさないということは、開花せぬ花であり、輝かぬ太陽のようなものだ。それでは、真の充実や歓喜などあるはずがない。
 仕事に力を注ぎ、職場の第一人者になることは大切です。しかし、なんのための人生かを忘れてはならない。それは、人びとと社会に貢献するためです。この世から不幸を追放し、万人に幸福と平和をもたらす、広宣流布をなしゆくために、私たちの人生はある。
 この広宣流布という根本目的を忘れずに、職場の勝利者となり、立派な家庭を築き、信頼と幸福の実証を示していくことが大事なんです。それが、仏法の力の証明になるからです」
 山口は、盛んに瞬きをし、相槌を打ちながら伸一の話を聞いていた。素直だが、気の弱そうな感じの青年であった。
 「信心を離れて、本当の生命の充実も、歓喜もありません。どんなにお金を稼ごうが、社会的に偉くなろうが、それだけでは、最後に残るのは空しさであり、老いや死に対する不安と恐怖です。生老病死という人間の根本的な苦悩を解決できるのは、仏法しかありません」
 伸一は、なんのための信心かを、山口にわかってほしかったのである。
 (「入魂」の章、15~16ページ)

一切をプラスに転ずる哲学

 <1月、東京・新宿区の記念撮影会で伸一は、婦人たちに語る>

 「皆さんは、“今日は大事な記念撮影会なのに雨になってしまった。残念だ”と思われていることでしょう」(中略)
 「いっさいをよい方向に考え、さらに前へ、前へと、進んでいくことが大事です。
 時には、祈っても、思い通りにならない場合もあるかもしれない。でも、それは、必ず何か意味があるんです。最終的には、それでよかったのだと、心の底から、納得できるものなんです」
 仏法は、価値創造の源泉である。それは、直面するすべての事柄を、喜びに、希望に、感謝に、勝利にと転じていく智慧から始まるといえる。(中略)
 「たとえば、仮に雪が降ったとします。“寒いし、滑りやすいので、いやだな”と思ってしまえば、すべてが苦痛になってしまう。しかし、“めったに見られない雪景色を見ることができる。子どもたちに雪ダルマをつくってやることができる。楽しい思い出になる”ととらえれば、その瞬間から喜びに変わります。
 要は、どんなことがあっても、そこに、何か意味を、喜びを、見いだして、勇んで挑戦していくことが、価値の創造につながるんです。それには、人生の哲学と智慧、そして、生命力が必要になる。実は、そのための信心なんです」
 物事をどうとらえるかが、「哲学」である。一つ一つの事柄を悲観的にみるか、楽観的にみるか。否定的にみるか、肯定的にみるか――で、人の生き方は全く異なってくる。
 仏法で説く、「変毒為薬」「煩悩即菩提」「生死即涅槃」等の原理は、マイナスをプラスに転ずる哲学であり、そこに立脚する限り、行き詰まりはない。
 (「入魂」の章、38~39ページ)

「さあ、仕事を続けよう!」

 <5月、伸一は、イギリスの歴史学者トインビー博士の要請を受け、博士の自宅で対談を開始。伸一は博士の座右の銘を尋ねる>

 博士は即座に答えた。
 「ラテン語で『ラボレムス』。“さあ、仕事を続けよう”という意味の言葉です」
 博士は、この言葉の背景も語ってくれた。
 ――それは、二世紀末から三世紀初頭のローマ皇帝セプティミウス・セウェルスに由来する箴言である。彼は、遠征先のブリタニア(イギリス南部)で病に倒れた。重病である。皇帝は死期の近いことを悟った。皇帝は、毎日、彼の率いる軍隊に、モットーを与えることを常としていた。そして、まさに死なんとする日も、自らの任務を遂行した。その時、彼が全軍に与えたモットーが「ラボレムス!」(さあ、仕事を続けよう)であった。
 伸一は感嘆した。
 「すばらしいモットーです。短い言葉のなかに責任感や持続の精神が凝結しています。博士の生き方そのもののように思えます」
 彼には、最後の最後まで「ラボレムス!」と叫んだ皇帝の姿と、八十三歳にして、今なお、人類の未来のために働き続けようとする博士の生き方が、完全に重なり合っているように思えた。
 弛まざる前進のなかにこそ、人間性の勝利がある。戦い続けることこそが生の証なのだ。
 伸一は重ねて尋ねた。
 「今、最もなさりたいことは何でしょうか」
 博士は力強く答えた。
 「私とあなたが、今、この部屋でしていることです。この対話が意味するものは、人類全体を一つの家族として結束させる努力です。人類が生存を続けるためには、全人類が単一の大家族になっていかねばならないと、私は信じるからです」
 (「対話」の章、177~179ページ)

広布の苦労はすべて福運に

 <7月、山形の友との記念撮影会に臨んだ伸一は、青年時代に勤務していた大東商工近くの市谷食堂で働いていた婦人と再会。入会し、学会のリーダーとして奔走する彼女を励ます>

 「中心者というのは、日々、みんなのため、広布のために、個人指導に、折伏にと、走り回らなければならない。身も心も、休まる暇なんかないでしょう。しかし、皆を幸福にする使命と責任があるだけに、どんなに大変であっても、投げ出すわけにはいかない。でも、あえて、そこに挑んでおられるから、尊く、偉大なんです。そのなかにこそ、真実の菩薩の、また、仏の生命の輝きがあるんです。(中略)
 同じ学会活動をしていても、自由な立場で、気ままに動いている人もいるでしょう。そうした人を見て“いいな”と思うこともあるかもしれないが、苦労した分だけ、すべて自らの功徳、福運になる。それが、仏法の因果の理法であり、そのことを確信できるかどうかです」
 仏法は、生命の因果の法則を説き明かし、幸福への智慧と力が、すべて自分自身の生命にあることを教えている。(中略)
 ゆえに、学会員は(中略)皆が「冥の照覧」を、そして「陰徳あれば陽報あり」(御書1178ページ)の御文を確信し、わが信念としてきたのだ。
 だから、世間的な利害や損得をかなぐり捨て、広宣流布のため、仏法のために、勇んで苦労を買って出た。信心のことで、楽をしようとか、よい思いをしようなどとは、決して考えなかった。
 皆が、財もいらない、地位もいらない、名誉もいらないとの思いで、ただ、ただ、広宣流布のために走り抜いてきたのである。
 そこにこそ、創価学会の強さがあり、清らかさがあり、正義がある。
 (「羽ばたき」の章、243~245ページ)

為薬の仏法
変毒為薬

「昭和47年7月豪雨」で被害のあった秋田の友を励ます池田先生(1972年7月、秋田市) 
 
<1972年(昭和47年)の7月は大雨が続き、「昭和47年7月豪雨」と呼ばれ、全国各地で大きな被害が出た。「羽ばたき」の章には、秋田を訪れた山本伸一が、救援対策の手を打ちながら、同志を励ます場面が描かれている>
     
 「今回、水害に遭われた方は、本当にお気の毒です。心から、お見舞い申し上げます。
 大事なことは、ここから、どうしていくかです。落胆して、自暴自棄になったり、諦めてしまうのか。それとも、“負けるものか”“今こそ信心の力を証明するのだ”と、敢然と立ち上がるのかです。その一念で幸・不幸は大きく分かれます。
 長い人生には、災害だけでなく、倒産、失業、病気、事故、愛する人の死など、さまざまな窮地に立つことがある。順調なだけの人生などありえません。むしろ、試練と苦難の明け暮れこそが人生であり、それが生きるということであるといっても、決して過言ではない。
 では、どうすれば、苦難に負けずに、人生の真の勝利を飾れるのか。
 仏法には『変毒為薬』つまり『毒を変じて薬と為す』と説かれているんです。信心によって、どんな最悪な事態も、功徳、幸福へと転じていけることを示した原理です。これを大確信することです。
 この原理は、見方を変えれば、成仏、幸福という『薬』を得るには、苦悩という『毒』を克服しなければならないことを示しています。いわば、苦悩は、幸福の花を咲かせゆく種子なんです。だから、苦難を恐れてはなりません。敢然と立ち向かっていくことです。
 私たちは、仏の生命を具え、末法の衆生を救済するために出現した、地涌の菩薩です。
 その私たちが、行き詰まるわけがないではありませんか。人は、窮地に陥ったから不幸なのではない。絶望し、悲観することによって不幸になるんです」(中略)
 「もう一つ大事なことは、自分が今、窮地に陥り、苦悩しているのはなんのためかという、深い意味を知ることです。もし、災害に遭った同志の皆さんが、堂々と再起していくことができれば、変毒為薬の原理を明らかにし、仏法の偉大さを社会に示すことができる。実は、そのための苦難なんです。
 どうか被災した方々にこうお伝えください。
 『断じて苦難に負けないでください。必ず乗り越え、勝ち越えてください。私は真剣に題目を送り続けております』と」
 伸一は必死であった。
 (251~252ページ)


【聖教ニュース】

◆広島の原爆投下75年 女性平和委員会と青年部が被爆体験を聞く会  2020年8月7日
 各家庭で全ての犠牲者を追善 

 広島に人類史上初めて原爆が投下され、75年となった6日、広島をはじめ全国の各家庭で、投下時刻の午前8時15分を中心に、全ての核兵器と核実験の犠牲者を追善し、核廃絶を誓う祈りがささげられた。
 広島では同日夜、婦人部の広島女性平和委員会と青年部がそれぞれ、“被爆体験を聞く会”を開催し、オンラインで発信した。

婦人部の集いで講演した上土井さん。広島女性平和委員会の渡辺委員長、桜尾総広島婦人部長があいさつした
青年部の集いで75年前の被爆体験を語る松浦さん。広島青年部の代表による原爆被害の研究発表も行われた

 広島女性平和委員会が主催する集いでは、6歳で被爆した上土井多子さんが証言した。
 上土井さんは、直接の被爆は免れたものの、母と共に負傷者を介抱して二次被爆した。大八車いっぱいに積まれた遺体が川の中州に投げるように置かれ、焼かれた光景と臭いが忘れられないという。
 長く胸にしまい込んでいたが、5年前に初めて被爆体験を人に話すようになった。自宅の庭で開く毎年恒例の「そうめん流し」の集いでも、近隣の友人や海外の青年を交え、平和への思いを伝えている。
 最後に上土井さんは、「核兵器廃絶に向けた“ヒロシマの心”を世界中に広げていってほしい」と望んだ。
 青年部主催の集いでは、松浦悦子さんが証言した。
 原爆が投下された3日後、疎開先から市内の自宅に戻り、被爆した松浦さん。体に対する影響への不安や被爆者に向けられる差別に苦しみ続けてきた体験を語り、「皆さんの手で核兵器のない世界を築いてほしい」と呼び掛けた。

核兵器廃絶は人類の責務

広島青年部の代表が原爆死没者慰霊碑に献花し、犠牲者の冥福を祈念した(7月31日、広島市の平和記念公園で)

広島青年部の代表が原爆死没者慰霊碑に献花し、犠牲者の冥福を祈念した(7月31日、広島市の平和記念公園で)

 被爆75年の本年、広島創価学会は被爆体験の継承と核兵器廃絶を目指すさまざまな取り組みを推進している。
 7月31日には、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に、約40年にわたって聞き取り・収録を行ってきた被爆証言の映像と音声、合わせて164点を寄贈。
 広島青年部の代表は同日、不戦の誓いを込めて、広島市にある平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花した。
 中国方面学生部は25回目となる「学生平和意識調査」を行った。
 戦争・被爆証言集の発刊も、長崎や沖縄と共に今秋に予定。核兵器廃絶という責務を果たすその日まで、友は「ヒロシマの声」を世界に届け続けていく。

証言会がSOKAnetに追加
 7月に行われた青年部の第1回オンライン証言会(沖縄)の模様が、学会公式ホームページ「SOKAnet」の特設ページに追加された。(特設ページはこちら)


◆希望の太陽・アメリカ婦人部 本部長会で「拡大」へ出発  2020年8月7日

「青年6000人の陣列構築」へ、オンラインでの本部長会から出発を切ったアメリカ婦人部のリーダー

「青年6000人の陣列構築」へ、オンラインでの本部長会から出発を切ったアメリカ婦人部のリーダー

 アメリカSGI(創価学会インタナショナル)婦人部の本部長会が1日、ビデオ会議システムを利用して開催され、全米の代表360人が、笠貫SGI女性部長、前多同副女性部長と共に出席した。
 これには池田大作先生が万感のメッセージを贈り、コロナ禍が続く中で、聡明に励ましの連帯を広げる友を心から称賛。世界広布の先頭を進む中での全ての労苦は、必ずや「未来までの物語」となり、無量無辺の大福徳になると述べ、桜梅桃李にして異体同心の前進をと呼び掛けた。
 1960年10月、先生は、世界平和への旅の第一歩をアメリカにしるした。以来、広布開拓の同志に渾身の激励を送り、師弟の黄金の歴史を刻んできた。
 初訪米から60周年の本年、同国の友は、各部一体で新たな「青年6000人の陣列構築」を推進。婦人部の友も、次代を担う若人への対話に挑戦してきた。各部の団結により、現在、全土で3000人を超える青年世代の友人が唱題に励む。
 先生の初訪問60周年を記念する「10・2」、学会創立90周年の「11・18」へ、さらなる拡大を約し合う集いでは、レスリー婦人部長が、弘教への決意を胸に、自身と同志の勝利で、師恩に報いたいと訴えた。
 笠貫SGI女性部長は、コロナ禍の中で、「希望の太陽」となって奮闘してきた友をたたえつつ、後継の青年を大切に育みながら、池田先生の生命尊厳と平和の哲学を大きく広げようと励ました。


◆スペイン・アルカラ大学 「池田研究所ジャーナル」が創刊   2020年8月7日

 スペイン・アルカラ大学「池田大作『教育と発達』共同研究所」(アレハンドロ・イボラ所長)の定期刊行物「池田研究所ジャーナル」が、マドリードのシビリサシオン・グロバル社から創刊された。
 同研究所の活動を収録する同書は、年2回の発刊の予定で、創価教育の哲学や池田先生の思想を紹介していく。
 創刊号には、昨年6月に行われた同研究所開所式の模様、12月のシンポジウムでの講演内容などが掲載されている。


【特集記事・信仰体験など】

◆青年想  Essay from Youth 7 子どもへのまなざし 総合未来部長 大宮将之 若き生命に学ぶ「共育」の夏を  

動物たちの会議
 ドイツの作家エーリヒ・ケストナーの作品に、『動物会議』という物語がある。

 戦争を一向にやめない大人社会。それを見た動物たちは、子どもたちがかわいそうで仕方がない。世界中の動物が集まって会議を開く。目的は「子どもたちのために」。

 動物たちは知恵を尽くして大人たちに働き掛けるが、うまくいかない。熟慮の末、最後の手段に出る。ある日、子どもたちがいっぺんに姿を消した。動物たちが人間の子を保護し、隠したのである。子どもたちは優しい動物たちと一緒に遊べて大喜び。一方の大人は不安で夜も眠れない。ついに大人たちは観念し、動物たちが提案した平和条約を承諾。子どもたちとの再会を果たす――という話だ。

 もしも今、世界中の動物たちが集まったら、議題に「コロナ禍」も加えるのではないだろうか。「子どもたちのために、大人は何をすべきか」――と。

 作中では、人間の大人たちと動物たちの「子どもと向き合う姿勢」が、対照的に描かれている。「子どものために」と口にする点では共通しているが、子どもの声に耳を傾けようという姿勢が大人には見られない。一方の動物たちは、子どもと一緒に遊びつつ、何か分からないことがあれば「子どもたちにきくといいよ!」と語り合う。

 子どもの話を「よく聞く」。これが言うほど簡単なことではない。いわんやコロナ禍という“非常時”においてをや、である。

きちんと聞いて
 新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、日本各地の小中学校や高校、特別支援学校で休校措置が広がった本年3月。子ども支援専門の国際NGO「セーブ・ザ・チルドレン」が、全国の子どもたちに実施したアンケートがある。

 1422件の回答の中には、自分たちに関わる重要なことであるにもかかわらず、大人が説明してくれないことへの不満、生活や行動を勝手に決められてしまうことへの憤いきどおりの声が、少なくなかった。ある高校1年生は、こう答えている。「大人の都合で子供の負担が際立って大きい。大人はずるい。子供だからと言わないで、きちんと話を、きいてほしい」

 私も一人の親として、「緊急事態宣言」発令中の日々を反省とともに思い出す。妻がエッセンシャルワーカー(社会の維持に不可欠な仕事の従事者)のため、私は小学4年の長女と4歳の長男を見ながら、聖教新聞の記者として在宅勤務を続けた。

 原稿の締め切りが迫っていても、この子らはお構いなし。子どもには子どもの都合がある。外で遊びたい。友達と会いたい。いつまで我慢すればいいの? コロナにかかったら、どうなるの?――その思いに、私はどこまで寄り添えていただろうか。

 今になって、当時の私のことを、長女に“採点”してもらった。笑いながら「40点」という。一応、確認したが「100点満点中」だそうだ。

双方向の関係性
 私が未来部の担当者になって以来、胸に刻んできた池田先生のご指導がある。

 「大切なことは、若き生命を“一個の人格”として最大に尊重していくことである。人づくりは真剣勝負だ。子どもの胸中には、立派な“大人”がいる。その“大人”に向かって語りかけていくことであろう。『こんなことはわからないだろう』『これくらいでいいだろう』という見下した対応は、決してあってはなるまい」(「随筆 我らの勝利の大道」<後継の希望・未来部>)

 子どもを最大に尊重すること――それは「万人に尊極の仏の生命を見いだす」仏法の哲理と響き合う。

 ここで、御書を拝しながら日蓮大聖人の“子ども観”に学びたい。

 「父母の成仏即すなわち子の成仏なり、子の成仏・即ち父母の成仏なり」(御書813ページ)――ここには“親から子へ”という方向性だけでなく、“子から親へ”という方向性も示されている。親が子を幸せにするという一方通行の関係ではなく、子の成仏が親をも成仏させるという「双方向性」が見て取れよう。

 また大聖人は、子を授かって間もない門下に「現世には跡をつぐべき孝こう子しなり後生には又導かれて仏にならせ給うべし」(同1123ページ)とも仰せである。この子は、現世には親の跡を継ぐ親孝行の子となり、来世では親を成仏へと導いてくれる存在である――と。

 子どもを“保護すべき対象”として一面的に捉えるのではない。大人をも導く「尊厳を持った主体」として見るのである。ならば「子どもの話を聞くこと」も、上から目線の「聞いてあげる」といった態度であってはなるまい。

 未来部育成に長年、携わる教育本部の方が語っていたことがある。「子どもたちの声に耳を傾けていると、大人が見落としてしまいがちな視点や、深く考えてはこなかった大切な問題に気付かされることが、少なくありません。だから、私たち大人こそが、子どもたちに学ばなければ」

 「教育」は「共育」といわれる。大人も子どもも互いに学び、共に育つところに、教育の本義があるとの意味だ。

 「よく聞くこと」とは、若者たちの“言葉による表現”から“その奥にある精神の心音”をよく聞き、引き出していくことだと池田先生は訴える。そのためには、大人の側に「それだけのキャパシティー(容量)がなければならない。それは、大海のような慈愛の深みがあってこそ、可能となる」(小説『新・人間革命』第24巻「人間教育」の章)と。

 ここでいう「容量」とは、「境涯」に置き換えることができよう。子どもたちの話を「よく聞く」ことができる自分自身に成長することは、「境涯革命」「人間革命」と同義であると、私は思う。

支え励ます絆で
 未来部員とやりとりする中で、保護者の方々から話を伺うことも多い。コロナ禍の課題と向き合いながら「ファミリー座談会を通して、子どもの思いに耳を傾けるようになりました」等の声をお聞きするたび、合掌する思いだ。「婦人部の先輩が私の悩みを電話でじっくり聞いてくださり、心が軽くなりました。おかげで私も、子どもと笑顔で向き合えるようになったんです」と語る方もいた。

 全国の未来部担当者の皆さまにも、感謝は尽きない。電話や手紙、SNSなどを通じて未来部員とつながり、励ましを送り続けてくださっている。学会には、世代や立場を超え、子どもたちを支え励ますネットワークが日本中、世界中にある。

 この夏は私自身、未来部員の声を「よく聞く」ことに一段と注力したい。人と人の友情も、一国と一国の交流も、全て「対話」から始まる。その第一歩は、相手の話を「よく聞く」ことにほかならない。子どもにとって「大人が真剣に耳を傾けてくれた」思い出は、「対話の姿勢」を経験的に学ぶことにも通じよう。

 コロナ禍における私たち大人の挑戦は、未来の平和を創る「対話の担い手」を育てていくことにも、つながるはずだ。

 

2020年8月 6日 (木)

2020年8月6日(木)の聖教

2020年8月6日(木)の聖教

◆わが友に贈る

 自分の心が変われば
 日々の行動が変わり
 環境をも変えていける。
 理想の世界を創るのも
 全ては一人の変革から!


◆名字の言 被爆した女性に希望の灯をともしたアオギリの木  2020年8月6日

 「75年は草木も生えぬ」。広島は終戦後、そう言われた。爆心地から1・3キロほど離れた広島逓信局の中庭で被爆したアオギリは、枯れ木同然の状態に。ところが翌年、新たな芽を出した▼この逓信局に勤務していた故・沼田鈴子さんは、被爆で左足を失った。人生に絶望した彼女に、希望の灯をともしたのがアオギリだった。焼け焦げた幹から伸びる芽が、生きることを呼び掛けているように思えた▼「この命がある限り、私は未来を生きる若い人たちのために、核兵器の脅威を語り継いでいく」。生前、こう語っていた沼田さんは、21カ国で原爆の悲惨さを訴えた。彼女に勇気を与えたアオギリは今も、広島の平和記念公園で、静かに平和の尊さを語り続けている▼今、被爆者の平均年齢は83歳を超える。その体験の継承は私たちの責務だ。広島の青年・未来部では、被爆体験の聞き取りを実施してきた。ある未来部員は「今の生活は、75年前からつながっていると感じました。過去の戦争を“自分ごと”として考えていきたい」と▼広島で被爆した詩人・原民喜は詠んだ。「ヒロシマのデルタに/青葉したたれ」。次世代へ記憶をつなぎ、核廃絶に粘り強く挑み続ける――その戦いが、核兵器によって人生を奪われた方々の思いに応えることになる。(子)


◆寸鉄

広島の原爆忌75年。“核兵
器は絶対悪”。戸田先生の
信念の叫びを若人が継承
     ◇
信越師弟誓願の日。勇み
希望と励ましの連帯拡大
我が人間革命の歴史綴れ
     ◇
東北の歌「青葉の誓い」
発表の日。福光の凱歌を
共々に。題目第一で前進
     ◇
コンビニでレジ袋「辞退」
が7割超。有料化で。プラ
スチックごみ削減さらに
     ◇
詐欺等の被害、上半期で
128億円と。法務省等騙る
新しい手口も。警戒強く


◆社説 2020・8・6 語り継ぐ“被爆75年の夏”  核廃絶の潮流を大きな流れに

 きょう6日は広島の、そして9日には長崎の「原爆の日」を迎える。  
 「あの日」から75年。被爆者の高齢化は年を追うごとに進み、平均年齢は83・31歳になった(7月1日時点)。中国新聞社が全国の被爆者団体を対象に実施したアンケートでは、4割近い団体が、被爆80年となる2025年まで活動を継続できないと回答。理由(複数回答)として、97・4%が会員の高齢化を、74・4%が後継者不足を挙げた。まさに、被爆体験の継承は時間との戦いであり、待ったなしである。 
 池田先生は本年1月の「SGIの日」記念提言で「核兵器禁止条約の普遍性を高めるためには、『人間としての実感』に根差した思いを多くの人々の間で分かち合うことが、重要な意味を持ってくる」と訴えた。被爆者の苦しみ、祈り、願い――それらを次世代に伝え、後継の人材を育むことが、核廃絶への潮流をさらに大きく広げゆく鍵となる。  
 創価学会は一貫して被爆証言の継承に取り組んできた。本年も、広島と長崎で、未来部や青年部が被爆体験の聞き取りを実施した。
 今回初めて証言した90歳の女性がいる。彼女は現在の広島市南区で被爆。焼けただれた皮膚をぶら下げながら歩く人々の“地獄の行列”を見て、恐怖で震えた。これまで語らなかったのは、「どう表現しても、あの惨状は表現し尽くせない」との思いから。それでも、“この苦しみを二度と誰にも経験させないために、今、語り残さなければ”と、証言を決めた。これらの証言は、今秋、被爆証言集として発刊が予定されている。  
 また学会は、半世紀以上にわたる聞き取り運動で収録された映像や音声の証言資料を約200点、広島・長崎両県の国立原爆死没者追悼平和祈念館に寄贈した。  
 さらに、広島では第9回「福山空襲・被爆体験を聞く会」、オンラインによる第17回「被爆体験を聞く会」を開催。長崎でも「ピース・フォーラム2020」をオンラインで実施するなど、核廃絶の機運を高める取り組みを重ねていく。
 17年に国連で採択された核兵器禁止条約は、7月15日にボツワナが40番目の批准を。発効に必要な50カ国・地域へ、残り10カ国・地域となった。  
 池田先生は、被爆75年の本年のうちに「何としても核兵器禁止条約の発効を実現させたい」「条約の発効こそが、原水爆禁止宣言で訴えられた、核兵器を容認する思想の『奥に隠されているところの爪』をもぎ取るための不可欠の基盤になる」と。「核兵器は絶対悪」との思想を確固たる時代精神に高めるべく、強く誓い、一歩を踏み出す夏にしていきたい。


◆きょうの発心 生死一大事血脈抄 福岡・筑豊総県副総県長 深見強2020年8月6日

御文
 相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり(生死一大事血脈抄、1338ページ・編402ページ)
通解
 強く心して強盛の大信力を出し、南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念しなさい。生死一大事の血脈を、これよりほかに決して求めてはならない。煩悩即菩提・生死即涅槃とは、このことである。

唱題で一切の宿命を打開!
 御本尊を信じ抜いて唱題していく信心にこそ、生死一大事の血脈が流れ通うと仰せです。
 19歳の時に、小説『人間革命』に感動して入会。学生部の時、後に「渋谷兄弟会」へと発展する「渋谷2・20グループ」の会合に参加。池田先生は“「題目」は出発であり「目的」”“一騎当千の師子に”との指針を示してくださいました。
 地元に帰り、男子部で活動していた1985年(昭和60年)2月24日、郷里の筑豊で先生をお迎えしたことが生涯の原点です。
 入会から50年。子どもを生後20日で亡くすなど、苦悩にあえいだこともありましたが、徹底して題目を唱え、宿命転換を果たしてきました。
 学会創立100周年の2030年を目指し、青春の誓いである「題目闘争」を貫き、地域広布と世界広布にまい進する決心です。


【聖教ニュース】

◆〈第3代会長就任60周年記念 師弟凱歌の記憶〉 特別編 民衆勝利の大叙事詩
 小説「新・人間革命」起稿(1993年)脱稿(2018年)の日
 8・6広島「原爆の日」に書いた冒頭の一節
 「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない」

 きょう8月6日は、広島「原爆の日」。原子爆弾が史上初めて実際に使用され、75年となる。池田大作先生は1993年のこの日、小説『新・人間革命』を起稿した。以来、世界に対話の波を起こし、平和建設への「弟子の道」を書き記して25年。2018年の同じ8月6日、全30巻に及んだ民衆勝利の大叙事詩を書き終えた。『人間革命』執筆開始からは、世紀をまたいで54年。その壮絶なペンの闘争を「師弟凱歌の記憶」特別編としてたどる。
 ――この日から、恒久平和建設への新しき鐘が鳴り渡った。
 ――この日から、金色燦たる創価の師弟の新しき大道が開かれていった。
 ――この日から、池田先生の、命を削っての新しき激闘の歴史が始まった。
 1993年8月6日。先生は、多くの青年と共に、長野研修道場に遠来の賓客を迎えた。
 インド国立ガンジー記念館館長(当時)のN・ラダクリシュナン博士である。“独立の父”マハトマ・ガンジーの孫弟子に当たる著名な平和活動家だ。翌日には、広島市内での講演会を控えていた。
 原子爆弾が広島に投下されてから48年となったこの日。博士はガンジーが全ての暴力を否定し、“「魂の力」は原子爆弾よりも強い”と話していたことに触れ、語った。「この、誰もが持つ『魂の力』を引き出し、平和を生み出していく。これこそ池田先生が進めておられる運動です」
 会見で先生は、一枚の原稿用紙を手に取り、博士に紹介した。
 そこにはこう記されていた。「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」
 この日に書かれたばかりの『新・人間革命』の冒頭部分だった。
 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」から始まる小説『人間革命』と、対をなす書き出しである。

2020年8月6日恩師・戸田先生の精神を伝えゆくため―「後継の“弟子の道”を書かねばならぬ」起稿の日に語り合ったインドN・ラダクリシュナン博士 「原爆よりも強い“魂の力”を引き出し平和を生み出す。これが池田先生の運動です」

小説『新・人間革命』執筆開始の日、インドのN・ラダクリシュナン博士と会見。池田先生は、“人生は戦いです。「精神闘争」が人類を高めてくれます”と。人類の進歩に果たす宗教の役割などを巡って縦横に語り合った(1993年8月6日、長野研修道場で)

 インドや日本等で出会いを重ね、池田先生の著作を読み込んできた博士は、今も長野での語らいを鮮明に記憶するという。「原稿を見せていただいた時、私が率直に思ったのは、“池田先生は師匠の夢の実現のために生きている指導者だ”ということでした」

師との“最後の夏”
 なぜこの日、この地で小説『新・人間革命』の筆を起こしたのか――。
 池田先生は1957年8月、恩師・戸田城聖先生に呼ばれ、長野・軽井沢へ急行。共に浅間山の鬼押出に足を運び、師弟の語らいのひとときを過ごした。
 大噴火で流れ出た溶岩が織り成す奇勝を眺めつつ、師は“大自然の現象も、仏法の法理に照らせば明らかになるものだ”等と縦横に語った。「ほかに、何か聞きたいことはないかね」
 池田先生は戦争の脅威、中でも原水爆こそ現代の最大の脅威ではないかと尋ねた。東西冷戦の中、世界が覇を競うように核実験を繰り返していた。
 「そうだ。そうなんだよ。私も、最近、この問題について、考え続けているんだよ」「なんとしても、原水爆の廃絶への道を開かねばならぬ。そこに創価学会の使命もある」
 恩師は逝去の8カ月前。体は衰弱しても、その心には、核軍拡という人類滅亡への道を止め、恒久平和を実現するとの闘魂が赤々と燃えていた。そのためには、断じて世界広布を成し遂げねばならない――。
 池田先生はこの夏に、師の生涯と精神を正しく伝える小説『人間革命』の執筆を固く誓った。それが全12巻で完結をみた後、続編となる『新・人間革命』をつづるにいたった理由を「はじめに」で述べている。
 「続編として、『新・人間革命』の執筆を思いたったのは、先生亡き後の広宣流布の世界への広がりこそが、恩師の本当の偉大さの証明になると考えたからである」「恩師の精神を未来永遠に伝えゆくには、後継の『弟子の道』を書き残さなければならない」

壮絶な執筆闘争

「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」――小説『新・人間革命』の書き出しが記された原稿

 「はじめに」は、こう続いている。
 「『新・人間革命』は、完結までに三十巻を予定している。その執筆は、限りある命の時間との、壮絶な闘争となるにちがいない」
 『人間革命』は、多忙を極める中での執筆であり、完結までに28年余を要した。先生は、新聞小説を続ける日々がどんなに過酷な道のりかを誰よりも熟知していた。
 “続編”の連載は、初代会長・牧口常三郎先生の五十回忌に当たる1993年11月18日付の聖教新聞からスタートした。山本伸一が師の遺志を継いで、アメリカ、カナダ、ブラジルへと、世界広宣流布の第一歩を踏み出す場面から始まった。
 小説の中の伸一は、32歳の青年会長。
 一方、この執筆開始時、池田先生は65歳。広布の水かさも、平和・文化・教育運動の厚みも大きく増していた。先生は、若き山本伸一に勝る勢いで、平和への行動を続けていた。
 例えば――。
 『新・人間革命』第1巻の「開拓者」の章が連載中の94年5月から6月、ロシア、欧州を歴訪。
 モスクワ大学での講演、ゴルバチョフ元大統領との会見、イタリア・ボローニャ大学での講演、フィレンツェでの「日本美術の名宝展」、英チャールズ皇太子との会見、グラスゴー大学名誉博士号授与式等に臨んでいる。その間、第18回SGI総会に出席するなど、寸暇を惜しんで同志を激励した。その中で、連載は続いたのである。
 海外への平和旅に備えての、事前の原稿執筆、ゲラ刷りのチェックなど、どれほどの辛労であったか――想像に余りある。

テープに吹き込み
 広宣流布の指揮をとりながら、小説の新聞連載を続けることが、いかに至難であるか。小説『人間革命』執筆の際には、激しい疲れと発熱のため、口述をテープに吹き込んで原稿を作ったこともあった。
 その場面が『新・人間革命』第14巻「烈風」の章に描かれている。
 同章で中心的に記されているのは、69年12月の関西・中部指導。肺炎による高熱を押して訪れた和歌山の会合では、「武田節」を舞って参加者を鼓舞した。
 その先生の姿は、今も関西をはじめ多くの同志の胸に焼き付いている。
 学会はこの時、悪意の中傷が発端となった、いわゆる「言論問題」の嵐の中にいた。
 年が明けても、先生は激しい疲労と熱が続く中で、広布への力走を止めることはなかった。しかし、どうしてもペンを握ることが困難になった。先生は、執務室に運び込んだテープレコーダーに向かい、口述での“執筆”を行った。
 「彼は、口述を始めると、すぐに息が苦しくなった。痰が喉に絡み、咳が止まらなくなることも少なくなかった。額には、脂汗が滲んだ」(「烈風」の章)
 先生は一切の障魔の矢面に立ち、仏と魔との熾烈な戦いの指揮をとりながら、全同志に勇気と希望を送り続けたのである。

香峯子夫人の支え
 第20巻「友誼の道」の章には1974年5月の初訪中の模様が描かれている。
 国交正常化から2年弱。両国友好に大きく貢献した創価学会会長の初訪問は注目を集め、訪中記の執筆依頼が重なった。中国の実像を伝えようと、先生はこれらを引き受け、訪中の終盤から、時間を見つけては筆を走らせていたという。
 むろん、当時の先生には小説『人間革命』の締め切りも待っていた。
 帰国直後に記された第9巻「発端」26の原稿の欄外には、「六月二十五日。会長より口述、筆記する。香峯子」との書き込みがある。6月16日の帰国から、9日後の原稿である。
 また、「少々身体が疲れているので女房に口述筆記をしてもらいました」と、欄外に書かれた原稿も残されている。
 卑劣な謀略による第1次宗門事件の渦中にあっても、宗門僧らの批判を覚悟で、「苦労している同志に勇気を送りたい」と、『人間革命』第11巻の連載を開始している。この時も、体調が優れず、記者への口述で連載を重ねた。

永遠に指揮をとる
 その苦節の歳月を経て始めた『新・人間革命』の執筆である。連載期間中、長期の休載はなかった。むしろ、章と章の間の短い休載期間を埋めるように、1998年1月からは、随筆「新・人間革命」の掲載が始まった。
 第1回は、新年号に続くその年の最初の新聞である1月4日付。タイトルは「日に日に新たに」。若き日の日記に記した、10歳から60歳までの10年ごとの人生の節目と目標を述懐し、こうつづった。
 「ここに、六十歳以降の、わが人生の歩みと推測を記せば、たとえば、次の如くなる哉。
 七十歳まで……新しき人間主義の哲理を確立
 八十歳まで……世界広布の基盤完成なる哉
 このあとは、妙法に説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮をとることを決意する」
 当時の先生は70歳。
 『新・人間革命』完結への歩みは、そこからさらに20年間続いていく。

終わりなき師弟旅
 『新・人間革命』の起稿から四半世紀を経た2018年、池田先生は、執筆開始と同じ8月6日、長野の地で執筆を終えた。そして新聞連載は、恩師の「原水爆禁止宣言」の発表の日となる9月8日付で完結を迎えた。前作の『人間革命』執筆開始から数えて、実に54年。連載回数は『人間革命』1509回と『新・人間革命』6469回を合わせて、7978回に上り、日本の新聞小説史上、最長の金字塔となった。
 現在では『新・人間革命』だけでも13言語に翻訳され、世界中の同志が胸中で師弟の対話を重ねつつ、日々、自身の人間革命に挑んでいる。
 池田先生は、『新・人間革命』の「あとがき」に記した。「完結を新しい出発として、創価の同志が『山本伸一』として立ち、友の幸福のために走り、間断なき不屈の行動をもって、自身の輝ける『人間革命』の歴史を綴られんことを、心から念願している」
 「地球上から悲惨の二字をなくしたい」と願った戸田先生。その偉業を世界に宣揚し、「戦争の世紀」を「平和の世紀」へ転じゆく大長征を続けてきた池田先生。その不二の師弟に続き、生命尊厳の世界の建設へ、恒久平和の世紀の創造へ、出発する決意を、広島「原爆の日」75年のきょう、新たにしたい。


◆高校野球西東京大会 創価ベスト4に拍手  2020年8月6日

一丸で戦った創価。六回表、6番・石田(右手前)の本塁打に、ベンチが沸き上がる(ダイワハウススタジアム八王子で)

一丸で戦った創価。六回表、6番・石田(右手前)の本塁打に、ベンチが沸き上がる(ダイワハウススタジアム八王子で)

 ◇西東京準決勝

創価             
   00002210―5  
   30101205×―12  
東海大菅生          
(8回コールド)       

 夏季東西東京都高校野球大会の西東京大会・準決勝が5日、ダイワハウススタジアム八王子で行われ、創価高校が東海大学菅生高校と対戦。5対12(8回コールド)で敗れたがベスト4に輝いた。
 先行された創価は五回に2点、六回には絶好調の6番・石田(3年)の本塁打などで2点、七回にも1点を挙げ、負けじ魂の追い上げを見せた。大会屈指の右腕・森畑(同)は先発の左腕・石坂(同)の後、二回から救援。最後まで猛打の相手打線に立ち向かった。

八回裏、マウンドに集まる創価の内野陣。エース・森畑(3年)を中心に最後まで戦い抜いた(同)

八回裏、マウンドに集まる創価の内野陣。エース・森畑(3年)を中心に最後まで戦い抜いた(同)

 新型コロナウイルスの感染拡大のため、夏の甲子園が中止となる中、「何のため」を問い続け、最後まで戦い抜いた創価ナイン。河合主将(同)は「支えてくれる方がいて野球ができることを実感しました」と。
 片桐監督は選手をたたえ、「創立者をはじめ、応援してくださった方々に感謝します」と語った。

 

◆アメリカ・核時代平和財団の論文集に池田先生の寄稿が掲載   2020年8月6日

池田先生の寄稿が掲載された核時代平和財団の論文集㊨と、同論文集の内容が転載された英バートランド・ラッセル平和財団発刊の学術誌

 核兵器廃絶に取り組む国際NGO(非政府組織)であるアメリカの「核時代平和財団」が発刊した論文集に、池田先生の寄稿が掲載された。
 論文集は、同財団を創設したデイビッド・クリーガー氏の会長退任(昨年)を記念したもの。氏と池田先生は1997年の初会見以来、3度にわたって語らいを重ね、対談集『希望の選択』を発刊している。
 先生の寄稿は、同財団新会長に就いたリック・ウェイマン氏らによる序文などに続いて掲載された。
 その中で先生は、核兵器禁止条約の採択の一方、米ロの中距離核戦力(INF)全廃条約の失効など、核兵器を巡るさまざまな局面が生まれていることに触れながら、「どのような状況になろうとも、“核戦争に勝者はない”ことは明白であり、私たちは、そうした平和への声を、一段と強く、大きく世界中に広げていかねばなりません」と訴えている。
 さらに、人類の未来の限りない希望であり勇気の源泉である青年が、人々の心に時代変革の思いを呼び起こし、強め合う力を発揮することで、核なき世界へ民衆をリードし、潮流を起こすことを望んだ。
 また、クリーガー氏の長年のリーダーシップをたたえつつ、氏が学会青年部の活動にエールを送ってきたことに感謝。さらなる青年の連帯の構築に、今後も共に取り組んでいきたいと述べている。
 
 論文集の内容は、イギリスのバートランド・ラッセル平和財団が発刊する学術誌にも転載された。


【特集記事・信仰体験など】

◆〈心に刻む珠玉の言葉〉 「新・人間革命」と私 鳥取総県長 鳥飼賢治さん

 各支部を支え、直接、第一線の会員と接する機会が多いのも、地区の幹部である。その人たちが確信を深め、力をつけ、賢者になっていくならば、広宣流布は大きく加速していく(中略)彼は、地区幹部の励ましにこそ、「本門の時代」の新しき飛躍の鍵があると考えていた。<第10巻「言論城」の章>

<時代背景>
 1965年(昭和40年)、聖教新聞で小説『人間革命』の連載がスタート。山本伸一は、恩師の精神を永遠に残すべく言論闘争を開始した。

 また、年頭から全国を奔走し、九州、大阪に次いで訪問した鳥取・米子でも同志に真心の励ましを送った。6月には、日刊化の準備が進む聖教新聞社を訪れ、聖教を世界最強の「言論城」にと訴える。


励ましこそ新しき飛躍の鍵
 本章に描かれる、山本伸一の初の米子訪問は、急きょ実現したものでした。地区部長会に出席した伸一は、その前年に米子支部長が事故で他界したことについて、仏法の上から指導し、同志の不安と迷いを晴らそうと、渾身の激励を送ります。
 また伸一は、地区部長会の参加者との記念撮影に臨み、さらに170人全員と握手を。これが、その後に全国で行われる池田先生との記念撮影会の淵源となりました。

 「地区幹部の励ましにこそ、『本門の時代』の新しき飛躍の鍵がある」との指針のままに、私も5年前に総県長に就いて以来、地区部長をはじめとする友への訪問・激励に力を注いできました。
 その中には、1965年(昭和40年)の地区部長会に参加した草創の先輩方もいます。“私が来たからもう大丈夫だよ!”との先生の言葉に触れ、どれだけ生命が変わっていったかを、皆が口をそろえて語られます。
 一番苦しんでいる人のところへ行き、希望を送るのがリーダーの使命であることを、教えていただきました。

地域に尽くしてこそ広布が
 また本章には「広宣流布とは、言論戦である。仏法の真実と学会の正義を訴え、論証し、同志を勇気づける言論なくしては、広布の前進はない」ともつづられています。 
 私が鳥取の男子部長だった1991年(平成3年)9月、先生は米子文化会館で開かれた「山光総会・音楽祭」に出席してくださいました。青年部としてかつてない聖教の購読推進を成し遂げ、先生にお応えした青春の金の思い出です。 
 先生は私たちの奮闘をたたえてくださり、さらに“地域の人を大切に”と語られました。
 以来、地域に尽くしてこそ広布の伸展があるとの精神で、役職に関係なく、多くの友が地域貢献に汗を流してきました。私も自治会長などを務めてきました。“聖教拡大の鳥取”の伝統も、地域の信頼と友情が広がったからこそと実感します。 
 地域の“幸福責任者”である地区部長と共に、未来を担う人材を育てながら、一人一人が光り輝く「模範の鳥取家族」を築いてまいります。


◆正しい情報を大切な人へ――青年部と医学者とのオンライン会議バックナンバー

 新型コロナウイルスの感染拡大の状況を踏まえ、青年部と公衆衛生学等に詳しい医学者の代表が、3月末からオンライン会議を行っています。無料会員登録することで、それぞれの詳報の全文が閲覧できます。
  
 【第9回】読者から寄せられた質問を中心に意見交換(7月16日開催)
 〈ポイント〉
 ◎あふれる情報の中で「正しく恐れる」ポイント
 ◎感染者が差別される風潮を打ち破るには
 ◎自然災害への備えと感染防止対策について
 ◎新しい行動様式を検討する上で大切な視点は「多様性の尊重」と「柔軟な対応」
  
 【第8回】「感染症と『共存』するために」 互いの価値観を理解し、多様性を尊重する社会を(6月18日開催)
 〈ポイント〉
 ◎私たちが目指すのは「感染者ゼロ」ではなく「大流行させない」こと
 ◎熱中症等のリスクも避け状況に応じた日常を築く
 ◎人とのつながりの中で幸福感は強まり広がる
  
 【第7回㊦】「感染症という『挑戦』に『応戦』するために」 「人への尊敬」と「信頼関係」こそ感染症に負けない社会の土台(5月28日開催)
 〈ポイント〉
 ◎国家と個人の間にある「中間団体」の重要性
  個別性…必要な人に 必要な支援を届ける
  即時性…すぐに相談に乗り 手を打つ
  相互性…人を助けることで自分も助けられる
  
 【第7回㊤】「感染症という『挑戦』に『応戦』するために」 自分と周囲の人々の健康を守る鍵は励まし励まされる“人のつながり”(5月28日開催)
 〈ポイント〉
 ◎感染予防と生活を両立させる「新しい日常」の定着化を
 ◎ストレスの軽減が免疫力を向上させる――①質の高い睡眠②バランスのとれた食事③適度な運動
 ◎ワクチン開発の展望――ワクチンだけに頼らない長期的対策に取り組む
  
 【第6回】「『新しい日常』を考える」 一人一人が自分らしく価値を創造する時 「できないこと」より「できること」を前向きに(5月14日開催)
 〈ポイント〉
 ◎基本的な感染防止対策を習慣とする
 ◎「正しい情報」を基に「正しく恐れる」
 ◎「一人の命の大切さ」に目を向け続ける
 ◎個々人の「違い」を尊重し、“誰も置き去りにしない”
  
 【第5回】「エッセンシャルワーカーの今」 人々の健康・生活を支える奮闘に心から感謝 偏見・差別を許さぬ社会へ(4月23日開催) 
 〈ポイント〉
 ◎体調が悪ければ休む――自分を守ることが他者を守ることに
 ◎感染症には三つの顔が――①病気②不安と恐れ③嫌悪・偏見・差別
 ◎「正しい情報」を語ることが「不安・恐れ」を打ち破る
  
 【第4回】「1人暮らしの若者・大学生の『不安』に向き合う」 困った時は躊躇せず周囲に助けを求めて!「一人で悩まない」環境づくりを(4月16日開催)
 〈ポイント〉
 ◎医療崩壊を防ぐための接触機会「8割減」
 ◎「守られる側」から「守る側」へ――他者に尽くす行動が不安を解消し免疫力を高める
 ◎充実した日々を送るコツ――①生活習慣を整える②心を切り替える工夫③立てた目標を共有
 ◎親や近親者も今が正念場――励ましの声掛けを電話やメールで
  
 【第3回㊦】「休校延長――親と子の心身を守るには」 豊かな想像力を発揮する時(4月9日開催) 
 〈ポイント〉
 ◎「家にいる(ステイホーム)」ことが感染拡大を抑止する
 ◎親子支える保育現場の方々に感謝と敬意を
 ◎「この人に感染させない」「あの人の命を救う」と想像力を働かせる
  
 【第3回㊤】「休校延長――親と子の心身を守るには」 「私は必ずあなたを守る」と大人から安心のメッセージを(4月9日開催)
 〈ポイント〉
 ◎睡眠・運動・食事など生活習慣を整える
 ◎子どもの気持ちを受け止めてあげる
 ◎児童虐待やDVを防ぐために親が心掛ける「3S」――①Self care(セルフケア)=息抜きの時間をつくる②Social capital(ソーシャル・キャピタル)=人とつながる③Skill(スキル)=子育ての技術を磨く
  
 【第2回】「医療現場の今」 自身や家族・大切な人が感染したら…全員が「自分ごと」と捉え行動変革を(4月3日開催)
 〈ポイント〉
 ◎医療崩壊とは“救えるはずの命が救えない”状態
 ◎医療従事者の献身に最大の感謝と敬意
 ◎正しい情報こそ感染拡大を食い止める“心のワクチン”
  
 【第1回】いのちを守るために――若者の意識と行動を変える(3月29日開催)
 〈ポイント〉
 ◎危機の背景にあるもの=感染経路が分からない感染者の増加
 ◎“もし自分が無症状感染者だとしたら…”と考えて動く
 ◎①手洗い・うがいを入念に②不要な外出は控えよう③正しい情報を入手し大切な人に伝えよう
                 -◇-◇-◇-◇-
 オンライン会議の内容は、創価学会青年部サイトの「savelife(命を守る)プロジェクト」の特設ページでも紹介されています。会議の要旨の英訳も閲覧できます。
 ☆特設ページはコチラ。
 ☆英訳はコチラ。
 ★「savelifeプロジェクト」のTwitterアカウントはコチラ。
 ★中高生など10代向けに開設されたインスタグラムはコチラ。


◆広島を世界につなぐ――被爆75年のメッセージ
平和のためのヒロシマ通訳者グループ 代表 小倉桂子さん

 きょう8月6日、75回目の「広島原爆の日」を迎えた。英語で被爆証言を続ける「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」代表の小倉桂子さんに被爆75年の思いを聞いた。

原爆、原発事故、コロナ禍
 平和は、一人のため、一国のためのものではありません。実現は確かに難しいですが、この世界に生きる全ての人々のためのものです。
 私たちが立ち向かわねばならない「敵」とは何か。私たちの生存を脅かすものにほかなりません。核兵器は、その第一の存在です。人類全体に等しく与える恐怖と不安を、私たちは根絶しなければなりません。
 あの日、ピカッと光った瞬間から、それは始まりました。瞬間で終わらない、永遠に続くであろう恐怖と不安です。今は元気ですが、いつ死ぬのか分かりません。いつ病気になるのか分かりません。
 目に見えない恐怖。先の見えない不安――原爆の時に感じたこの思いを、私はその後、2度経験しました。
 2回目は、2011年3月に起きた福島の原発事故です。
 私たちは突然、あまりにも巨大な恐怖と不安に巻き込まれました。きょう元気であっても明日は体調を崩すかもしれない。
近い将来、がんになるかもしれない。もちろん病気にならないかもしれませんが、核関連施設がある限り、この恐怖と不安がいつ始まるのか、誰にも分からないのです。
 3回目は、次元は異なりますが今回のコロナ禍です。目に見えないウイルスに感染する恐怖と不安。特効薬がない絶望感。放射能とそっくりです。この恐怖と不安が、あっという間に世界を支配しました。
 世界の人々は今、新型コロナウイルスに対して共に闘っています。私たちはかつて、核戦争を絶対に起こさせないために手を取り合って立ち向かうことを誓いましたが、同じ決意に立たなければなりません。
 とはいえ、戦後75年たっても戦争や紛争は続いています。核兵器も製造されています。人間は懲りない動物ということでしょうか。全てが「人ごと」なのです。相手の状況を「人ごと」ではなく「自分ごと」と捉えるイマジネーション(想像力)が欠如しているのです。

 核兵器国は当初、「核兵器は遠い国に使うから自分の国は大丈夫」と言っていました。ところが核兵器が広がり、自分の国が危なくなると、核拡散防止条約(NPT)を作り、米・ロ・英・仏・中の核兵器国以外の核兵器保有を禁止しました。こんな都合のいい話はありません。
 核兵器国と呼ばれる大国を、どうコントロールするか――。
 核兵器を保有していない無数の国々の人々が団結し、プレッシャー(圧力)をかけ続けるしかありません。
 プレッシャーの一つが、2017年に122カ国の賛成で採択された「核兵器禁止条約」です。条約の成立に貢献したのは「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)などの若い世代です。日本はまだ批准していませんが、あと10カ国の批准で効力を発揮します。
 核兵器禁止条約は、どんな小さな国々でも心一つに進めば、最後は巨大な力になるとの証明です。確かに、ここまで来るのに時間はかかりましたが、希望の光明が少し見えてきました。
 現在はコロナとの闘いです。どの国も、誰一人として「人ごと」ではありません。今こそ世界が協力すべき時であり、一人一人が「世界と自分の関係」を真摯に考える時です。人類全体が等しく恐怖と不安を感じている今だからこそ、核兵器廃絶を「自分ごと」として考える時と思うのです。
 なぜなら、あの巨大な原子雲(キノコ雲)の下では皆、同じ運命だからです。報復も憎しみも、何の意味もなしません。私たちは今この時にも、こうした運命を共有していることを知らなければいけません。だから核兵器廃絶に向けて闘うのです。
 新型コロナウイルスも同じです。コロナ禍の下では、人類は運命共同体です。だから核兵器廃絶と同じように闘うのです。
 核兵器廃絶とコロナ終息は、人類が生存するために並行して解決しなければならない喫緊の課題なのです。

被爆75年の広島市。原爆の惨劇から不死鳥のごとくよみがえった姿は、特に海外の紛争地から訪れる人の希望となる、と小倉さん。「広島が持つ意味は『心の再生』――『生きる力』をもらうこと。悲しみと同時に憎しみをも乗り越えた、被爆者の生き方に学ぶのです」

広島、長崎だけではない
 〈小倉さんは8歳の時、爆心地から2・4キロの自宅のそばで被爆した。
 2人の子育て、親の介護などに明け暮れていた小倉さんが原爆と本格的に向き合うようになったきっかけは、1979年7月、英語が堪能で、広島平和記念資料館館長を務めた夫の馨さんが病で亡くなったことだった。
 悲嘆に暮れ、無気力になっていた小倉さん。この時、夫妻の友人であったドイツ出身のロベルト・ユンクは言った。反ナチ抵抗運動に身を投じ、自著『灰墟の光――甦えるヒロシマ』で「千羽鶴を折り続けた被爆少女・佐々木禎子さん」を世界に紹介した言論人である。
 「君は広島を世界に繫(つな)ぐために必要な二つの要素を持っているじゃないか。愛する夫を突然に亡くして、絶望感と堪えがたい悲しみを持っている。その上、多くの被爆者の苦しみや怒りを30年以上も見てきた。まさに戦争こそが人々に突然の苦しみや悲しみを与え、多くの人々の命を予告もなく奪う。広島の悲劇を二度と起こさないよう、核と向き合えるのは君なんだよ」(若尾祐司・小倉桂子編『戦後ヒロシマの記録と記憶 下』名古屋大学出版会)〉
 夫が急逝した半年後の80年2月、ユンクから電話がありました。「広島に行くから通訳をしてほしい」と。大学の英文科は卒業したけれど、通訳の経験などない私は断りました。ところがユンクは強引でした。必死で勉強しました。この経験の中で本気で夫の遺志を継ぎ、広島と世界をつなぐことを決意したのです。
 3年後、ドイツ・ニュルンベルクでの「反核国際模擬法廷」で、ユンクと再会しました(83年2月)。この模擬法廷は、戦域核の配備に反対するヨーロッパ市民の抗議行動が、かつてなく広がる中での開催でした。世界がヒロシマに関心があることを、私が初めて肌で感じた時です。
 英語で被爆体験を証言し、ステージから降りてきた私を、ユンクは優しく抱き締めてくれました。「『通訳はやらない』と言っていたケイコが、ここまで成長した」。これが最後の出会いとなりました。
 「伝える」ことが大切です。ユンクもそうでしたが、「被爆者の話を聞き、私は別人になりました」「ヒロシマに来たことで私の人生は変わりました」と言う方は少なくありません。子どもから大人まで、あらゆる階層の方々に、「あの日、何が起きたのか」を伝えなければいけません。
 被爆者のつらさ、悲しみは、広島、長崎だけではありません。核実験の「死の灰」を浴びた太平洋の島々の住民や元兵士、オーストラリアのウラン鉱山近くの先住民、マンハッタン計画(原爆開発計画)に参加した科学者や技術者の家族など、核被害者は世界にたくさんいます。
 世界の核被害者の実情を、私は第1回核被害者世界大会(87年、ニューヨーク)で目の当たりにしました。胸が張り裂けそうな衝撃でした。ものすごく悲しかった。どれだけ涙を流したことか。すると、海外の参加者が一緒に涙を流しながら、こう言ったのです。
 「原爆を落としたから戦争が早く終わり、あなたも自決することなく生き延びられたと私は思っていました。そうではないことが分かりました。人類は同じ運命を持っています」
 忘れられない言葉です。

広島平和記念公園にある「原爆の子の像」。「サダコと折り鶴の物語」で知られる佐々木禎子さんをはじめ、原爆で亡くなった全ての子どもたちの霊を慰め、平和を訴える

核兵器の証言者をつくる
 〈小倉さんは40歳を過ぎてから英語を学び直し、平和のための国際交流活動をスタート。海外から広島を訪れる平和運動家やメディア関係者、作家、アーティスト、学者などの通訳や取材のコーディネートを行い、ヒロシマの心を世界に発信する。
 84年、ボランティアガイド「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」を設立。2011年からは公益財団法人・広島平和文化センターから英語による被爆体験証言を委嘱され、それまでの被爆者の通訳だけでなく、自身の被爆体験を伝える「英語の語り部」になった。
 近年、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学、シラキュース大学など、アメリカの学生たちに被爆体験を語った〉 被爆者の75年は、大きく三つの時期に分かれます。
 原爆投下からの10年は、「空白の10年」と呼ばれるように、放射能の恐怖を全く知らない時代です。GHQ(連合国軍総司令部)が原爆の影響を隠すために検閲を行い、原爆報道は途絶えました。被爆者への医学的・経済的援助は乏しく、差別・偏見が続いた時期と重なります。 
「空白の10年」の後、放射能の恐怖は徐々に知れわたりましたが、被爆者の多くは口を固く閉ざしました。思い出すのがつらいだけではなく、さまざまな事情があるのです。核兵器の恐ろしさを伝えなければいけないと葛藤しつつも、被爆者と公言すれば、自分の家族や親戚まで差別・偏見が及びます。私は7人きょうだいですが、あの日のことをきょうだいで話し合ったのは、被爆70年の2015年でした。
 被爆者が高齢になった今日、「あの世が怖い」という声をよく聞きます。あの世に行った時、原爆で犠牲になった身内から、「私はむごい目にあって死んだのに、あなたは何をしたの?」と問われるのが怖いというのです。被爆者は自分が生き残った後ろめたさや、犠牲者への申し訳ない気持ちを抱えて生きてきました。ですから今、被爆体験の手記を書いたり、核兵器の恐ろしさを証言するビデオメッセージを撮ったりするなど、被爆者として生きた証しを残す人が増えています。
 私は、いつも広島を訪れた方に言います。
「あなたが立っているその下には、原爆で犠牲となった方の遺骨がたくさん眠っています。その方々の声なき声が聞こえるでしょう。私は絶対悪である核兵器の証言者ですが、あなたも証言者です。犠牲者の上に立っているのですから」
 広島の地に立つ人は皆、核兵器の証言者です。「あの日、何が起きたのか」を知り、ヒロシマの心を共有する証言者です。
 ヒロシマの心とは、「平和のために闘う心」です。核兵器廃絶はもちろんですが、私たちの生存を脅(おど)かす、あらゆる「敵」と闘う強い心です。

 大切なことは、私たちの生存を脅かす「敵」を「自分ごと」と捉(とら)え、行動を開始すること。この新しい一歩を踏み出す場所が広島なのです。
 コロナ禍の今、私たちは生まれ変わらなければいけません。
 私は80代ですが、人と直接、会うことが困難な状況だからこそ、オンラインを使って広島と世界をつなぎ、発信を続けています。一人でも多くの方が「絶対悪である核兵器の証言者」になることが私の使命であり、平和の道だからです。

アメリカ・ポモナ大学の広島講座で被爆体験を語る小倉さん(2016年10月)=本人提供

【案内】きょう8月6日、「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」は、広島平和記念公園内外で英語による慰霊碑と建造物の紹介、英語による被爆体験者メッセージをYouTubeでライブ配信し、広島市民の平和への思いを全世界に伝えます。配信は午前10時を第1回として、1~2時間ごとに計7回を予定。
視聴方法やプログラムの詳細は、​「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」​のホームページでご確認ください。
小倉さんが代表を務める「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」(HIP)は、『ヒロシマ事典(和英)』『HIPの平和公園ガイド』『英会話しながら広島ガイド』を刊行


◆〈信仰体験〉いま想う 戦後75年 ④ 爆心地から1・2キロで被爆した看護学生
核兵器のない世界は心を継ぐ人が必ず実現してくれる

 【広島県安芸高田あきたかた市】きょう広島は被爆75年を迎えた。1945年(昭和20年)8月6日、原子爆弾が投下され、街は灰燼かいじんに帰した。赤子から年寄りまで無差別に命が奪われた。日常の暮らしは消し去られた。
 当時、増川美代子さん(89)=婦人部副本部長=は若い看護学生だった。どれほどの苦悩があったか。どれほどの死への恐怖と絶望があったか。それを越えて懸命に生き抜いてきた。75年がたった今、被爆者の彼女は何を想うか。

戦争・原爆が憎い
 朝食を食べようと、茶わんを持った、その瞬間だった。まばゆい光と爆風。寄宿先の銀山かなやま町(爆心地から約1・2キロ)の個人病院の天井が崩れ、下敷きになった。どれくらいの時がたっただろうか。増川さんは、近くにいた兵隊に助け出された。
 全身傷だらけ。それでも、助かったと安堵した。ふと顔を上げた14歳の少女が見たのは「地獄じゃった」。首のない女性、手足のちぎれた男性、血まみれでぐったりした赤ちゃん。目を覆いたくなる惨状が広がっていた。
 「痛いよ、助けて、苦しい」。苦悶くもんのうめき声が、耳をふさいでも聞こえてくる。迫り来る火の手。怖くなって逃げた。見慣れた京橋川までたどり着くと、そこには無数の死体が浮かんでいた。
 「お父ちゃーん! お母ちゃーん、助けて」。炎天下の中、意識がもうろうとしながらも、夢中で走った。手や足から血が流れては乾き、流れては乾く。固まった血がボロボロの衣服に貼り付いた。
 疲れ果て、われに返って思った。実家までは40キロ以上もある。一人で帰るすべはない。家族が捜しに来ても見つかりやすいように、救護所で、負傷者の看護をすることにした。
 だが「そこも地獄じゃった」。狭い建物は重傷者と死体であふれかえった。助けたくても手の施しようがない。「気が狂いそうな日々」が続いた。
 数日後、捜しに来てくれた父と再会。家に帰り着くなり、母は玄関で泣き崩れた。
 喜びも束の間。増川さんに被爆の影が忍び寄る。化膿した傷口にウジ虫がわいた。「臭い、臭い」と鼻をつまむ弟妹が箸でウジ虫を取ってくれた。髪の毛も、歯も全て抜け落ちた。
 「苦しい。もう死にたい」。何度もそう思った。しかし首を吊ろうにも起き上がる気力さえもない。天井を眺め、泣くしかなかった。
 父は変わり果てた娘を背負い、散歩に連れ出した。「お父ちゃん、元気になれるような気がする」。父は、はにかんで笑った。
 「あの笑顔が今も忘れられんのんよ」
 やがて19歳だった兄の戦死公報が届くと、父は柱にすがって慟哭どうこくした。終戦から3年後、入市被爆した父が50歳で逝った。「戦争が憎い。原爆が憎い」。増川さんの心は、怒りに満ちていった。

生かされた意味
 戦後の食糧難に加えて、もう大黒柱はいない。一家は生活苦にあえいだ。増川さんは少しずつ薄紙をはぐように元気を取り戻す。しばらくすると看護の仕事に復帰。被爆の後遺症で体調はすぐれないままだったが、働かなければ母や3人の弟妹を養っていけなかった。
 世間では「原爆に遭った女は嫁にいけん」とのうわさが広まる。差別、偏見、将来への不安。増川さんにとって顔に残った傷は“被爆者”という烙印らくいんを押されたように感じた。
 結婚は縁遠いものと思っていたが、23歳で結ばれた。夫はフィリピンでの銃撃戦を生き延びた人だった。
 「戦争の悲劇を痛いほど知っとるけえな。私を受け入れてくれたんじゃろうな」
 やがて生まれた娘は小児ぜんそくで苦しんだ。「これも原爆の影響なんか」。まだ被爆への知識も少ない中で恐怖心と罪悪感が募った。
 泣きじゃくる幼子を背負い、「元気に産んでやれんで悪かったね。お母ちゃんを許して」と列車の線路に何度も飛び込もうとした。
 そんな時、地域の学会員が信心の話をしてくれた。「絶対に幸せになれる信心じゃけん。やってみようや」。その言葉に胸を打たれ、61年に入会。娘を抱いて祈りに祈った。
 ある時、娘が「お母ちゃん、ゼーゼーがなくなったよ」。驚いたことに病状は快方へ。
 “宿命は変えられるんじゃ!”。祈りは娘の病だけでなく、増川さんの生き方をも変えた。自分が生かされた意味を知った。
 そして師匠の存在が生きる希望になった。“絶対悪”を叫んだ戸田先生の「原水爆禁止宣言」。その遺志を継ぎ、世界を駆ける池田先生。師匠の平和闘争への思いに触れると涙が込み上げた。
 「弟子の私らにもできる地域広布をしようや」。夫婦で鉄工会社を設立し、自宅を広布の会場に提供した。増川さんは広布に励んだ分だけ、苦しみや悩みを転換していける無限の力が、ふつふつと湧き上がるのを感じた。

青い海と出あい
 青い海と青い空。米国ハワイの空港に降り立ち、増川さんは感慨深く思った。
 「信じられん境涯になれたわ」
 被爆30年の1975年、被爆40年の85年、被爆50年の95年(平成7年)と節目にはハワイに、創価学会の交流団が派遣され、広島からも代表が参加。被爆者の増川さんもその一人に加わった。
 日米開戦の舞台となった真珠湾や、戦没者が眠る墓地を訪れ、かつて原爆を使用した国にも戦争の被害者がいた事実を知った。
 忘れられないのは、SGIメンバーとの交流座談会。そこで自身の体験を、通訳を交えて、身ぶり手ぶりで懸命に語った。
 「よくご無事で」。目に涙をたたえたメンバーに握手を求められ、ハグをされた。人間と人間の触れ合いがそこにあった。
 かつて抱いた憎しみや恨みが、すっと消えていくのを感じた。友情を結ぶ中に真実の平和があると心から思えた。
 帰国後は、地域の会合などで被爆体験を積極的に語るようになった。「もうアメリカを憎んじゃおりません。本当の敵は、人間に巣くう魔性なんです」
 体験を語る際に心掛けるのは、相手の「心」に訴えること。それには「自分の心を磨くしかないんです」。だから、常に唱題は欠かせないという。
 本年1月、地元の未来部員から相談された。「増川さんの被爆体験を聞かせてもらえませんか?」
 体力は落ちたが、ぜひ伝えたいと思った。増川さんの渾身こんしんの“平和への遺言”は、約1時間に及んだ。未来部員が増川さんの手を握り締めて語った。
 「友人に原爆の恐ろしさを伝えます。そして将来、私に子どもができた時に、平和の素晴らしさを教えます」
 その言葉が、何よりうれしかった。“ヒロシマの心”は、次の世代へ確かにつながっている。「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」(御書1451ページ)。増川さんは御聖訓の通りだと思った。
 「核兵器のない世界。私が生きとるうちは無理かもしれん。でも、そんな時代が来たら、うれしいなあ。被爆者の心を継ぐ子どもたちが、必ず実現してくれる。そりゃあ間違いないと信じとるよ」

 

2020年8月 5日 (水)

2020年8月5日(水)の聖教

2020年8月5日(水)の聖教

◆わが友に贈る

 猛暑の時季が到来。
 迷わずエアコン等を使い
 万全の熱中症対策を。
 適切なマスクの使い方や
 換気の工夫も賢明に。


◆名字の言 ノーベル賞受賞の山中教授を支えた「V」と「W」  2020年8月5日

 ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授は、自身を支えた言葉として「V」と「W」を挙げる。「V」はビジョン。「W」はワーク。ここで言うビジョンとは「目的」に近い。米国留学中、研究所の所長から教わったことだという(『心揺るがす講演を読む』所収の教授の講演から。水谷もりひと監修、ごま書房新社)▼山中教授はハードワークには自信があったが、ビジョンについては、研究に追われ、いつしか、いいポストに就ければくらいの思いでいた。しかし所長は“そんなことのために研究者になったのか”と。そう言われて、“現代の医学では治せない病気を治すため”に研究者を志したことを思い出す。以来、わがビジョンを大切にしてきた▼戸田先生と池田先生の師弟が重視したのもビジョンである。戸田先生が焼け野原に立った時、学会は壊滅していた。その現実に縛られていたら、75万世帯の達成という発想は出てこなかったに違いないと、池田先生は述べている▼いかに現状が厳しくとも、“世界の民衆の幸福のため”との明確なビジョンがあったから、大きな指標を定めて、現実を開くことができた▼今、新たに男子部の「ビジョン会議」が開催されている。師弟のビジョンの実現へ、新しい発想と行動に期待が高まる。(進)


◆寸鉄

「師子王の如くなる心を
もてる者必ず仏に」御書。
負けじ魂が我らの合言葉
     ◇
広島青年部「平和誓願の
日」。君らの手で不戦世紀
を!さあ若き陣列拡大を
     ◇
私は今の条件下で最善を
尽くすだけだ―芸術家。
電話などで励ましを日々
     ◇
睡眠不足は免疫力低下に
―研究。規則正しい生活
で友好期間を生き生きと
     ◇
コロナ禍で親子の接する
時間増えた―65%。信心
の継承を心通う語らいで


◆社説 2020・8・5 真夏の「熱中症」に注意  油断せず、自分に合った対策を

 近年のヒット商品、ハンディーファンをご存じだろうか。
 手軽に持ち運べる“携帯扇風機”のことだが、手に持つタイプだけでなく、首掛け式の機種などもある。今やファッションの一つとしても定着し、若者から高齢者まで幅広い人気だ。ベビーカーに取り付け、子どもの暑さ対策に使う人もいる。
 これからの時期、熱中症を予防する意味でも、体を冷やす工夫が大切になる。
 特に暑さを自分で意思表示できない乳幼児や体力が低下しがちな高齢者には、一層の配慮が必要だ。
 気象庁によると、8月は晴れの日が多くなり、平年並みか、平年よりも高温になる見込みだという。
 熱中症は、高熱、大量の発汗、めまい、吐き気などの症状が出る病気。
 体内に熱がこもったり、汗を大量にかいて水分と塩分のバランスが崩れ、体温の調節機能がうまく働かなくなるために起こる。
 一昨年は1500人以上もの方が亡くなった。決して油断できない。
 太陽光を直接浴びると体内の温度が上がりやすくなるため、外出する際は日傘を差す、帽子をかぶる、通気性の良い上着を着るなど、工夫したい。
 統計を見ると、死亡者の約8割が65歳以上で、そのうち自宅で発症したケースは半数以上に上る。
 自宅でも「エアコンを使う」「小まめに水分を補給する」「健康的な食事で塩分を取る」などが必要だ。
 特に「喉が渇いた」と感じた時にはすでに症状が進行しているケースもあるため、トイレに行ったら1杯の水を飲むなど、定期的に補給することが肝心だ。
 今年はコロナ対策でマスクを身に着ける機会が多い。高温・多湿の環境では、身体に負担がかかり、熱中症のリスクが高まることもある。
 厚生労働省は、屋外で人と十分な距離(少なくとも2メートル以上)が確保できる場合には外すことを呼び掛ける。
 マスクを着用する場合でも、激しい運動は控えるなど、注意しよう。
 高齢者は、暑さを感じにくかったり、エアコンを控える節電意識の強い方もいる。
 身近な家族、知り合いから「部屋は涼しいか」「水分は意識して取っているか」との声掛けも大切だ。
 暑さをしのぐための具体的な工夫として、かつて本紙に「室内にいる時は、日中でもカーテンを閉めて直射日光を遮断する」「外出時には襟がぬれてもよい上着を着て、持参したタオルを水でぬらし、適時、首に巻く」などが紹介されていた。参考にしたい。
 ともあれ、リズムある生活を送ることが健康の基本。
 朝晩の勤行とともに、バランスの良い食事、適度な運動、十分な睡眠、自分に合った暑さ対策を心掛け、盛夏を乗り切ろう。


◆きょうの発心 四条金吾殿御返事 第2茨城総県婦人部長 小野広美2020年8月5日

御文
 苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ(四条金吾殿御返事、1143ページ・編880ページ)
通解
 苦を苦と覚り、楽を楽と開き、苦しくても楽しくても南無妙法蓮華経と唱えきっていきなさい。

“直通”の信心で凱歌の人生を!
 いかなる時も唱題し抜いていくことこそ最高の幸せである、との仰せです。
 家庭不和や、病魔との闘争など、あらゆる宿命の嵐を、題目で乗り越えてきた母の姿に信心を学びました。
 両親は経済苦の中、私を創価女子短期大学に1期生として送り出してくれました。1985年(昭和60年)7月、創立者・池田先生との懇談の折、“お父さんにとって良き娘に”と激励していただきました。その日から真剣な唱題に挑戦。次第に、父に対するわだかまりが解け、感謝の気持ちが湧いてきました。
 “自分が変われば、全てが変わる”――先生が教えてくださった、深き慈愛に感謝は尽きません。
 結婚後も夫の転職や、2度の流産など幾多の試練に直面しましたが、そのたびに、この御文を拝して乗り越えることができました。
 これからも報恩の心で、師を求め抜く“直通”の信心と励ましで、第2茨城総県の皆さまと凱歌の人生を勝ち開きます。


【先生のメッセージ】

◆連載〈世界広布の大道〉小説「新・人間革命」に学ぶ 第22巻 基礎資料編2020年8月5日

イラスト・間瀬健治

イラスト・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第22巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。挿絵は内田健一郎。
  
【物語の時期】1975年(昭和50年)5月30日~12月29日

「新世紀」の章
 1975年(昭和50年)6月、山本伸一は「新世紀」への飛翔のために、東京各区をはじめ、各地の首脳幹部との協議会に力を注ぐ。新会館の建設や記念行事の開催の決定など、新しい前進の目標が打ち出される。
 7月3日、戸田第2代会長の出獄30周年記念集会で伸一は、恩師が提唱した「地球民族主義」の大構想を実現するため、命の限り走り抜くとあいさつする。
 青年部は、7月に男子部、女子部の結成記念日を迎えることから、「聖教新聞」で、座談会「青年が語る戸田城聖観」を連載開始。師と共に新しい時代を開く青年の熱意があふれる紙面となった。
 また、伸一と文学界の巨匠・井上靖との手紙による語らいが、「四季の雁書」として月刊誌「潮」7月号から連載を開始。生死の問題をはじめ、幅広い対談は12回にわたり、77年(同52年)に単行本として結実する。
 さらに、伸一は、“経営の神様”といわれる松下幸之助とも、出会いを重ね、書面を通しての語らいを進めてきた。人間の生き方から、日本、世界の進路など、テーマは多岐にわたり、75年の10月、往復書簡集『人生問答』が発刊に至る。
  
「潮流」の章
 7月22日、山本伸一は、第12回全米総会を中心とした「ブルー・ハワイ・コンベンション(大会)」に出席するため、ホノルルへ。この大会は、アメリカ建国200年の前年祭記念行事として開催されることになり、大統領からもメッセージが寄せられていた。
 23日、伸一は、大会のコントロールセンターの開所式に臨み、スタッフを激励。その夜には、アルゼンチン、広島などの交流団の代表を、24日にはブラジル、ペルーの代表を宿舎に招いて懇談する。
 26日の全米総会には州知事も出席。伸一は、異民族同士の共存を可能にしてきたハワイの「アロハの精神」こそ、仏法で説く「慈悲」「寛容」に通じると述べる。その夜の記念パレードには、伸一との約束を果たし、5人が参加したニカラグアのメンバーの姿も。大会の最終日には、アメリカ
の建国の精神と歴史をうたい上げたミュージカルが披露された。
 伸一は、行事の合間も来賓との会見を重ね、29日には、大会を陰で支えたメンバーの労をねぎらう。
 15年前に、世界広布の第一歩をしるしたハワイから、再び平和の新しい「潮流」が起ころうとしていた。
  
「波濤」の章
 山本伸一は、ハワイから帰国すると、創価大学での夏季講習会で陣頭指揮を執る。8月3日の「五年会」の総会、4日の高等部総会での渾身の指導をはじめ、5日には総会に集った中等部員を、6日には少年・少女部員を見送るなど、激励を続ける。
 東京男子部の講習会では、外国航路で働く船員の集いである「波濤会」のメンバーと記念撮影。「波濤会」は、1971年(昭和46年)に結成された。大しけで遭難した貨物船の乗組員全員を救助し、総理大臣表彰を受けた「だんぴあ丸」の船長など、多くの人材が育つ。また、不況にあえぐ海運業界を勇気づけようと企画した「波濤会」の写真展は海外でも開催され、共感の波を広げる。
 9月9日、女子部学生局の幹部会に出席した伸一は、夜の会合の終了時間を午後8時30分とする「8・30運動」を提案。28日には、女子部の人材育成グループ「青春会」結成式へ。新時代の女性リーダーを育成するこの会は、その後、各方面でも結成される。伸一は21世紀を託す思いで魂を打ち
込む。やがて広布の枢要な立場で活躍するメンバーや社会で重責を担う人材が育っていく。
  
「命宝」の章
 この世で最も尊厳な宝は、生命である。山本伸一は、9月15日、ドクター部の総会に初めて出席。この日は、「ドクター部の日」となる。
 11月7日夕刻、広島入りした伸一は、落成間もない広島文化会館を視察。夜には開館式に出席する。8日には、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花し、祈りを捧げる。
 9日、被爆30年を迎えた広島で本部総会を開催。伸一は、この地上から一切の核兵器が絶滅する日まで、最大の努力を傾けることを宣言し、広島での国際平和会議の開催など、具体的な取り組みを提案する。さらに、創価学会の社会的役割などに言及し、講演は1時間20分にも及んだ。終了後、来賓のレセプションを終えた伸一は、広島未来会第2期の結成式へ。少年少女合唱団も招き、交流のひとときをもつ。
 10日には、海外メンバーの歓迎フェスティバル、原爆犠牲者の追善勤行会などが続くなか、広島会館へ。会館前の民家の主人とも対話を交わす。11日、予定を変更し、呉会館を初訪問。駆け付けたメンバーと勤行する。また、広島文化会館に戻る途次にも、学会員を見つけては、励ましを送る。
  
【山本伸一の平和旅】1975年7月 アメリカ・ハワイ

浮島の舞台が設置された第12回全米総会(1975年7月、ハワイで)

ホノルル市内の会館で各種行事を支えたメンバーと勤行した後、ガーデンパーティーで激励する(1975年7月、ハワイで)

【山本伸一の激励行】

波濤会
海外航路に従事する船員のグループ「波濤会」のメンバーと、記念撮影に臨む(19
75年8月、創価大学で)

女子学生部
女子部学生局(当時)の幹部会に出席(1975年9月9日、東京の旧・創価文化会館で)。この日が後に「女子学生部の日」に制定される

ドクター部
東京・信濃町の学会本部で開催された第3回ドクター部総会(1975年9月15日)。これが「ドクター部の日」の淵源となった

広島
激務の合間を縫って、広島・呉会館を訪れる池田先生。来訪を心待ちにしていた同志を激励(1975年11月)

【識者との語らい】

文豪・井上靖氏㊧と池田先生が語り合う(1975年3月、旧・聖教新聞本社で)。両者は、月刊誌「潮」で往復書簡を連載。後に『四季の雁書』として発刊された

芳名録に記帳するパナソニック創業者の松下幸之助氏㊧(1980年12月、東京・創価国際友好会館<当時>で)。池田先生と松下氏は67年に初めて出会って以降、親交を深める。両者の往復書簡は『人生問答』として出版された


【聖教ニュース】

◆さあ夢に向かって挑戦! 未来部ドリームチャレンジ期間を有意義に  2020年8月5日

 挑戦の心で、成長の夏を!――創価学会未来部は今夏、「未来部ドリームチャレンジ期間」を推進している(8月31日まで)。
 期間中、「未来部イングリッシュチャレンジ」、「読書感想文コンクール」(中・高等部)、「きぼう作文コンクール」(少年少女部)、「少年少女希望絵画展」(同)の作品募集を行う。
 各種コンクールへの取り組みは、世界市民の心を磨き、豊かな創造力を育む絶好の機会。応援企画が掲載された、未来部の機関紙「未来ジャーナル」「少年少女きぼう新聞」7・8月号を活用し、子どもたちが“自分発”で取り組めるよう、創価家族が一丸となってサポートする。
 また、「ファミリー座談会」を各家庭で開き、家族でかけがえのないひとときを送る。
 開催に当たっては、学会公式ホームページ「SOKAnet」や「SOKAチャンネル モバイルSTB」で配信されている動画なども活用できる。

アニメシリーズ番組「げんきのスイッチ」の第3話「どうして、カイゴウにいくの?」

アニメシリーズ番組「げんきのスイッチ」の第3話「どうして、カイゴウにいくの?」

 未就学児・小学校低学年メンバーには、アニメシリーズ番組「げんきのスイッチ」がおすすめ。

 中・高等部のメンバーであれば、「よくわかる創価学会 偉人に見る創価の哲学」(モバイルSTBのみ)を通して、池田先生が若き日に伝記や小説などを読んだナポレオン、ユゴー、ベートーベンらについて語り合うのも有意義であろう。
 新型コロナウイルスの影響で学校の夏休みが短縮される中にあって、宝の友が希望を持ち、“一歩前進”ができるよう励ましを送っていきたい。
 ※各種コンクールへの応募方法の詳細は、本紙7月23日付7面「未来部育成のページ」、学会公式ホームページ「SOKAnet」の特設サイトを参照。
 またこちらから「SOKAnetの未来部向け動画チャンネル」にアクセスできます。


◆欧州学生部が研修会 24カ国の若き俊英が参加  2020年8月5日

オンラインで行われた欧州学生部の夏季研修会

オンラインで行われた欧州学生部の夏季研修会

 欧州学生部の夏季研修会が1日、オンラインで開催された。会合の内容は英語から4言語に同時通訳され、24カ国から200人が参加した。コロナ禍にあっても、若き俊英たちの広布の情熱は変わらず、「立正安国論」の講義や代表の体験発表、質疑応答などが活発に行われた。
 席上、欧州学生部の取り組みとして、「正義の1万対話」キャンペーンが発表された。学会創立90周年となる本年の「11・18」に向けて、「SDGs(持続可能な開発目標)」を巡って友人と語らいを広げ、「誰も置き去りにしない」社会の実現へ前進する。
 欧州青年委員会のサンティ委員長は、学生部が率先して新たな取り組みを開始したことに感謝を述べ、池田先生の欧州初訪問60周年となる明年へ、人間革命の挑戦の歴史をと強調した。
 タカハシ欧州議長、プリチャード同女性部長が、先駆の使命に燃えて進む欧州広布の若人を励ました。


【特集記事・信仰体験など】

◆青年部主催  第1回戦争証言を聞く会(オンライン)から 沖縄県 仲程シゲさん

 青年部がオンラインで実施している戦争・被爆証言を聞く会の第1回が7月19日に開催され、沖縄在住の仲程シゲさん(90)=支部副婦人部長=が戦争体験を語った。要旨を紹介する。
 沖縄戦の時は、数え年で16歳でした。1944年8月、2学期が始まる頃、沖縄に10万人の兵隊が来ることになりました。そんなに兵隊が入れるところはないから、私が通っていた学校(大里第二国民学校)も兵舎に取られました。私たち生徒は交代で兵隊の炊事用の水くみをしました。
 翌45年3月ごろから空襲がひどくなってきました。大里村(現・南城市)にあった私の家にも兵隊がやって来て、重砲隊の本部になりました。屋敷や納屋に、弾薬が入った木箱が次々と積まれました。
 3月23日から大空襲が始まりましてね。わが家にいた兵隊たちは、「第一線突入!」と言って出て行ったんです。その時に二人から遺言を頼まれました。
 「シゲちゃん、僕らは軍人だから、生きて帰る望みはない。故郷には家族がいる。もしあなたが生きて元気だったら、僕の消息を告げてくれないか」と。
 それから私たち家族も防空壕生活が始まりました。何万発にも思える爆弾が落ちてきて、そこに水がたまって周囲はため池みたいになりました。
 昼に炊事すると煙が出て攻撃されるので、戦闘機が飛ばない夜に炊きました。日中は身を潜めて、モグラのような生活でした。

戦争は人間の心まで奪ってしまう

 <4月1日、米軍が沖縄本島に上陸。攻撃は激しさを増した。5月に入ると、米軍が目の前に迫った>

 兵隊たちは「5月27日は海軍記念日だから、絶対に勝つ」と言うんです。でも実際は、敵はもう目の前。全部うそでした。
 5月29日、防空壕を出て避難することにしました。わが家には私と母と弟二人の他に、親戚の姉妹がいました。でも、ポリオ(小児まひ)で歩けないから置いて逃げてきてしまった。毎日が死の恐怖と隣り合わせでしたから、その後、二人のことは忘れてしまいました。戦争は、人間の心まで奪います。人間じゃなくなります。

 <シゲさんは今も、この姉妹を残していったことを後悔しているという。その後、玉城、具志頭、糸満と転々と避難する生活を強いられた>

 6月19日、真栄里と(現・糸満市)で壕を掘り、身を潜めていた時に米軍の戦車が壕の前に来ました。
 そうしたら親戚のおじさんが「敵軍にやられるより自分たちで死んだ方がましだ」と言って、手りゅう弾を手にしたんです。母はおじさんの手首をにぎって、「いくらなんでも、この子どもたちを殺せるか」と、諭しました。この時の母の行動がなければ、私は今ここにいません。

 <恐怖におびえながら必死で逃げた。6月20日に、現在、平和祈念公園がある摩文仁付近に到着する。すると近くで爆発が起きた>

 水をくみに行こうとしたら、近くに砲弾が落ちました。眉間に破片が刺さり、顔中、血だらけになりました。母は私が死んでしまったと思ったそうです。
 21日、摩文仁の丘で逃げ場を失った時に、若い兵隊さんが「皆さん、このままでは生きていけない。米軍には食べ物もあるから、男はふんどし一本、女は荷物を置いて捕虜になろう」と呼び掛けたんです。
 すると日本兵二人が出てきましてね。「こんなばかがいるから戦争に負けるんだ」と、日本刀でその人の首を斬ったんです。
 私たちはとっさに荷物を置いて、崖から海岸へ逃げました。海岸では死んだ赤ちゃんが波に揺られていました。あたりは死体の山。水牛のようにおなかが膨れた人や真っ黒に焦げて男女の区別もつかない人、はえやウジでいっぱいでした。本当に地獄でした。
 母はどうしても故郷に帰りたいと言うのですが、私はケガで歩けません。「どうせ死ぬんでしょ。このガマ(洞窟)で一人で死ぬ」と言う私に、母は、「生きても死んでも親子は一緒。あんたを置いてどうして行けるか」と言って私を叱りつけました。
 母にお尻を持ち上げられ必死で崖を登りましたが、丘に着くと、あたり一面、死体でいっぱいでした。仕方なく、もといたガマに戻りました。そこで死ぬつもりだったんです。
 そうしたらガマにいた日本兵の将校らしき人が「米軍は住民を殺さない。捕虜になりましょう」と言うので、ガマを出ました。そこで米軍に保護されました。その人のおかげで生きられたんです。

命の大切さを後世に伝えてほしい

 戦争は本当に残酷です。「命(ぬち)どぅ宝」(命こそ宝)です。全国の皆さんに戦争体験をこうして語れるのも、命があるからです。生きていて本当に良かったと思います。
 あの戦争で、同級生も恩師も皆、亡くなりました。どうか私の体験を全国の皆さんに、次の方に伝えていってください。


◆〈未来の宝と共に 池田先生の書籍に学ぶ〉 総神奈川少女部長 秋葉七恵さん
テーマ「夏休みが短くて何もできない」

〈池田先生の指針〉
 本当に楽しく充実した青春とは、自分自身の「挑戦の心」で、いくらでも広がっていきます。
 きょうは、きのうの自分に勝つ!
 あしたは、きょうの自分に勝つ!
 そのくり返しが、偉大な人生を築きます。
 さあ、「挑戦の夏」だ。挑戦の原動力である題目を唱えながら、新しいチャレンジを開始しよう!
 (『希望の大空へ』47ページ)

各種コンクールに懸命に挑戦
 私は幼い頃から“学会の庭”で育ててもらい、池田先生のことや、学会活動が大好きになりました。
 特に神奈川銀河少年少女合唱団、富士中学生合唱団、正義合唱団で薫陶を受けたことは生涯の原点となっています。
 私には忘れられない少女部時代の思い出があります。それは、毎年、未来部の夏の各種コンクールにチャレンジし続けたことです。
 取り組むようになったきっかけは、未来部の担当者や家族に勧められたことでした。中でも絵を描くのは大の苦手で、「少年少女希望絵画展」への挑戦は勇気がいるものでした。それでも“池田先生が見て喜んでくださる作品を”との思いで、毎年、工夫を重ねて取り組みました。
 小学3年の夏休みでは、それまでにやったことがないもので作品制作をしてみようと決め、貼り絵にチャレンジ。好きな昆虫をテーマに時間をかけて「セミの貼り絵」を作りました。その間、題目も欠かさずに励みました。
 そして真心を込めて完成させた作品は、応募総数約3万5000点の中から「銅賞」30点の一つに選ばれたのです。
 絵や工作が苦手だった私の作品が選ばれたことに、とても驚きましたが、受賞できたことを家族や周囲の皆さんが自分のことのように喜んでくれたのが、私にとって最大の喜びとなりました。
 希望絵画展をはじめ、未来部の各種コンクールへ一生懸命に取り組んだことで、私は努力する心を磨き、成長できたと実感しています。

勇気の一歩を刻み充実の夏を
 池田先生は未来部の皆さんに、次のように呼び掛けています。
 「お父さんやお母さん、担当者の方の応援を受けながら取り組む読書も、作文も、絵画も、語学も、まさしく『ドリーム(夢)』を見つけ、広げ、深めるチャンスとなる。楽しく伸び伸びと『チャレンジ(挑戦)』してもらいたい」と。
 新型コロナウイルスの影響で、今年の夏休みは短縮される学校がほとんどです。これまで経験したことがない状況に不安もあるかもしれません。ですが、皆さんには日本中、世界中に未来部の仲間がいます。共に勤行・唱題に励み、勇気の一歩を踏み出しましょう。
 信心根本に勉強や読書、部活などに励みつつ、各種コンクールにもぜひ取り組んでみてください。その挑戦が自身の糧となり、世界を照らす希望にもつながります。私も皆さんと一緒に充実の夏を過ごせるよう、目標を決めて前進します!


◆〈幸齢社会〉 シニアこそ、インターネットでつながろう

一般社団法人アイオーシニアズジャパン代表理事 牧 壮さん

 フェイスブック、LINEといったSNS(会員制交流サイト)を使った人のつながりが、シニアの間にも広がっています。そんなインターネットでのつながりの魅力と注意点について、一般社団法人アイオーシニアズジャパン代表理事の牧壮さんに聞きました。

孤独・孤立を防ぐ必需品
 インターネットは、いまやシニアにとって孤独・孤立を防ぐための必需品です。
 しかし、シニア世代といえば、パソコンに弱いというイメージを、本人だけでなく、周りの人も抱いているのではないでしょうか。パソコンが社会に本格的に出回ったのは20年ほど前。今70歳であれば50歳の頃に出合ったことになります。仕事に必要なソフト以外は使ったことが無かったり、なじみが無いのも当然です。
 半面、情報化社会の進展とともにシニアの中にもネットを利用する人が増えています。特にここ1、2年、水害や震災など自然災害がより身近で起こるようになり、事態は大きく変化しました。
 テレビが唯一の情報源となっている人もいますが、テレビでは、地域の細かい災害情報まで放送されません。危険があれば行政も防災無線等で呼び掛けますが、音がかき消され、住民に届かないことがあります。自身の命を守るには、ネットに発表される地域の防災情報を見つける能力が必要になりました。
 そしてそこに、新型コロナウイルスが追い打ちをかけました。
 外出自粛が続き、人と触れないことから精神的に参ってしまうシニアが増えたのです。私の友達にも、誰とも1週間以上、話さなかった人もいました。
 一方、ネットが使えるシニアは、Zoomという会議アプリで多くの友達と実際に会っているように雑談を楽しんでいました。
 「電話で構わない」という人もいますが、特に男性の場合、一対一の電話でどれだけ話が持つでしょうか。
 コロナ禍にあって、シニアが人とのつながりを保ち続けるにはネットの活用が不可欠となっています。
 
スマホに機種変更しよう
 ネットとつながるといっても、特別な道具は必要ありません。
 ほとんどの方が携帯電話を使っていると思います。ただ70代の多くが、80歳を超えるとほとんどがガラケーです。この携帯電話を、スマートフォン(以下、スマホ)に変更すればいいのです。スマホを持つと生活の可能性が広がります。
 画面に触るだけで写真や文字が大きく表示されるなど、スマホはシニアにも使いやすくなっています。最新の機能を備えたスマホこそシニア向けといえます。
 私も83歳となり、同時に複数の案件を進めることが難しくなりました。若い頃は翌日の予定も頭に入っていましたが、最近はそうもいきません。今は予定をスマホに入れ、始まる前に音で教えてくれるように設定しています。スマホは優秀な秘書になりますし、何回予定を聞いてもイヤな顔をされません(笑い)。
 記憶に頼らず、記録を使うようにします。
 以前行ったタブレットの学習会に、若年性認知症の人が参加しました。発症当時は、医者から「5年後には何もできなくなる」と言われ、意気消沈していました。
 しかし、生活の質を上げるためにタブレットを使い始めました。電車の乗り換え案内や地図のアプリを駆使して、新幹線に乗って遠出をしたり、フェイスブックを通じて多くの友達をつくったりして、発症から15年たった今でも、生き生きと認知症ライフを楽しんでいます。
 タブレットは“画面の大きなスマホ”と捉えていただければ大丈夫。必ず必要なものではありませんが、スマホの画面が小さくて使いにくい人や、パソコンを使っていた人には、お勧めです。

慣れてきたら情報発信も
 スマホに変更したら、まずは気軽に使ってください。写真を撮ったり、気になるアプリを開いたり。分からないことを聞く最適の相手は、地域に住むシニアの友達です。
 「どうやって使ってるの?」と聞いていくと、意外と慣れた人が近くにいるもの。近しい人であれば、自分が何を好きか、どんな趣味を持っているかなどを知ってくれていることも多く、最適な先生となってくれるでしょう。
 シニアは一度聞いても覚えられないものですが、そんな事情も分かってくれます。難しく考える必要はありません。互いに教え合いながら楽しむことが大切です。
 慣れたら情報発信をしてみましょう。身近で撮った写真を、遠くに住む友達や家族に送るのは面白いですよ。孫の成長を送ってもらうこともできるでしょう。レベルアップした使い方として、フェイスブックなどのSNSに挑戦するのも良いです。「いいね!」やコメントをもらえば、励みになります。
 離れて暮らす高齢者の見守りサービスが話題になってますが、毎日、情報発信していると、いつでも元気な姿を確認してもらえます。
 ネットが怖いと不安を感じる人もいますが、やみくもに怖がらず、ポイントを押さえ、できるだけ安全に使うことが重要です。
 情報発信する時は、「住所、電話番号などの個人情報」「誹謗中傷」は書き込まないようにしましょう。SNSで知らない人から「友達申請」が来ることがありますが、出どころがどういう人か分からなければ相手にしてはいけません。
 インターネットはシニアの世界を大きく広げてくれます。まずはぜひ、ネットにつながる楽しさを味わってください。
 
 まき・たけし シニアICTディレクター。1936年、山口県生まれ。慶応義塾大学工学部卒業後、旭化成工業入社。旭化成情報システム社長などを歴任。99年にリタイア後、海外でインターネットでのビジネスを実践。75歳で帰国し、新老人の会でのシニアのフェイスブックを立ち上げたほか、シニアのためのインターネット教室を主宰。81歳で一般社団法人アイオーシニアズジャパンを設立し、シニアとインターネットをつなぐための啓発活動を展開している。

 

2020年8月 4日 (火)

2020年8月4日(火)の聖教

2020年8月4日(火)の聖教

◆わが友に贈る

 大難が起こった時こそ
 強盛の信心で立とう!
 変毒為薬の仏法だ。
 「現在」から「未来」へ
 焦らず着実に進もう!


◆名字の言 正しい行いは迷わずやる――“新人”となった70歳の挑戦  2020年8月4日

 ニューヨークを舞台にした映画「マイ・インターン」(2015年公開)。定年後、新たな生きがいを探していた主人公の壮年は、70歳でファッション通販会社のシニアインターンに応募する。晴れて採用となった彼を待っていたのは、仕事の指示がメールで届くといった、前職とは全く異なる環境だった▼そこで、パソコンの起動方法すら分からなかった彼は、現状を受け止め、自分にできることから始める。荷物だらけの机を片付けたり、親子ほど年の離れた同僚の相談に乗ったり。少しずつ信頼を積み上げていくうち、誰からも好かれる社内の人気者に。40歳年下の女性社長も、彼の助言に勇気をもらい、公私それぞれの深刻な問題に立ち向かっていく▼「行動あるのみ」とは、劇中で彼が口にした信念の言葉。社長のサポートを受けながら開設したSNSの「座右の銘」の欄には「正しい行いは迷わずやれ」と記した▼年長者の知恵と経験は若い世代が学ぶべき宝であり、前進の歩みを止めない姿は私たちの模範である。このコロナ禍でも活路を開こうと、慣れないスマホやオンライン通話の活用に挑む多くの先輩方がいる▼皆がそれぞれの立場で、今できることに全力を尽くす。挑戦への応戦こそが社会を変え、未来を照らす光となる。(仁)


◆寸鉄

自分が変わり責任を持て
ば勝利できる―戸田先生
11・18へ幹部自らが率先
     ◇
世界青年部総会へ後継の
勇者が躍進!試練の時に
広布に駆ける功徳は燦然
     ◇
敵というものは忘れさせ
て狙う―御書。事故、詐欺
等に注意。祈り、油断なく
     ◇
8月は「食品衛生月間」。
丁寧な手洗い・加熱等が
大原則と。賢く健康生活
     ◇
海洋プラスチックごみの
流出、対策なしで20年後
に2倍超。行動変革皆で


【先生のメッセージ】

◆〈心に御書を〉65 大海原のように悠然と2020年8月4日

〈御文〉
 大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや、法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども・かへす事とがむる事なし(椎地四郎殿御書、1448ページ)
〈通解〉
 大海には多くの河が流れ込む。しかし、大海は河の水を返すことがあるだろうか。大海のごとき法華経を持つ行者に、多くの河の水が大難のように流れ込んでも、押し返すことや、とがめだてすることはない。

〈池田先生が贈る指針〉
 日蓮大聖人は若き日、世界一の太平洋を望まれつつ修学に励まれた。
 妙法を唱える学会っ子は、大海原のような心で大きく逞しく学ぼう!
 特に、コロナ禍の中、健気に奮闘する受験生の友を心から讃えたい。今の逆境から必ずや不屈の大人材が育つ。
 題目は全てを生かす力だ。挑戦と努力、そして勝利の青春を悠然と飾れ!

【教学】

◆「転重軽受法門」 研さんのために

 所願満足の幸福の軌道を歩むために、人生に立ちはだかる苦難をどう捉え、乗り越えていけばよいか――。ここでは8月度座談会拝読御書である「転重軽受法門」の研さんのために、池田先生の指導と解説を掲載します。(「大白蓮華」8月号も参考にしてください)

拝読御文

 涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱっときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候(御書全集1000ページ3行目~4行目、編年体御書379ページ3行目~4行目)

[池田先生の指針から]

生命の大道を堂々と歩み抜く

 濁世末法の現代において、大聖人の御精神を受け継ぎ、広宣流布のために、法華経の通り、御書に仰せの通りの難を受けてきたのは、仏勅の創価学会しかありません。
 その崇高な自覚に立たれた、日蓮仏法の現代の広布弘通の師匠が牧口先生であり、戸田先生でした。
 ある婦人が「戸田先生は、なぜ病気をしておられるのですか」と質問されたことがあります。戸田先生は語られました。
 「私が、こうして病気をしていることは、大きな『転重軽受』なのだよ。この病気で、学会が受ける大難を軽くすませているのだ」
 私は、この戸田先生の深きお心を忘れられません。
 まさに戸田先生は、来る日も来る日も、全宇宙の障魔の激流に身を投げ出して、師子王の指揮をとってくださった。
 私もまた、戸田先生の無二の弟子として、全同志の生々世々にわたる宿命転換の道を開く護法の実践を貫いてきました。
 大阪事件で、一切の矢面に立って戦う私に、戸田先生は言われました。
 「君が先頭に立って、大難を受け、戦ってくれるおかげで、本末究竟して、全同志の一生成仏の道が開かれることになる」と。
 今、全世界192カ国・地域に「宿命を使命に変える」という、生命の大道を喜々として、また、堂々と歩み抜き、変毒為薬の勝利の現証を示している学会員が数えきれないほど大勢おられる。
 これこそが、「転重軽受」の最大の実証であると確信しています。
 本抄(転重軽受法門)で、大聖人は、法華経の行者としての大確信と大闘争を、迸るような勢いで語られています。
 その一言一句の奥に「日蓮が如く強くあれ!」「日蓮とともに勝利せん!」との熱き鼓動が脈打っていると拝されてなりません。
 我が宿命と真正面から格闘しながら、友の宿命転換のために尽くし、広宣流布に生き抜いていく――この尊き実践の中にこそ、大聖人の魂は脈々と流れ通います。
 ここにこそ、無上の喜びと生きがいに満ちた「師子王の人生」が開かれゆくのです。
 (『希望の経典「御書」に学ぶ』第2巻)

苦難を乗り越え真の安楽を築く

キーワード① 力強い「蘇生の宗教」

 本抄ご執筆の約1カ月前、文永8年(1271年)9月12日、日蓮大聖人は「竜の口の法難」に遭われました。流罪地・佐渡に出発される前、明日のご自身の命も知れないという大難の渦中に、大聖人と門下が大難を受ける意味を教えられたのが本抄です。
 法華経ゆえの大難は、そのまま成仏への直道となることを諸御抄でも拝することができます。
 「難来たるを以て安楽と意得可きなり」(御書750ページ)
 「法華経の故に受ける『題目の難』であれば、捨てる身も、受ける難も全部、成仏のためである」(同1113ページ、趣意)
 大聖人が大難に屈することなく、「難に遭う意味」を自ら示されたことで、当時の門下はどれほど勇気づけられたでしょう。
 拝読御文の「転重軽受」は「重きを転じて軽く受く」と読みます。未来にまで続く過去世からの重い罪業の報いを、現世に正法を信受した功徳力によって、軽く受けて消滅させるとの意味です。
 大聖人は「地獄の苦みぱっときへて」と仰せです。十界互具の原理によって、生命に本来具わる自身の仏界を現すことができるのです。
 過去の因が現在の果への報いとなる、通常の因果をも包む“大いなる因果”を説く、大聖人の宿命転換の原理が輝きを放ちます。
 つまり、いかなる重い宿業であっても、“今、直ちに”“この身のままで”転換しゆく希望の哲理が「転重軽受」です。ゆえに、日蓮大聖人の仏法は、力強い「蘇生の宗教」なのです。

キーワード② 「一生成仏」を開く

 私たちは今を生き、未来に向かって歩みを進めています。今、どういった人生の軌道を描くかで、未来の幸不幸も決まってしまいます。その意味で、「人天・三乗・一乗の益をうる事の候」との仰せに、とても重要な意義があります。
 「一乗の益」とは成仏の功徳の意です。「転重軽受」とは、過去の宿業の“清算”ではありません。迷いの境涯の流転をとどめ、今世で人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界そして仏界の境涯を開きゆくことを示しているのです。
 池田先生は、「『転重軽受』は、即、『一生成仏』の大道を開く門です」と語っています。
 誰しも幸福を願いますが、苦難のない人生などありません。時に、「どうして自分が」と思うほどの宿命に直面することもあります。だからこそ、真の生命の安楽がもたらされるために、苦難を乗り越える根源の力が必要となるのです。
 苦難をはね返す力が、私たちの生命に等しく具わっています。御本尊を根本に、仏の勇気を湧かせて苦難に立ち向かえば、その瞬間から宿業が、自身を成仏の方向へ導く因に転換されるのです。
 さらに本抄では、「国土までとこそ」(御書1001ページ)と、自身の成仏だけでなく、国土の安穏を願っていると仰せです。
 人々の生命が無明に覆われ、悪縁に満ちた末法において、宿命転換の哲理を体現し、生命の底力を証明する学会こそ、人類と社会の“希望の光源”です。何があっても題目を朗々と唱え抜き、仏の大生命力を湧きいだして前進していきましょう。


【聖教ニュース】

◆「世界の友は今」 第13回 マレーシア創価学会 許錫輝理事長  2020年8月4日
 仏法の哲理は逆境に打ち勝つ力

 6月4日の277人をピークに、新型コロナウイルス新規感染者の減少傾向が続いてきたマレーシア。同10日には「回復のための活動制限令」が施行され、徐々に経済活動も再開している。しかし、7月中旬から新たなクラスター(感染者集団)が各地で発生しており、感染の再拡大が懸念されている。マレーシア創価学会(SGM)の活動について、許錫輝理事長に聞いた。

 ――現在の社会の状況について、教えてください。
 
 6月の「回復のための活動制限令」の施行によって、各企業の活動が始まり、学校・大学などの教育機関も再開されました。
 ただ、大勢が集まるイベント等の開催は、今も禁止されています。国民は互いの身体的距離の確保を意識し、さまざまな規制に従うなど、「新たな日常」の構築に取り組んでいます。
 商業活動が再開されたことで、経済は少しずつ良くなっていますが、正常な状態になるまでには、まだ時間がかかる見込みです。
 新型コロナの感染拡大が始まった3月から、人々の移動や経済活動が制限されたことで、仕事の環境も大きく変わりました。
 在宅勤務が増える一方で、中小企業や観光業では事業規模の縮小を余儀なくされるなど、大きなダメージを受けました。その結果、失業率は大幅に上昇し、失業者数は5月の段階で82万人にまで増加しました。
 先行きが見えない状況に、人々は不安やいらだちを覚え、不眠の症状を訴える人もいます。
「一人も置き去りにしない」 オンラインで教学の勉強会を活発に

首都クアラルンプールに立つ12階建ての「マレーシア総合文化センター」。“文化の城”“交流のプラザ”として、多彩な文化・教育の催しを行ってきた

首都クアラルンプールに立つ12階建ての「マレーシア総合文化センター」。“文化の城”“交流のプラザ”として、多彩な文化・教育の催しを行ってきた

 ――通常の活動ができない中、SGMではどのような取り組みを行っていますか。

 
 オンラインによる集いを、さまざまな形で開催しています。
 これは新しい挑戦でしたが、まずはリーダーが変化に対応するため、機器やアプリの使い方を学びました。そして「一人も置き去りにしない」との思いで、メンバーにオンライン会合の方法を伝えていったのです。
 また、電話による同志への激励も続けていきました。
 オンラインで開催した「3・16青年部拡大誓願総会」には、2000人を超える友が参加。「5・3『池田先生会長就任60周年』記念総会」「5・5『創価学会後継者の日』記念会合」などのほかに、各部別でもオンラインの集いを開いてきました。
 現在、SGMでは、次の3点の実践項目を掲げています。
 ①1日1時間の唱題を行い、コロナ禍の早期終息を祈る。
 ②毎日一人のメンバー、もしくは、友人、親戚に電話で連絡し、励ましを送る。
 ③毎日、「御書」や小説『新・人間革命』、SGMの機関誌を研さんする。
 これらの実践項目とともに、各地域で“同盟唱題”や“リレー唱題”を行っています。
 さらに、メンバー一人一人が困難や不安を乗り越えていけるよう、特に教学の勉強会に力を入れています。

 ――オンラインの集いでは、さまざまなエピソードも生まれているそうですね。
 
 特に教学の勉強会は好評で、参加者は皆、大変に喜んでくれています。勉強会の内容を友人や親戚に紹介した人も多くいます。
 また、あるメンバーの未入会の父親がオンライン勉強会に参加して、仏法の素晴らしさに感銘。その後、題目を唱えるようになったとの話も聞きました。
 集いの後には、「信心で断じて苦難を乗り越えます! 勝利します!」といった決意の声が多く聞かれます。
 SGMでは動画配信サイトで御書講義やメンバーの信仰体験なども紹介していますが、これらも同志の前進の力になっています。

 ――機関誌も、活動に活用されているのでしょうか。
 
 ええ。SGMでは英語版と中国語版の機関誌を発刊しており、活動の推進力になっています。ただ、3月半ばから5月初旬までは、コロナ対策のための規制で印刷会社も営業停止になったため、紙での発刊ができなくなってしまいました。
 しかし、PDF版をSGMのホームページに掲載し、会員が自由にダウンロードできるように対応。また公式SNSを駆使して、情報を発信し続け、多くの友に希望を送れるよう努めました。
 現在は印刷会社も営業を再開したため、紙の機関誌もメンバーの手元へ届くようになっています。
 今後、電子版の機関誌を発刊することも予定しています。

クアラルンプール郊外にあるマレーシア文化会館

クアラルンプール郊外にあるマレーシア文化会館

 ――マレーシアでも観光業が大きな打撃を受けています。経済が落ち込む中で信心根本に戦い、苦境を打開したメンバーも多くいると伺いました。

 
 ある婦人部員は、政府の規制によって、経営するホテルの営業を全面的に停止せざるをえませんでした。
 収入はゼロになり、筆舌に尽くせない不安に襲われました。しかし、断じて信心で乗り越えようと奮起。題目を唱え抜きました。
 そんな中、規制の対象外となっているインフラ関係の従業員に、ホテルを利用してもらうことを思い付きました。石油会社に連絡をすると、「しばらくの間、あなたのホテルを社員の滞在先として貸してほしい」との返答がもらえ、これにより、ホテルの客室の50%が埋まりました。その収益によって、ホテルの経営も、社員の生活も守られたのです。
 メンバーの中には、医療現場で奮闘している人もいます。
 ある男子部の医師は病院で治療に当たるとともに、フェースシールドを製作。それが州政府の目に止まり、州内の医療機関でも広く使われるようになりました。
 SGMとしても、社会貢献の活動に取り組んでいます。
 4月には国際NGO「マーシー・マレーシア」に義援金を寄付。また、コロナの影響で献血者が減少していたため、ある地域では病院の要請に応じて、献血活動にも参加し、各地でも自主的に献血に参加しています。

「利他の精神」広げ 皆が栄える社会を
 ――コロナの感染拡大は、いまだ終息が見通せません。未曽有の危機といえる状況の中、ご自身は、どのような思いで進んでこられましたか。
 
 感染の拡大が始まって以来、私は池田先生からの度重なる激励に、大きな勇気をいただいてきました。
 そして、仏法の「変毒為薬」の法理、また御書の「災来るとも変じて幸と為らん」(979ページ)との一節を心に刻み、自身を鼓舞し、同志や友人を励ましてきました。
 法華経には「三変土田」の法理が説かれていますが、妙法には、この現実の社会を仏国土へと転換していく力があります。
 また、「妙とは蘇生の義」(御書947ページ)と仰せのように、妙法には、一人一人が逆境に打ち勝つための「生命の力」を蘇生させる力用があります。
 世界全体が困難に直面している時だからこそ、日蓮大聖人の仏法、創価の哲学は、人類の希望として輝きを増しています。
 今こそ多くの同志と力を合わせて、仏法の「生命尊厳の哲理」「利他の精神」を社会に広げ、皆が共に栄える新たな時代を築きたい――そう深く決意しています。


【特集記事・信仰体験など】

◆〈私がつくる平和の文化Ⅱ〉 第8回 核兵器のない世界へ 日本原水爆被害者団体協議会事務局次長 和田征子さん2020年8月4日
 一人一人の心に「平和のとりで」を

 広島、そして長崎に原爆が投下されてから75年。被爆者による唯一の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」で事務局次長を務める和田征子さんに、核兵器廃絶への思いを聞きました。(聞き手=内山忠昭、大宮将之)

 長崎に原爆が投下された時、私は一歳十か月でした。当時の記憶はなく、折々に母が繰り返し語るのを聞き育ちました。
 爆心地から二・九キロの家の中は、爆風で粉々になった土壁、ガラス、障子や格子が一尺の高さに積もっていました。山に囲まれた長崎の地形のおかげで、私たち(祖父と母と私)は外傷もなく助かりました。火を逃れ、爆心地から金毘羅山を越えて、市街地へ降りてくる人々を、山肌に見た母はうごめく蟻の行列と言いました。チョコレート色に焼け、衣服もつけず、血で固まった髪の毛は角のようになり、男女の区別もつかない人たちのゆるやかな行列でした。どれだけの方がその山道で力尽きて亡くなったでしょうか。
 母は生前、私が母から聞いたことや母の覚え書きをもとに書いたものを読み、はなはだ不満のようすでした。「こんげんもんじゃなか」。後の言葉は続きませんでした。記憶のない者が、想像力を駆使し、多くの資料を読んでも、原爆がもたらした実相を伝えることの難しさ、そして大切さを思います。(『私の八月十五日⑥ 戦後七十三年目の証言』今人舎)

 ――和田さんの手記(別掲)を読むと、被爆体験を受け継ぐことの重みが胸に迫ります。
 母から聞いた体験を通して被爆の実相を伝えたいと、証言を続けてきました。けれど、そこにいた人が“五感”で感じたことを伝えるのは、本当に難しい。
 生前、母は、長崎に原爆が投下された8月9日になると、「あの臭いが戻ってくる」と言っていました。わが家の隣は建物疎開で空き地だったので、そこで毎日、原爆で亡くなられた方々を「ゴミのように集めて焼いた」。想像ができないのですが、「それがもう一回よみがえってくる」と。母はその臭いで、食べ物を口にすることなどできなかったそうです。私は、聞いた以上のものは伝えられない。いつもいつも、ためらいがありました。
 そんな私の葛藤を、広島の被爆者であるサーロー節子さんにお話しする機会がありました。2016年、ジュネーブで行われた核軍縮に関する国連公開作業部会でお会いした折のことです。
 サーローさんは「お母さんの話を繰り返し聞いて育ったあなたは、他の方より原爆のことを知っているんだから。あなたのような若い方が話してくださることが、私はうれしい。だから語っていいのよ」と、おっしゃってくださったんです。今は迷うことなく、母から受け継いだままの体験を語るようにしています。 

国連での核兵器禁止条約採択後の2017年11月に、バチカン市国で開かれた核兵器廃絶を巡る国際会議。和田さんとともに、池田SGI副会長も発言した
国連での核兵器禁止条約採択後の2017年11月に、バチカン市国で開かれた核兵器廃絶を巡る国際会議。和田さんとともに、池田SGI副会長も発言した

 ――残念ながら、核兵器を「必要悪」とみなす核抑止論も、いまだ根強
く残っています。
 現在、世界には1万3000発以上もの核兵器があります。なぜ、「抑止」と言って、使いもしない兵器が、これほど多く存在しなければならないのでしょうか。
 また、核兵器の小型化など、さらなる開発も進んでいます。操作ミスで偶発的に発射されたり、テロリストの手に渡ったりするかもしれない。使われない保証など、どこにもありません。
 国際会議では、核兵器の「非人道性」が叫ばれています。一度使われてしまったら、その影響は国境を越え、地球環境に壊滅的な影響を与えます。どこの国も、もし核兵器の攻撃を受けたら、国民を治療する方法など持ち得ないのです。それなのに、自分の国のことだけを考え、核抑止論を主張するのは、おかしいと思います。
 核兵器は「必要悪」ではなく「絶対悪」です。核兵器禁止条約にある通り、使用どころか、開発や保有も禁止されるべきです。人類が二度と過ちを繰り返さないように、自分たちの体験を通し、核兵器の廃絶を訴え続けることは、歴史から与えられた私たちの使命だと思います。

 ――核兵器に対しては、「問題が大きすぎて、自分のこととして捉えられない」といった声も聞かれます。
 「自分事」として想像力を働かせていただきたい。もし核兵器が使われたら、自分や家族の身にどんな影響が及ぶのか――と。
 例えば、いま“目に見えない「新型コロナウイルス」”に対しては、世界中の人々が「自分事」として捉えています。マスクをしたり、手洗いを励行したりと、自分にできる行動を起こしながら、一日も早い終息を祈っていますよね?
 同じように核兵器も、目には見えなくても私たちの“目の前”に存在している脅威なんです。だから「自分事」として捉え、“核兵器をなくそう”という声を結集することだって、できるはず。コロナはワクチンができれば、ある程度収まるかもしれません。しかし、世界平和は、核兵器の廃絶なくしては絶対に実現できません。
 有名なユネスコ憲章の前文には、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とあります。
 私はクリスチャンとして、日々の祈りを通し、人間を超えた「大いなる存在」への畏敬の念を持つことの大切さを感じています。そうした宗教性や敬虔さが、自分の心の中に「平和のとりで」を築く源泉になるのではないでしょうか。
 これは、核兵器廃絶における「宗教の果たす役割」として議論されてきたことです。結局、核兵器を「自分事」にできるかどうかは、もう一歩深い次元で、私たち一人一人が自分の内面に持っているものをいかに開発できるかに、かかっているのだと思います。

 ――自分の心に「平和のとりで」を築くことが「平和の文化」を築く第一歩であると確信して、私たち創価学会員も活動を続けています。日本被団協の皆さまが中心となって進めてこられた「ヒバクシャ国際署名」の推進にも、一段と注力していきます。
 心強い限りです。「ヒバクシャ国際署名」は2016年4月に始まりました(創価学会平和委員会も参加)。意外だと思われるかもしれませんが、それまで、被爆者自身による署名活動はなかったんです。平均年齢は当時81歳。“生きているうちに何としても核兵器のない世界を実現したい”という強い思いがありました。
 その結果、翌17年6月の「核兵器禁止条約」の交渉会議では、296万3889人分の署名を、会議の議長を務めたコスタリカのホワイト大使に手渡すことができました。そして翌7月、同禁止条約が国連で採択されたのです。市民社会の声が世界を動かしたことは、間違いありません。先日も、国連
事務次長で軍縮担当上級代表を務める中満泉さんが、被爆者の署名活動への感謝の言葉とともに、「エネルギーの源になっている」とおっしゃってくださいました。
 現在、署名は“「核兵器禁止条約」に全ての国が加盟し、核兵器が廃絶されることを求める”ものとして広がりを見せていますが、いよいよ来月18日で終了となります。
 署名をしてくださった一人が、次の一人へと「平和への思い」を語る。その思いに触れた人が、また次の一人へと語っていく――そうやって、核兵器廃絶への大きな流れが生まれていくことを願ってやみません。

 わだ・まさこ 1943年、長崎県長崎市生まれ。1歳10カ月の時に被爆。母親から受け継いだ体験を長年にわたって国内外で語り継いできた。2015年に日本被団協の事務局次長に就任。ヒバクシャ国際署名にご協力を 9/18まで

 「ヒバクシャ国際署名」は、ウェブサイト(https://hibakusha-appeal.net)で署名できます。

池田先生の箴言

絶対に悲劇を繰り返させない――長崎市平和公園の「平和祈念像」に献花し、原爆犠牲者への祈りをささげる池田先生(1982年5月)
絶対に悲劇を繰り返させない――長崎市平和公園の「平和祈念像」に献花し、原爆犠牲者への祈りをささげる池田先生(1982年5月)

 核兵器の存在を
 抑止のための“必要悪”としてきた
 「国益」優先思考から、
 核兵器使用を
 いかなる理由があろうとも認めない
 “絶対悪”の立場、
 「人間益」を最優先させる思考への
 脱却を図らなければならない。
                        ◆◇◆ 
 「人間と人間の連帯」
 「心と心の連帯」の拡大こそが、
 「平和の文化」のほかならぬ実践
 であることを、改めて確認しておきたい。
 平和が人間一人ひとりの心の中に
 根づいてこそ、「平和の文化」を
 全地球的規模に広げることができ、
 永続化させることができると
 私は確信するのです。
                               池田 大作  
 (前半は、『池田大作名言100選』、後半は、第25回「SGIの日」記念提言から)

「平和の文化」とは

 国連は1999年に「平和の文化に関する宣言及び行動計画」を採択し、生命の尊重、教育・対話や協力を通した非暴力の実践、環境の保護、男女の平等や人権に基づいた価値観、態度や振る舞いを「平和の文化」として推進しています。「平和の文化」は、日々のあらゆる場面で、異なる人や考え方に寛容になり、対話によって理解し、対立を乗り越え、連帯を広げていくという、私たち一人一人の生き方の変革から始まります。


◆〈文化〉“いのちの選別”への危惧コロナ禍の中の高齢者・障害者  島薗進 2020年8月4日
 誰もが尊くかけがえのない存在
 トリアージの限界知ることも
 生きづらさ語るテレビ会議

 NHKのEテレで木曜日の午後8時から「バリバラ」という番組がある。この「バリバラ」で5月7日に「生放送 新型コロナ V7★世界テレビ会議」が放映され、その内容が番組のホームページに掲載されている。
 「V7」とは「(Vulnerable)な7人」、つまり「難儀にさらされやすい7人」が語り合うという意味だ。その一人は、イタリア政府コロナ対策委員会のメンバーで、車いすユーザーのジャンピエロ・グリッフォさんだ。日本では政府の対策に関わる委員会にこのような立場の方が入っているだろうか。そのグリッフォさんが言う。
 「イタリアではシチリアや北部の施設が厳しい状況です。亡くなった人の半数は、隔離された施設の高齢者や障害者たちなんです。ひどいです、本当に残酷です。もし地域の中に暮らしていたら、もっと守られたでしょう。でも施設の中となると、どんな状況なのか、誰にも分かりません。障害者は見えない存在とされているのです。みんなが大変な状況の下では、誰も障害者のことを気にかけなくなるのです」
 イギリス在住のジョン・ハスティーさんは、トリアージの議論に入る前に立ち止まって考えてほしいと訴えた。
 「トリアージありきの議論は危険です。受け入れていることになりかねません。トリアージは、本当に最後の最後の手段です。私が気になるのは、いくつもの機関が早々にガイドラインを出してきたことです。ガイドラインは、障害者を切り捨てる口実を与えているようなものです。障害者への偏見は今もあります。偏見をもとに、命を選ぶ判断がなされかねないのです」
 「トリアージ」への懸念は他の人たちも語っている。

医療崩壊で広がる順位付け
 では、「トリアージ」とは何か。この言葉は、フランス語の「trier(選別する、選り分ける)」に由来する。医療に関わってこの語が用いられたのは、ナポレオン戦争のときからだ。戦地では、傷病者をどの順番で輸送し治療するかの順位付けをせざるを得ない。その後、「トリアージ」は範囲を広げ、現在では救急医療や災害救援において重要な概念となっている。
 災害や事故の現場で多くの傷病者がいた場合、1「緊急(最優先)治療群」、2「準緊急(待機的)治療群」、3「保留(軽症)群」、4「死亡群、治療・輸送待機群」と優先順位を付ける。第4段階に振り分けられると、医療機関への搬送は最後に回される。
 新型コロナ感染症では医療崩壊の危機が度々、報じられている。実際、中国の武漢でも、米国やイタリアなどでも重症者用のベッドが足りなくなり、見放されて死んでいかざるを得ない人が多数出てしまった。
 他方、コロナ以前からトリアージのロジックを拡張して、一定範囲の人々は「死亡群」に振り分ける態勢を取っている比較的豊かな国がある。スウェーデンはその典型で、ふだんから集中治療室(ICU)に空床がない場合、80歳以上の人や余病のある人は集中治療室の適用外という判断が早期に下される。
 新型コロナ感染症では、たとえ空床があっても集中治療室の適用外と判断することが常態化した。これが裏目に出て、高齢者施設ではPCR検査が控えられた時期もあり、たくさんの高齢者が亡くなった。高齢者の治療を控えるという選択はオランダでも取られたという。ここでは70歳が区切り目になっている。
 NHKのバリバラでの発言はそうした事情を反映したものだ。「いのちの選別」を年齢の基準で許容すれば、他の基準に及ばないという保障はない。治療によって回復する見込みが相対的に大きくないとか、余命が他の人より短いとか見なされると回復のための医療措置を受ける範囲から外されてしまうことになりかねない。糖尿病や心臓疾患やがんで治療が続いている人も同様の恐れをもつだろう。

人工呼吸器の配分巡る提言
 日本でも重症患者に装着される人工呼吸器の不足が懸念されている。すでに3月30日に、生命・医療倫理研究会有志が連名で「COVID―19の感染爆発時における人工呼吸器の配分を判断するプロセスについての提言」を公表し、4月1日の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の記者会見で紹介された。
 この提言では、まず「人工呼吸器が不足しており、人工呼吸器を装着する患者の選択を行わなければならない場合には、災害時におけるトリアージの理念と同様に、救命の可能性の高い患者を優先する」としている。同じコロナ感染症による重症の場合、高齢者や他の疾患があったり障害があったりすると、「救命の可能性」がより「高くない」と見なされ、放置されることになる。
 また、「救命の可能性がきわめて低いとまでは言えない患者から、人工呼吸器の再配分のために人工呼吸器を取り外す場合」についても詳しく述べている。人工呼吸器を取り外してもよい、ただし「本人の同意(本人の事前の意思表示や家族等による意思の推定を含む)を前提とすることを原則とする」としている。
 まだ、助かる可能性がある人でも、余命がさほど長くないと見なされた場合、同意があれば人工呼吸器を取り外してよいことになる。これは平常時には生命倫理上、許されないことであるが、コロナ感染症による危機的状況では許容できるというのだ。

救助者の治療の優先度を判定するトリアージは災害医療の現場で活用されてきた(写真は羽田空港で行われた救急訓練、2015年10月)

救助者の治療の優先度を判定するトリアージは災害医療の現場で活用されてきた(写真は羽田空港で行われた救急訓練、2015年10月)

忘れてはならない視点
 「いのちの選別」に積極的に備えることを唱えるこの提言に対して、抗議の声が上げられている。4月11日には、障害者の権利を守る活動に取り組んでいる団体(DPI日本会議、全国自立生活センター協議会)などが、安倍首相に宛てて「新型コロナウィルス対策における障害のある者への人権保障に関する要望」を提出している。
 そこでは、「医療従事者の間で『誰に人工呼吸器を配分するべきか』というルール作りのための議論が始まっていることに、私たち障害者は大変な危機感を抱いています」とある。そして、「優生思想につながる障害を理由とした命の選別が推進されることがないようにしてください」とし、医療機関のコロナ感染症受け入れ態勢を拡充する、人工呼吸器を増産するなどして、「いのちの選別」が起こることのないように十分に備えることを求めている。
 「COVID―19の感染爆発時における人工呼吸器の配分を判断するプロセスについての提言」では、「性別、人種、社会的地位、公的医療保険の有無、病院の利益の多寡(例:自由診療で多額の費用を支払う患者を優先する)等による順位づけは差別であり、絶対に行ってはならない」としている。だが、予測される余命が長いか短いかで選別することは差別ではないだろうか。多くの障害者がそれを差別だと感じ取っている。これは日本だけのことではなくて、世界各地で同様である。
 「役に立たないいのちは存在理由がない」という考えで障害者を殺害した事件も起こった。だが、多くの人々は「いのちの重さは比べられない」「どのいのちも尊くかけがえがない」と信じている。「トリアージ」の限界を考える際、忘れてはならない視点である。
 (上智大学グリーフケア研究所所長)

 しまぞの・すすむ 1948年、東京都生まれ。東京大学名誉教授。上智大学大学院教授。主な研究領域は近代日本宗教史、死生学。日本宗教学会会長など歴任。著書に『現代宗教の可能性』『<癒す知>の系譜』『ともに悲嘆を生きる』、『死生学1 死生学とは何か』(共編著)などがある。


◆〈信仰体験〉生きるよろこび 難病のわが子と歩んだ20年
クリッペル・トレノネー・ウェーバー症候群
勇気のある人は 幸せになれる

 【三重県松阪市】目に入れても痛くないほど、わが子がかわいい。本当は無理をさせたくないが、それでは本人のためにならない。将来を思えば、自立できるように力を付けさせたい――。加藤真弓さん(48)=婦人部グループ長=の息子・侑将さん(21)=男子部員=には、見た目に大きな特徴がある。病との闘いに加え、周囲の好奇な視線にさらされた。それでも加藤さんは、“強くなれ、強くあれ”と育ててきた。

 今年1月。加藤さんは、侑将さんと幼なじみの友人を車に乗せ、成人式の会場へ向かった。久しぶりの二人の再会。後部座席では会話が弾んでいた。
 ふと目線を上げた侑将さんが、宣言するように言った。「俺、顔曲がっとるけどさ、そんなん気にせんで、生きていくことにするわ」
 その発言に、友人が思わず「えっ、いまさら? これまでずっと、そうだったじゃん」。車中に笑い声が広がった。
 “悩んできたんやろうな”。二十歳を迎えた喜びを、加藤さんはしみじみと感じた。

 出産前のエコー画像から、胎児に腫瘍があると聞かされていた。だが加藤さんは、実感が湧かないでいた。
 待ちわびた対面の時。抱き上げた赤ん坊は軽く、痛々しい姿をしていた。
 左の頰ほおは大きく膨らみ、太もも、お尻が異常に腫れ上がっていた。一方で上半身は、栄養分を吸い取られたようにガリガリに痩せていた。
 加藤さんは母乳を搾り、入院中の赤ん坊のために届けた。しばらくすると、それも腫瘍を大きくすると分かり、中止に。点滴を頼りに生きる息子を見つめ、ただ祈るしかなかった。
 全身に広がるリンパ管に先天的な奇形がある「リンパ管腫」と診断。「立つことも歩くこともできないでしょう」と告げられた。
 1歳になるのを待ち、腫瘍の摘出手術に踏み切った。だが切除した場所は再び膨らみ、元の状態に。放射線治療や巨指症の足指の骨を抜く手術など、あらゆる手を尽くしたが、そのたびに期待は大きく裏切られた。
 4歳の時、新しい病名が付いた。後に厚労省の指定難病となる「クリッペル・トレノネー・ウェーバー症候群」。信頼できる医師と出会うことで、「治療しないことが最善の治療」との結論にたどり着く。根治術がなく、腫瘍は良性で、症状が出るたびに対処していくことになった。

 侑将さんは幼い頃のほとんどを、病院で暮らした。加藤さんは離婚し、息子と二人で生きる道を選んだ。弱気な姿は見せたくなかった。
 母・光代さん(67)=支部副婦人部長(地区婦人部長兼任)=はいつも励ました。「祈ろう。あなたが負けたらあかんよ」。加藤さんは4人きょうだいの長女。母はどんな時も、御本尊を中心に全てを乗り越える人だった。反発したこともあったが、母は祈りの大切さを打ち込んでくれた。きょうだいも、県外の病院と自宅を往復しながら働く加藤さんを支え、侑将さんの世話を買って出てくれた。
 家庭でも病院でも、侑将さんは愛される存在だった。

 入院患者から「こっちおいで」と誘われては、“あめちゃん”をもらった。一部屋ずつ愛嬌を振りまいて回った。
 だが一歩外に出れば、好奇の目にさらされた。
 近所のスーパーマーケットに行くと、侑将さんの後ろを、同世代の子どもが付いてきた。「見ちゃダメ」と耳打ちする親、ジロジロとした視線。全てが苦痛だったが、目をそらさなかった。「侑(ゆき)の病気のこと知らんから、近寄ってくるんやで」と、わが子に言い聞かせた。
 小学校では嫌がらせ、からかいの対象になった。心ない言葉に泣いて帰ってきたことも。
 加藤さんはひたぶるに祈った。“どうか、この子に勇気をください。頑張る力をください”
 池田先生の『希望対話』の一節が胸にあった。「『勇気』のある人は『幸福』になる。『勇気』のない人は『不幸』になる。そう言ってよいくらい、勇気があるかないかで、人生は百八十度、変わってしまう」
 何度も学校に掛け合い、担任と相談を重ねた。クラスで話し合い、全校児童の前で皆が「侑君の良いところ」を発表することになった。
 体育館でクラスメートがそれぞれ、声を上げた。「痛い注射や手術も、何度も我慢しました」「歩くのも大変なのに、一生懸命に学校に通ってます」
 いつしか他の保護者から「侑君のおかげで優しくなれた」と感謝されるようになっていた。

 あちこちにある腫瘍は時折、“悪さ”をする。発熱や疼痛との付き合いは、日常的になった。
 片足を引きずり、背骨もわん曲し、真っすぐ座れない。それでも侑将さんは物おじせず、自転車を漕いで、どんどん進む。
 侑将さんには夢中になれる趣味がある。“電車”だ。大好きな電車の話なら、いつまでもしゃべっていられた。
 “この笑顔のためなら、何でもかなえてやりたい”。日本中への旅が始まった。侑将さんが時刻表とにらめっこしながら、自ら計画を立てていく。
 それを加藤さんがチェックする。歩く速度に合わせ、乗り継ぎ時間は多めに。体調を崩した場合に備え、トイレの位置を常に確認。苦心してかなえた母子の旅は楽しかった。
 知的障がいがあっても漢字は駅名で覚え、電車賃の計算で算数に親しんだ。
 旅先で奇異な目を向けられても、侑将さんは「良い意味で諦めた」という。「人が俺をどう見るかは、変えられん。だったら、気にせずに楽しめばええ」
 一人旅にも挑戦。課題は自力で靴下がはけないこと。「誰かに頼めると、いいんやけどなあ」と侑将さんが言えば、「何でも試してみんと」と母がハッパを掛ける。
 侑将さんは高校卒業後、作業所で働く。給料を貯め、念願の一眼レフカメラを手にした。「車の免許も取って、自立したい」。そう主張するのを聞きながら、母はいつも祈る。“この子が幸せだと感じられる人生を”と。
 「題目は“福運の貯金”だと思うてます。いつでも渡せるように、たくさん積み立てておきたい」。美しい親心が光っていた。

 

2020年8月 3日 (月)

2020年8月3日(月)の聖教

2020年8月3日(月)の聖教

◆今週のことば

 友の幸福と社会の安穏を
 今日も強く祈りゆこう!
 「自他共に智慧と慈悲と
 有るを喜とは云うなり」
 新時代に深き生命観を!


◆名字の言 講談界の人間国宝が心に刻む言葉2020年8月3日

 講談界で初の人間国宝に認定されたのは、六代目一龍齋貞水氏。座右の銘は「偉大なる未完成を目指す」である▼62歳での栄誉だったが、実は自分では、前座時代のように勢いのある高座は、体力的に難しいと感じていたそうだ。そんな時に思い出したのが、かつて先輩に言われた「芸は枯れちゃいけねえ」との言葉。つまり“年齢を理由に芸を衰えさせてはいけない”と▼そこで氏は、「赤穂義士伝」「緑林五漢録」などの長編読み物に、失敗を恐れず挑むように。またジャズダンスや京劇との共演のほか、ヨーロッパ公演を行うなど新しい取り組みを始めた。「芸人は死ぬまで勉強」という氏は、81歳の今も、がんと闘いつつ高座に上がる(塩崎淳一郎著『評伝 一龍齋貞水』岩波書店)▼どんな世界でも、“現状に満足せず努力を重ねる人”は、人々に勇気と生きる力を与えてくれる。人は往々にして“こんなものだ”“これくらいで”と考えがちだが、それは自分を諦めるに等しい。そこに生命の躍動や精神の輝きはない▼日蓮大聖人は「いよいよ強盛の信力をいたし給へ」(御書1143ページ)と。成長の夏を目指して“今”“ここ”から、新たな挑戦を開始しよう。“いよいよ”の心から、未来の可能性は無限に広がっていく。(誼)


◆寸鉄

会長の対談集には混迷の
中から未来開く展望が―
識者。今こそ胸に刻んで
     ◇
学生部が教学実力試験へ
研鑽の夏。剣豪の修行の
如く!民衆守る知性磨け
     ◇
人材を育てる人が人材―
恩師。次代の青年励まし、
共に青年の心意気で前進
     ◇
運動不足による身体機能
低下で感染症への抵抗力
が弱まると。聡明に工夫
     ◇
親が5%変われば子ども
は50%変わる―教育者。
親は子の鑑。挑戦の姿を


【先生のメッセージ】

◆〈随筆「人間革命」光あれ〉池田大作 富士のごとく堂々と2020年8月3日

 はじめに、東北・山形の最上川の氾濫、また秋田の水害に、心よりお見舞い申し上げます。
 この七月、記録的大雨により、熊本はじめ九州各地、また岐阜・長野などで甚大な豪雨災害が続きました。農林水産業の被害も深刻です。コロナ禍の中、大変な御苦労をされている皆様方の健康と無事安穏を祈り、被災地の一日も早い復旧・復興を願ってやみません。
 御書に「災来るとも変じて幸と為らん」(九七九ページ)と仰せのごとく、断じて変毒為薬の勝利劇をと、題目を送り続けてまいります。

挑戦! 大いなる夢へ成長の夏

緑の木立の彼方に現れた七彩の虹――。若人よ、わが人生の大空にも鮮やかな勝利の虹を懸けゆけ!(池田先生撮影。7月26日、都内で)

緑の木立の彼方に現れた七彩の虹――。若人よ、わが人生の大空にも鮮やかな勝利の虹を懸けゆけ!(池田先生撮影。7月26日、都内で)

大樹が林立せり
 「二十一世紀が勝負」と私は心定めてきた。
 創価の民衆の大地から二十一世紀の世界へ、どれだけ社会貢献の地涌の人材群を送り出せるか。
 誰よりも若人を慈しまれた牧口・戸田両先生と不二の祈りを込めて、私は未来部の薫陶に全精魂を注いできた。広布の父母たちと一緒に耕してきた人間教育の土壌の上に、今、仰ぎ見る後継の大樹が林立している。みんな立派になった。本当によく育ってくれた。
 何より頼もしいことは、「従藍而青」の人材が次の人材を育てる、「令法久住」の励ましの連鎖が、限りなく続いていることである。
 とりわけ、私の心を心として献身してくれている、未来部担当者の方々に感謝は尽きない。

未来部は世界の創価家族と共に!

21世紀人の使命
 今の未来部の友は、まさに「二十一世紀人」だ。
 高校三年生を先頭に、二〇〇二年以降の生まれであり、二十一世紀とともに青春の年輪を刻み、「人生百年時代」を飾りゆく世代である。
 思えば、フランスの大文豪ビクトル・ユゴーは、一八〇二年生まれであり、十九世紀の先頭を進みゆく人生の誇りを、生涯、持ち続けた。
 わが師・戸田城聖先生は一九〇〇年に誕生され、二十世紀の民衆の悲惨な命運を大転換するために戦い抜かれた。
 そして、戸田先生より百年の歳月を経て、躍り出た二十一世紀の「平和の旗手」こそ、わが未来部の一人ひとりなのだ。
 人類は今、コロナ禍という世界的な危機に直面している。大きな不安や制約や変化の中で、勉学に挑む高校・中学・小学生の皆さんの苦労もひとしおであろう。
 しかし、若き日に大きな試練を乗り越えることは、それだけ自分が鍛えられ、大きな使命を果たしていける。偉大な価値を創造していけるのだ。
 なかんずく、「冬は必ず春となる」(御書一二五三ページ)という希望の大哲理を抱いた青春は、何ものにも負けない。
 日本はもとより、世界でも、未来部の友は、コロナ禍に屈せず、強く朗らかに前進している。
 各国・各地で、直接会えなくても、オンラインを活用して、共に歌い、共に演奏し、共に語り、共に励まし合っている様子も伺った。
 未来部は、一人ももれなく「法華経の命を継ぐ人」(同一一六九ページ)である。その伸びゆく命の輝きこそ、何ものにも勝る人類の宝であり、世界の希望なのである。

「道」を開きゆけ
 未来部の友と進む道は、風雨を越えて夢とロマンの虹が光る。
 半世紀ほど前、静岡の研修所で、未来部の友と一緒に新しい道をつくった思い出がある。共に汗を流し、石拾いや草むしりに精を出した。「道をつくる」苦労と誇りを、実際に体験してもらいたかったのである。
 私は語りかけた。
 「道ができれば、みんながそこを歩けるようになる。ぼくは君たちのために、懸命に道を開いておくよ。君たちは、さらに、その先の、未来への道を開いていくんだよ。それが師弟の大道だ」
 この時、「世界広布の道を開く人材に」と夢を広げた女子中等部の友は、その後、創価大学へ進学し、モスクワ大学への最初の交換留学生となった。祈り、学び、努力を重ね、ロシア語通訳・翻訳の第一人者として、両国の平和友好の道、後進の育成の道を開いてくれている。
 このたびモスクワ大学出版会から最終巻が発刊されたロシア語版『法華経の智慧』(全六巻)の翻訳にも、世界各地の友と尽力してくれた。
 創価の師弟が開く探究と創造の「この道」は、地球を包んでいくのだ。読書を力に前へ

訪れた教室で、子どもたちのために、大きな富士の絵を描き残す。「しっかりね」「お元気で!」等の言葉も添えて(1983年3月、大阪・枚方市の関西創価小学校で)

 この夏、未来部の友は「ドリームチャレンジ期間」と掲げて、成長の日々を刻んでいる。

 お父さんやお母さん、担当者の方の応援を受けながら取り組む読書も、作文も、絵画も、語学も、まさしく「ドリーム(夢)」を見つけ、広げ、深めるチャンスとなる。楽しく伸び伸びと「チャレンジ(挑戦)」してもらいたい。
 私が友情を結んだ世界の知性も、読書を通して、夢を広げてこられた。
 核兵器廃絶に人生を捧げた、パグウォッシュ会議名誉会長のロートブラット博士が、少年時代の宝とされたのも、「読書の喜び」である。
 ポーランド出身の博士の幼き日、第一次世界大戦が起こる。家は貧しく、二切れのパンが一日の食事という日もあった。そんな博士の楽しみは科学小説などの本を読むことであった。
 「本当に悲しく、悲惨な時代であったからこそ、私は『夢』を求めていたのです」
 若き博士は「科学を通して、人間が戦争をしなくてすむような世界をつくろう」と誓い、苦学の末、世界的な科学者になる夢を実現する。そして「核兵器のない平和な世界」という夢を、命の限り追求し続けたのだ。
 広島、長崎、また沖縄の惨劇を二度と繰り返してはならない。人類の平和こそ我らの悲願である。
 私が「後世に残せるような小説を書きたい」という夢を抱いたきっかけも読書であった。ユゴーの傑作『レ・ミゼラブル』との出あいである。
 以来、幾十星霜を経て、小説『人間革命』『新・人間革命』を書き残すことができた。全て恩師から私への個人教授「戸田大学」での薫陶の賜物であり、多くの方々の応援のおかげである。
 とともに、牧口先生、戸田先生から託された夢を、創価大学や創価学園の創立をはじめ、私は全て実現した。
 次なる私の夢は何か。
 世界中の未来部の皆さん一人ひとりが勇気の翼を広げ、自身の夢を実現してくれることだ。

皆が人材なりと胸を張れ

池田先生が絵筆を執られた屏風絵「富士」(水彩)。堂々たる富士を仰ぐ緑の丘には、満開の桜や松の木も。1979年5月5日、横浜の神奈川文化会館で描かれた

王者の山を描く
 私は、未来部の友の躍動する絵画を鑑賞するのが大好きである。
 私自身は絵が得意ではないが、宝の未来部に思いを馳せながら、富士山を描いたことがある。
 一九七九年(昭和五十四年)の五月五日――私が名誉会長になって最初に迎えた「創価学会後継者の日」である。「正義」「共戦」の一連の書を書き留める最中であった。
 横浜の海を望む神奈川文化会館で、絵筆を屏風に走らせた。朝焼けの紅に包まれる富士である。手前の緑の丘には、満開の桜や枝を広げた松の木を配した。一本一本が伸びゆく人材なりと祈りを込めたのである。
 四年後(一九八三年)の三月、大阪・枚方市の関西創価小学校を訪れた時のことだ。楽しい催しが終わり、皆が下校した静かな校舎内を視察した。
 ある三年生の教室の黒板に、青のチョークで「この一年 元気にがんばりました」と書かれた文字が、目に留まった。その隣には、仲良く球技に興じる絵もあった。
 この絵手紙への返事をと、私はチョークを手に取った。そして、黒板に向かうと、児童たちの健闘を讃えつつ、“いつか一緒に「王者の山」を登りゆこう”との願いを託して、大きな富士の絵を描いていった。
 「あれになろう、これに成ろうと焦心るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ」(吉川英治作『宮本武蔵』講談社刊)
 ――師が愛弟子に語りかけたこの一節を、人びとの心が揺れ動く今だからこそ、私は「負けじ魂」燃ゆる友に贈りたい。
 日蓮大聖人は、富士を仰ぐ天地で、大難と戦う若き弟子・南条時光に、「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(御書一五七八ページ)と仰せになられた。
 妙法を受持した最高に尊貴なる創価後継の友よ、富士のごとく、堂々と頭を上げて胸を張れ!
 壮大な夢を描き、明朗闊達に挑戦しよう!
 君たちが、二十一世紀の地球社会を、平和と幸福と共生の崩れざる宝土に築きゆくのだ。
 不二の「正義の走者」の君たちよ、「生命の世紀」「人間革命の世紀」の大空に、凱歌の虹を鮮やかに懸けてくれ給え!
    (随時、掲載いたします)


【教学】

◆〈日蓮大聖人の慈愛の眼差し〉 日眼女  「陰の労苦」に無量の福徳が
 夫・四条金吾を支えて共に信仰に励んだ門下 
 大聖人から「日本第一の女人」とたたえられる

神奈川・鎌倉市に立つ鎌倉国際教学会館。昨年、開館20周年を迎え、新たな名称となった。この鎌倉の天地を舞台に四条金吾夫妻は強盛な信心に励んだ
神奈川・鎌倉市に立つ鎌倉国際教学会館。昨年、開館20周年を迎え、新たな名称となった。この鎌倉の天地を舞台に四条金吾夫妻は強盛な信心に励んだ

 広布のための地道な「陰徳」は、必ず「陽報」となって前途を照らしていく。
 御書には、日蓮大聖人が門下一人一人の「陰の功労」を心からたたえ、感謝される真情が数多く記されている。
 早くから大聖人に帰依し、不退の信心を貫いた四条金吾が、さまざまな苦難に遭いながらも、大聖人をお守りし、鎌倉門下の中心者として活躍できた背景には、妻である日眼女の支えがあった。その功労は、大聖人の慈愛あふれるお手紙から、うかがい知ることができる。

 文永7年(1270年)、日眼女は待ち望んでいた子どもを身ごもったと推定される。翌文永8年(1271年)5月8日、金吾宛てに送られた「月つき満まろ御前御書」によれば、日眼女は無事に女児を出産し、大聖人は、早速、「月満御前」と命名された。
 新たな命を授かり、喜びに包まれていた金吾夫妻を揺るがす一大事が起きる。同年9月12日の竜の口の法難である。
 平左衛門尉頼より綱つなが兵士を率いて大聖人を捕縛ほばく。大聖人はその深夜、拘留されていた北条宣のぶ時とき邸から密ひそかに連れ出され、鎌倉近郊で処刑されようとした。
 金吾邸の近くを通った大聖人は、使いの者を金吾に送る。その急の知らせを受けた金吾は、大聖人の元へ、裸足はだしで駆け出した。そして大聖人の馬の口に取り付き、大聖人が処刑されたなら自分も一緒に死ぬという覚悟でお供したのである。
 夫を送り出した日眼女は大聖人と夫の身の上を案じて題目を唱え、眠れぬ一夜を過ごしたに違いない。
 大聖人一行が竜の口に到着し、処刑が行われようとすると、江の島の方から「光り物」が現れ、刑の執行はできなくなった。金吾は依え智ち(神奈川県厚木市内)まで大聖人にお供した後、帰宅した。
 夫から竜の口での出来事を聞いた日眼女は、究極の大難にあっても悠然ゆうぜんと乗り越えた師の偉大さを命に刻んだことだろう。

大地よりも厚く 空よりも高い真心

 その後、大聖人が佐渡に流罪されると、多くの門下が弾圧に遭って退転していった。しかし、金吾夫妻は御供養の品々を送ったり、金吾自身が佐渡を訪れたりと、大聖人を外護した。
 文永9年(1272年)4月に日眼女に送られた「同生同名御書」では、夫を鎌倉から佐渡へはるばる送り出した日眼女を、大聖人は最大に称賛されている。

 「あなた方は、鎌倉にいながら、人目をはばからず、命を惜しまず、法華経の信心をされていることは、ただごととも思われません」(同1115ページ、趣意)
 「このような乱れた世に、この殿(金吾)を佐渡の地まで遣わされた、あなたの真心は大地よりも厚いのです。必ず地神も知っていることでしょう。また、その真心は虚空よりも高いのです。きっと梵天・帝釈も知られていることでしょう」(同ページ、通解)

 当時、鎌倉では、良観ら諸宗の悪僧に唆(そそのかさ)れた幕府要人らが、大聖人の門下を激しく迫害していた。二月騒動(北条氏一族の内乱)による混乱もあったと考えられる。
 そうした逆境にもかかわらず、夫を佐渡に送り出して留守を務めた日眼女に、大聖人は、誰が見ていなくても広布を支え抜く福徳は計り知れないことを教えられたのである。
 さらに、佐渡でしたためられた金吾宛てのお手紙には、「太陽と月」「二つの眼(まなこ)」「鳥の二つの翼」のように、夫婦でぴたりと呼吸を合わせて、信心に励むように指導されている。
 文永11年(1274年)、大聖人は佐渡流罪を赦免されて身延に入り、民衆救済の大闘争を門下に呼び掛けられる。金吾は師の戦いに呼応して、主君を折伏した。
 しかし、そのために、金吾は主君から不興をかい、遠ざけられ、同僚たちからもさまざまな圧迫を受けるようになる。それでも金吾夫妻は助け合って信心を貫き、身延の大聖人を支えたのである。

強き信心の人を 諸仏・諸天が守る

 当時、金吾の命をつけ狙う者もいた。大聖人は金吾に対して、命を守る生活上の注意を繰り返し指導されている。
 あるお手紙を拝すると、昼の宴席も油断できないものとされ、金吾が安らげるひとときがなかったことがうかがえる(同1133ページ参照)。
 日眼女の周りにも、法華経の信仰に対する理解が不十分で、日眼女と距離を置くようになった者もいたであろう。八方ふさがりの状況に、日眼女はどれほどつらく、悔しい思いを重ねたか、計り知れない。
 そんな彼女に対して、「四条金吾殿女房御返事」で、大聖人は次のように渾身の激励を送られた。

 「全ての人が憎むならば憎めばよい。釈迦仏・多宝仏・宇宙のあらゆる仏をはじめ、梵天・帝釈・日天・月天らにさえ、大切に思っていただけるならば、何がつらいことがあるでしょうか。法華経にさえ、ほめていただけるならば、何もつらいことはないのです」(同1135ページ、通解)

 さらに大聖人は同抄で「妙法を持つ女性は、他の一切の女性に優れているだけでなく、一切の男性にも超えている」(同1134ページ、通解)と訴えた。そして、けなげに信心に励み、夫を支える日眼女を「日本第一の女人なり」(同1135ページ)とたたえた。日眼女にとって、大聖人のこのお言葉がどれほど心の励みになったことだろう。
 後に金吾は、病気になった主君の看病・治療を通して、以前にも増して主君からの信頼を取り戻し、所領も増えた。建治4年(1278年)に御執筆されたお手紙には、金吾が主君の出仕のお供をした折、鎌倉の子どもたちから“一行の中で四条金吾こそ第一である”とほめたたえられたことが記されている(同1175ページ参照)。長い間の苦しみを乗り越えた日眼女にとっても大聖人から贈られた「日本第一の女人」とのお言葉のような称賛が周囲から寄せられたに違いない。
 弟子の「陰の戦い」をじっと見つめる師匠。師匠は全てを知ってくださっているとの確信を抱き締めて奮闘する弟子――この麗しき師弟の精神は、仏意仏勅の創価学会に厳然と受け継がれている。
 かつて池田先生は心の内を語った。
 「私は、いつも『陰の人』を見ている。『陰の立場』で、コツコツと広布に戦ってくださっている方々を真剣に見つけ出し、最大に賞讃してさしあげたいという気持ちでいっぱいである」と。
 友のため、地域・社会のために尽くす行動は、誰の目にも触れないかもしれない。しかし、私たちのことを誰よりも心に掛け、励ましを送り、成長と勝利を待ち望んでいる師匠がいる。
 どこまでも師と共に! 師の期待にお応えする人生を!――この師弟の絆を持つ生き方は強く、深い。


【聖教ニュース】

◆創価大学留学生の修了式  2020年8月3日

交換留学生、別科特別履修生の修了式。試練に挑んだ経験を糧に、世界平和に貢献しゆくことを約し合った(創大中央教育棟・ディスカバリーホールで)

交換留学生、別科特別履修生の修了式。試練に挑んだ経験を糧に、世界平和に貢献しゆくことを約し合った(創大中央教育棟・ディスカバリーホールで)
 創価大学(東京・八王子市)で学んだ交換留学生、別科特別履修生の修了式が1日、創価大学中央教育棟・ディスカバリーホールで行われた。
  新型コロナウイルスの感染拡大の防止のため、式典はビデオ会議システムなどを活用して行われ、28カ国・地域の49人が同大学の課程を修了した。
  これには創立者・池田大作先生が祝福のメッセージを贈り、「強く賢く朗らかに学び抜きながら、平和と共生の地球社会を創造しゆく偉大な使命の人生を」と呼び掛けた。

交換留学生、別科特別履修生の修了式。互いの健闘をたたえ合い、社会貢献の人生を歩み抜く誓いを新たにした(同)

 世界62カ国・地域の225大学(5月末現在)と学術交流協定を結び、例年、多くの留学生でにぎわう創価大学のキャンパス。しかし、今年度の春学期は、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、ほぼ全ての授業が対面ではなく、オンラインで実施されることになった。

  “キャンパスに足を運んで学習できない”――感染症への不安とともに、思う存分に留学生活を送れない状況に、多くの学生が、もどかしさを隠せなかった。中には、各国の入国規制のため、休暇期間に母国に戻った後、日本に再入国できなくなった学生もいる。
 だが、このような葛藤の連続の中でも、英才たちは、挑戦のドラマをつづってきた。
 
池田先生がメッセージ 共生の地球社会の創造者に
 式典では、田代理事長が池田先生のメッセージを紹介。 
 その中で先生は、新型コロナの感染拡大の中で、忍耐強く探究を貫いた英才たちの奮闘を称賛。思うにまかせぬ環境を耐え抜いた日々は、学業の成果はもとより、何ものにも代え難い人格の錬磨となって、黄金の輝きを放っていると述べた。
 さらに、人生の途上に幾多の困難があろうとも、留学生活でつかんだ「不屈の青春の負けじ魂」「共に励まし合う若き世界市民の絆」「創価家族の輪と麗しき同窓の連帯」を忘れないでほしいと力説。
 「強く賢く朗らかに学び抜きながら、平和と共生の地球社会を創造しゆく偉大な使命の人生を、希望に燃えて勇敢に勝ち開いていってください」と呼び掛けた。

留学生を代表してあいさつするアメリー・イオピヒさん
28カ国・地域の英才が世界へ雄飛
 続いて、留学生を代表して、アメリー・イオピヒさん(ドイツ)、プールニマー・ウィジェコーンさん(スリランカ)が流ちょうな日本語であいさつした。
 「日常生活のあらゆる場面で、留学生を思う創立者の心を感じました」――こう振り返るのは、イオピヒさん。念願の創大生活では、美しい日本の言葉や文化に魅了され、充実した日々を送っていた。
 そんな日常が感染症の拡大で一変。心配する母親からは帰国を勧められた。 
 “どうすればいいのか……”。何度も心は揺れ動いた。しかし、「今しかできない経験がある」と、日本にとどまり、勉学に没頭した。自分の弱さに負けそうになる時もあったが、創立者の励ましを思い起こしては自らを奮い立たせた。 
 苦学を重ねる中で、仏教に深い関心を持つようになったという。将来は、創価大学大学院での研究を志す。

留学生を代表してあいさつするプールニマー・ウィジェコーンさん
 ウィジェコーンさんも日本への留学に強い憧れを抱いていた。母国のケラニア大学の教授に薦められ、創価大学で学ぶことを決めた。
 しかし、異国の地で直面する言葉や文化の壁に、苦労は絶えなかった。「最初はバスの乗り方も分からなくて(笑い)」 
 日本での生活に慣れてきたのも束の間、ウィジェコーンさんは、コロナ禍で大学に通えなくなり、大きな悲しみに包まれた。
 そうした中で心の支えとなったのは、創大の「秋桜寮」の仲間だった。中国やマレーシア、ブラジルなど世界各国から集った留学生が、いつも励ましの言葉を掛けてくれた。「まるで家族のように温かい存在でした」
 宝友との思い出を胸に、将来は、日本語教師を目指す。

代表2人に、馬場学長から“探究を貫いた証し”である修了証書が手渡された(同)
 ――式典では続いて、馬場学長が、創大で学んだ誇りを胸に、いかなる環境でも、他者の幸福のために、価値創造を実践しゆく一人一人にと望んだ。
  最後に、軽快なメロディーが場内に流れ始めた。オンラインでの参加者も、思い思いの振り付けをしながら口ずさむ。その曲は留学生歌「ハーモニー 心は一つ」。
  “離れていても、心は皆と共に!”――修了生たちは、創立者、そして宝の学友との絆を胸に、新たな人生の一歩を踏み出した。


◆8・31「学生部の日」へ行学錬磨 今月 伝統の教学実力試験
2020年8月3日

 8・31「部の日」を目指して、“行学の二道”を駆けゆく学生部。今月末に世界広布新時代第5回「学生部教学実力試験」を全国で実施する。
 
 「部の日」の淵源は、1962年(昭和37年)8月31日。この日、池田先生は、男女学生部の代表に「御義口伝」の講義を開始。魂の講義は月1回、約5年にわたって続けられた。 
 学生部指導集『先駆の誇り』の「発刊に寄せて」で、先生はこうつづった。
 「時代の趨勢を鋭く察知し、未来を見据えながら、仏子を厳護し、世界平和を創出していくのが、創価の普賢菩薩たる学生部である。だからこそ私は、学生部に『御義口伝』を講義し、日蓮仏法の真髄を研鑽し合った」 
 この指針のままに、学生部は、コロナ禍の中、知恵を湧かせ、オンラインを活用し、対話、人材育成、教学研さんに果敢に挑んでいる。 
 教学実力試験は、“新たな時代を開くのは我ら!”との普賢の誇りを胸に研さんに励んだ成果を確認する、絶好の機会となろう。 
 大綱は次の通り。 
                                    ◇  
 【日時】
 8月30日(日)。45分間。
 ※方面によって開催の時間が異なります。
 
 【出題範囲】
 <1>基礎教学
 ※参考書籍『教学入門――世界宗教の仏法を学ぶ』(本社刊)
 <2>御書
 ①「一生成仏抄」(全編)
 ②「観心本尊抄」(238ページ1行目~247ページ8行目)
 ③「佐渡御書」(全編)
 ④学生部2020年の要文20選
 ※「創価新報」の「学生部教学のページ」1~4月号、6、7月号を参照。


【特集記事・信仰体験など】

◆〈「新・人間革命」と私〉四国青年部長 豊岡賢一さん

〈心に刻む珠玉の言葉〉
 広布の道には、常にさまざまな障壁が立ちふさがっている。それでも、自他共の幸せのために、平和のために、進まねばならない。たとえば、陸路を断たれたら海路を、空路をと、次々と新しい手を考え、前進を重ねていくんだ。<第30巻(上)「雌伏しふく」の章>

〈時代背景〉
 1979年(昭和54年)4月24日に山本伸一が第3代会長を辞任した後、四国では伸一の訪問を希望する声が強くなっていた。実現が難しい状況の中、四国の友は自分たちから赴くことに決め、翌80年(同55年)1月14日、大型客船「さんふらわあ7号」で神奈川の師のもとへ集った。伸一は苦難に負けない尊き同志をたたえ、励ましを送る。

先生のもとへ
 四国の友が船で山本伸一のいる神奈川へ駆け付けた模様が描かれた「雌伏」の章は、四国の同志にとって大切な章です。
 当時は悪侶らの陰険な迫害の渦中。池田先生の行動が制約される中、広布の先輩方は“私たちが先生のもとへ”と行動を起こしたのです。同年5月にも、徳島と愛媛のメンバーがそれぞれ一度、神奈川を訪れています。
 その際に先生は、自ら出迎え、友と握手するなど励ましを送ってくださいました。さらに後年、当時を振り返って「一番大変な時に、まっ先に私のもとに来てくださったのが四国の方だった」と語ってくださっています。
 忘れてはならないのはこの時、四国の同志がすぐに学会理解を広げる行動を展開したことです。香川では池田先生の平和行動を紹介する展示を開き、徳島では友人参加の小単位の会合、高知では歓喜あふれる信仰体験の発表大会を開催。愛媛は男子部を先頭に壁を破る折伏に挑みました。
 その奮闘に応えるかのように、1981年(昭和56年)11月には先生が徳島と、香川の四国研修道場を訪問。この時につくられたのが、破邪顕正の魂あふれる学会歌「紅の歌」でした。師弟の麗しき絆がそこにあります。

師弟共戦の熱い思いを継承
 この四国の師弟共戦の歴史を学ぶ中で、「師を求める」模範の姿は、ただ師の事績を学ぶだけではなく、師の偉大さを宣揚する行動と勝利にあると痛感します。それは困難な状況にあってこそ、なお強くあらねばならないでしょう。“求道の航海”から40周年となる本年、私は青年部員一人一人とその精神を分かち合ってきました。
 また四国青年部は今、小説『新・人間革命』の感想を共有する取り組みで互いに触発を与え合っています。コロナ禍の中でも男子部、女子部、学生部それぞれが工夫を凝らしてオンラインで励ましを拡大。“先輩の温かい言葉に奮起し、人間革命の挑戦ができました”と喜ぶ青年の輪がどんどん広がっています。
 四国青年部は「どんな時でも先生のために、先生と共に」という熱い思いを受け継ぎ、広布拡大にさらに前進します。


◆〈ライフスタイル〉 Colorful  2020年8月3日
 ママたちの気持ちを代弁する映画を作りたい!

 現在、オンラインと映画館で上映中のドキュメンタリー映画「ママをやめてもいいですか⁉」。思わず手をたたいて笑い、声を出して泣き、共感できる!と、ママにもパパにも好評です。今作を企画・監督・撮影した豪田トモさんに、映画を作る経緯やそこに込めた思いについて聞きました。

映画監督 豪田トモさん
©2020『ママをやめてもいいですか⁉』

心のジレンマを表現
 ■今回の映画を製作するきっかけは?
 
 私はこれまで“命と家族”をテーマにした映画を製作してきましたが、今作の予定はありませんでした。
 転機となったのは、小説で産後うつに関する部分を執筆するために、50人を超える経験者に話を聞いたことです。
 そこで見えてきたのは、産後うつの現状だけでなく、人知れず育児に苦しみ、孤独やストレスを抱えているママたちの“リアル”でした。
 私は、強い危機感を抱きました。
 夫や家族、周りの人の愛情を感じて、ママは子どもを愛することができる。それがない孤独な状態での育児は、十分な愛情を得られない子どもたちを生み、社会に大きな負の連鎖を起こしてしまうのではないか……と。
 映画に携わる者として、何ができるのか真剣に考える中で、これまでママの気持ちを代弁するような映画がなかったことに気付いたんです。
 気付いてしまった以上、自分がやるしかない!と使命感が湧いてきました。

 ■タイトルが刺激的です。

 「ママをやめてしまう」ことを推奨しているわけではありません。“子どもはいとおしい。でも、離れたくなる時もある”というママたちの心のジレンマを表現しています。
 実際にアンケートでも、「ママをやめてもいいですか?と思ったことがあるか」との設問に、77%のママが「ある」と答えました。
 ママたちは、妊娠や出産、子育てが大変なのは当たり前という社会の“空気”や、周囲からの無言の圧力を感じて、自分の思いを閉じ込めてきたのではないでしょうか。
 だからこそ、このタイトルを見て「私だけじゃないんだ」とホッとしてもらえたら、うれしいです。

 ■製作過程で心掛けたことはありますか。

 考え方や感じ方に違いがある男女が、互いの理解を進めるにはどうしたらいいか、悩みました。
 例えば、取材中でも、ママ同士であれば「分かる、分かる!」と共感できることでも、“夫の立場からしたら……”と考えてしまい、理解できないことが、正直、あったんです。でも、これは夫婦関係でもそうですが、「分からない」とドアを閉じてしまうと、お互いの関係は先に進めない。「分からない」からこそ、「分かろう」という気持ちを持って、何度も話を聞く大切さに気付きました。
 パパの苦労をママたちに反発されず、どう表現するかにも苦心しました。ナレーションを変えたり、インタビューを追加したり……。試行錯誤の連続でした。
 そのかいあってか、観賞後、ママたちから「夫の気持ちが分かった」、パパたちは「妻のつらさを初めて理解した」などの反響をたくさん頂きました。
 さらにうれしかったのは、パパが家事・育児を進んでやるようになったという“小さな変化”を起こせたことです。男って、子どもが生まれると、出世したり、給料を倍にしたりしなきゃいけないと考えてしまう。でも、ママたちが望んでいるのは、一緒にお茶を飲む、皿を洗う、子どもと遊ぶとか、毎日の“ちょっとしたこと”なんですよね。

夫婦関係の「あいう」
 ■監督が夫婦のコミュニケーションで大切にしていることは?

 妻とは結婚して10年になりますが、トライ・アンド・エラーを経て、夫婦関係の「あいう」を心掛けています。
 「あ」は、「愛情表現」です。「好きだよ」「すてきだね」だけでなく、ねぎらいや感謝も伝えています。
 「い」は、「一緒にいる」です。物理的に一緒に過ごす時間がないと、夫婦といえどもすれ違ってしまう。コロナ禍だからではなく、僕はほぼ毎日、家で夕ご飯を食べます。飲み会にもほとんど行きません。友達は減るかもしれませんが、家族との時間を大切にしています。
 「う」は、「『うんうん』と話を聞く」です。話を聞く行為は相手を受け入れている証し。共感できない時もゼロではありませんが、とことん話を聞きます。子どもたちのためにも、その夫婦なりのすてきな関係を築いてほしいです。

 ■今後の展望を教えてください。

 今はコロナ禍で、母親・両親学級の閉鎖や立ち会い分娩の中止など、産前産後にパパが親の自覚を持つ機会が激減しました。
 パパが育児に無関心になったり、さじを投げたりして、ママの孤独が深まってしまうのではないかと、懸念しています。
 コロナ禍で出産したママと家族を守るために、オンラインでの両親学級の開催や、ママとパパのすれ違いを描いた絵本の制作などを進めています。
 子育て環境が良くなれば、日本はもっと、より良い社会になる。子育ては“国育て”――私はそう信じています。
 だからこそ、“命と家族”をテーマにした映画を撮り続け、子どもたちの幸せのために、自分ができることを全力でやっていきます。

 ごうだ・とも 6年間のサラリーマン生活の後、29歳でカナダ・バンクーバーへ渡り、映画製作の修業をする。カナダで製作した短編映画は、日本、バンクーバー、トロント等の映画祭で入選。帰国後はフリーランスの映像クリエーターとして活躍。命と家族をテーマとしたドキュメンタリー映画「うまれる」、「ずっと、いっしょ」は累計90万人超を動員した。著書に『オネエ産婦人科』(サンマーク出版)など。1児の父。

 「ママをやめてもいいですか⁉」
 産後うつを乗り越えて、新たな命の誕生を迎えるママ。わが子を抱き締めることができないママ……。子育てに奮闘するママと家族は、どんな答えを見つけ、歩んでいくのか。
【オンライン(8月31日まで)と映画館で同時上映中】

 製作・配給……インディゴ・フィルムズ
 ナレーション……大泉洋
 企画・監督・撮影……豪田トモ
 ホームページ
 http://www.umareru.jp/mamayame/#everycinema
 ホームページ上にオンライン上映10%OFFで観賞できるクーポンがあります。
 【編集】カラフル編集チーム 【写真・チラシ提供】2020『ママをやめてもいいですか⁉』


◆〈世界の体験プラザ〉 オランダSGI  カスパー・ファン・デル・ザイデさん
 オランダ政府・移民局の法定代理人
 難民と関わる仕事で 広布の使命を自覚

目の前の一人に希望を送りたい


人権侵害と戦争の被害者
 歴史的に多くの移民を受け入れてきた寛容の国・オランダ。近年は移民・難民政策の厳格化が進むが、2015年の欧州難民危機の際には、約6万人が難民申請。オランダ政府は、危機に直面する他の欧州諸国にも専門家を派遣し、難民の受け入れを支援した。 
 安全司法省・移民局で働くオランダSGIのカスパー・ファン・デル・ザイデさんも、当時、イタリアとギリシャの難民キャンプに派遣された。 
 「申請書類を審査して、条件を確認し、受理できるかどうかを決めるのが私の仕事でした。祖国を追われ、難民の申請をする方々の話に、毎日、胸をえぐられる思いでした。一生、脳裏から離れないような悲劇の体験も少なくありません」 
 全ての難民申請が受理できるわけではない。難民認定の基準に満たないと判断する場合もある。
 審査官として葛藤していたザイデさんを、SGIのリーダーが「たとえ申請を受理できない人でも、相手の幸福を願う祈りは必ず通じます」と励ましてくれた。
 満々たる生命力で目の前の一人に接して、どのような結果だとしても、希望を送りたい。ザイデさんはそう決めて、毎朝、御本尊に真剣に祈念して、難民申請者と向き合ってきた。 
 「何度も申請が受理されず、感情を失い、ぼうぜんと立ちすくむ女性がいました。おそらく誰も彼女の話を聞いてあげられなかったのでしょう。少しでも状況を知りたいと、私が話し掛けると、彼女は目に涙をいっぱいためて、長い時間、感情を吐露してくださいました」 
 ザイデさんは現在、法定代理人として政府の主張を裁判所で弁護する。オランダ政府が難民認定に関する国際的な義務を果たせるよう、法律の専門家として裁判に臨んでいる。
 「戦争と人権侵害の被害者と触れ合う中で、何としても広宣流布を進めなければならないと、深く自覚するようになりました。池田先生が教えてくださっているように、目の前の一人を尊敬して、大切にする精神を、裁判所でも実践したいと決意しています」

ありのままで個性を磨く
 ザイデさんは1986年、オランダ・ハーグ生まれ。高校生の時、父が突然倒れ、病院に運び込まれた。燃え尽き症候群だった。
 信心をしていた伯母が、すぐにザイデ家に駆け付け、「お父さんのために、一緒に南無妙法蓮華経の題目を唱えましょう」と。母は伯母を信じて必死に祈ったが、ザイデさんは断った。 
 母はその後も唱題を続け、父の症状も回復し、確信をつかんで入会。母が明るく変わっていく姿を見て、父と兄も信心を始めた。 
 ザイデさんは高校を卒業後、ユトレヒト大学に進学。楽しいはずのキャンパスライフとは裏腹に、心の中にずっと抱えていた空虚感が拭えず、一人思いふけってしまう生活だった。 
 自分の気持ちを悟られないように、友人に対して批判的な態度ばかりとってしまう。そんなザイデさんの幸福を祈り、粘り強く折伏してくれたのは、先に信心を始めた兄だった。 
 兄と一緒に活動していた、シンガポール出身のSGIメンバーが、ある日、ザイデさんに語った。 
 「唱題を続けると、正しい相手に対して、正しい環境で、正しい時に、批判的になれるよ」 
 腑に落ちた。他の誰かになる必要はない。ありのままの姿で、自分の個性を磨いていくのが、題目を唱えるということなのか――。さらに兄の友人は、仏壇をザイデさんにプレゼントしてから、シンガポールに帰国した。 
 オーストラリア・シドニー大学との交換留学プログラムに参加する際、ザイデさんはシンガポールを経由することにした。 
 兄の友人と再会し、2週間の滞在の中で、学生部の会合にも出席。人生の師を求め、人間革命しよう、成長して夢をつかもうと語り合う同年代の姿に、驚きを隠せなかった。 
 これまで、宿命を使命に変える体験をたくさん聞いてきた。今度は、自分自身が体験をつかんでみたい。オーストラリアへ向かう機中で、初めて、信心を真剣に実践したいと決意した。

全国男子部長としてメンバーのために尽くすザイデさん(左端)

師と同じ心で未来へ前進
 朝晩の勤行・唱題に挑戦し、地区の会合にも参加。人材グループ・創価班の一員としても活動した。信心に励むほどに、以前より他人に心を開けるようになり、気付けば多くの友人と笑い合える自分がいた。 
 オーストラリアにいた8カ月間で、小説『人間革命』全12巻を研さん。池田先生と同じように、師弟の道を歩みたいと誓った。オランダに帰国してすぐに、SGIに正式に入会。2008年9月のことだった。
 翌09年、日本でのSGI青年研修会に参加し、池田先生に初めて出会った。 
 「師にただ追随するのが弟子ではない。師と同じ心で、未来に向かって前進する後継者こそが、本当の弟子であることを、教えていただきました」 
 オランダ男子部の最前線で活動する中で、ユトレヒト大学大学院で法学修士号を取得。平和と人道に貢献できる、自身の使命の職場に就職したいと祈り、挑戦を続けた。 
 人権保護のプログラムやアメリカ議会での仕事など、一つずつ経験を積んでいった。そして13年、オランダ安全司法省・移民局への就職を勝ち取った。 
 「人道のために、厳しい現実の真っただ中で働きたいと祈った結果でした」 
 オランダの全国未来部長として、後継の友の激励にも奔走。15年、再び来日し、SGI青年研修会に参加。総本部で、師との出会いを再び果たした。 
 「池田先生は車中から、『ありがとう。ありがとう』と真心を込めて励ましてくださいました。その一言一言が、私の心に深く刻まれています」 
 16年、全国男子部長に就任。新時代に躍り出た、師弟に生きる欧州広布の若師子は、平和建設の決意に燃える。 
 「学会創立90周年の今年から、100周年の2030年を目指して、オランダ男子部の確固たる基盤を築きたい。池田先生が示してくださった世界平和のビジョンを実現できる自分へと成長するため、日々、人間革命に挑みます!」

 

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